216.私が……変わらなければいけないのかもしれない
アンナが物心ついたとき、そばにはすでにシウリスがいた。
兄妹のように、あるいは親しい友人のように、二人は共に育った。
相手が王子であると、はっきり認識したのはいつからだっただろう。
王位継承権を持つ一人として、彼は大人でさえ頭を垂れる存在だった。
シウリスはそれを当然のこととして受け入れていたし、アンナもまた、幼いながらに、それが当たり前なのだと理解していた。
けれど、そんなシウリスは──本当に、優しい子だった。
ことあるごとに「アンナ」と名を呼び、目が合えばにこりと笑う。
アンナもまた、その笑顔が心から嬉しかった。
ある冬の日のことだった。
その年は記録的な大雪に見舞われた。
朝早く、まだ誰の足跡もついていない中庭を見下ろし、シウリスは目を輝かせた。
「アンナ、いくぞ!」
手袋もつけぬまま、真っ白な雪の中へ駆け出していく背中を、アンナは慌てて追いかけた。
「シウリスさま、まってぇ!」
「ほら、はやく!」
本当に幼かったその頃は、手を取り合っても誰にも咎められなかった。
二人は笑いながら雪を投げ合い、凍えるほど夢中になって遊び──
そして、暖炉の前で体を寄せ合いながら、「たのしかったね」と、くすくす笑い合った。
そんな日々の中で、忘れられない出来事がある。
まだ幼い頃、アンナが誤ってリーン家の高価な花瓶を落として割ってしまったことがあった。
けれど、シウリスは咄嗟に「僕がやった」と言って庇ってくれたのだ。
罪悪感に押しつぶされそうになったアンナは、最終的に大人たちに自分の過ちだと打ち明けた。
「庇ってくれたのに申し訳ありません」と謝ると、シウリスは怒るどころか、優しくこう言った。
「気にするな。アンナの気持ちが楽になるなら、好きにすればいいんだ」
そして、にこりと笑って付け加えた。
「それより、怪我がなくてよかった」
──と。
好きになっては、いけない人だった。
庶民が手の届く相手ではないと、物心ついた頃にはもう気づいていた。
けれど。
──アンナ、ずっとそばにいる。
──シウリス様。ずっと、アンナのそばにいてください。
子どもの他愛ない口約束などではない。
それは、幼いながらに真剣に交わした、確かな誓いだった。
だからこそ、アンナは騎士になったのだ。
そして、婚約者を失った今もなお、その約束を守り続けようとしている。
シウリスのそばに──ただ、それだけの理由で。
(シウリス、様──)
怖くないわけではなかった。
怒りもあるし、許したわけでもない。
けれど──
今の彼がどうしてこうなってしまったのか、悲しい過去を知っているからこそ、アンナはただ拒絶することなど、できなかった。
それには、シウリスとの思い出が、あまりにも多すぎたのだ。
アンナ自身、どうすればいいのか──答えが出なかった。
しかし、なにも考えないままではいられない。
なぜあれほどまでに、シウリスは自分を追い詰めたのか。
傷つけることで、なにを伝えようとしたのか。
わだかまる思いの奥で、それでもアンナは理解したいと願っていた。
それは情なのか、執着なのか、騎士としての忠誠心か。
あるいは──あの「ずっと」という約束が、まだ心の中で終わっていないということなのかもしれない。
(私が……変わらなければいけないのかもしれない)
だが、どう変わればいいのか、なにも見えなかった。
過去の温もりと、いまの冷たい距離が胸の奥で絡まり合い、踏み出すべき一歩を曇らせる。
前に進むには、なにかを手放さねばならない気がして──怖かった。
「ん……んん……シ、ウ──」
「アンナ様!?」
もがくような夢の底から抜け出すと、そこには見慣れた金の髪と、泣きそうな瞳があった。
「ル……ティー……」
アンナがかすかにその名を呼ぶと、ルティーの顔が一気に崩れる。
「よかっ……た……本当によかったです……っ! もう、丸二日も目を覚まされなくて……!」
しゃくり上げる声。
細くなった頬に、心労の影が色濃く落ちていた。
アンナは、差し出そうとした手が動かず、かすかに眉を寄せた。
「すま、ない……ルティー……ありがとう……」
その一言で、ルティーは嗚咽を堪えるように唇を引き結び、首を横にぶんぶんと振った。
「なにも、おっしゃらないでください……! いまは、まだ……っ」
ルティーはアンナの手をそっと両手で包み込んだ。
その体温が、ようやく現実としてアンナの意識に染み込んでいく。
「みんな、心配していました。トラヴァス様も、カールさんも……もちろん、私も……ずっと……」
震える声が、心の奥に静かに届く。
(……私は、幸せ者だわ)
そう思った瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
今のシウリスには、こんなふうに泣いてくれる人が、どれほどいるだろう。
彼は、孤高の人だった。
恐れと敬意を向けられはしても、心から寄り添う者は稀だった。
誰よりも冷徹で、誰よりも正確に物事を進める。必要であれば粛清し、他国民には容赦がない。
彼の強さと成果は確かに国を支えているけれど、それが彼をより一層、孤独にしていた。
(グレイは……怒るかしら。シウリス様の孤独を、救ってあげたいだなんて思ったら)
壊されるほどに痛めつけられた体。
なのに、どうしても放っておけないという想いが、消えてくれない。
あの優しかった頃の彼に、もう一度──帰ってきてほしい。
シウリスならきっと、本当にこの国を治め、導く王になれる。
そう信じているからこそ、諦めきれなかった。
(きっと、グレイなら……私のやることを、最終的には許してくれる。心配させて、ごめんなさい……)
「……アンナ様──」
ルティーが、そっとハンカチでアンナの目元を拭った。
グレイを殺した相手を、どうしても恨みきれない。
それが、苦しくて、申し訳なくて。
けれどルティーは、なにも言わなかった。
ただ静かに、こぼれる雫を拭ってくれた。




