215.恐怖と……絶望をな。
母の死後、俺は王宮へと戻ることになった。
週末には必ず行っていたリーン家にも行くことはしなくなった。
妙な気を利かせたアリシアが、アンナを王宮に連れてくることはあったがな。
……俺は、話しかけもせずに、アンナを無視した。
それがアンナのためだとわかっていたからだ。
やがてアンナは王宮に来ることもなくなり、軍学校へ入ったとアリシアに聞いた。
そして……いつの間にかあいつは、そこで知り合った男と……婚約をしていた。
それでいいと思った。
もともと、俺がアンナを切り離したのは、あいつの幸せを思えばこそだ。
……どうしてだろうな。
そう思っていたはずであったというのに、俺は──。
……この話はやめだ。
うるさい、犬。
貴様はただ、俺の話に耳を傾けておればよいのだ。
ともかく、アンナは筆頭大将になった。
当然だな。幼き頃より、俺と切磋琢磨してきたのだ。筆頭大将にならぬ方がおかしい。
だが、出世が早すぎたのはあるだろう。アンナはまだ、アリシアの域にまでは達しておらん。
このままでは──アリシアの二の舞だ。
現状、あいつを鍛えられるのは俺のみだろう。
アンナの選び取る道は、ふたつにひとつ。
ひとつは、アリシアを超えるほどの力を得て、揺るぎない筆頭大将として生きていくこと。
もうひとつは……騎士からすっぱりと、手を引くことだ。
なぜ俺が、あの男の命日を選んで手合わせをしたと思っている。
アンナは、墓参りに行くつもりだったろう。
一日中、奴を思ってな。
俺はその時間を、奪ってやった。
それが嫌なら──騎士などやめてしまえばいいのだ。
あの男を思い続けたいなら、それもいい。
ただしそのときは、騎士ではなく、ただの女として生きるべきだ。
いつまでも死人の影を引きずっているようでは、剣など抜く資格はない。
過去に囚われたままの騎士に、未来を切り拓く力などあるわけはないのだ。
筆頭大将が、命日に感傷で剣の冴えを鈍らせるなど、笑い話にもならん。
喪失を抱えてなお立ち続ける者だけが、頂に立てる。
すべてを乗り越えること、それが筆頭大将の責務だ。
乗り越えられぬのなら、捨ててしまえ。
筆頭大将という座も、己の剣も、いっそ全部。
……だが、捨てきれぬのなら。
剣を取って、前に進むと決めたのなら──話は別だ。
今さら甘やかすつもりはない。
情けも、慰めも、俺の役目ではない。
俺は、ただ叩き込むだけだ。
恐怖と……絶望をな。
それを乗り越えられた時、初めて。
あいつは真の筆頭大将になる。
……そうでなければ、俺が叩き潰す。
皮肉な話だ。
アンナをこの手で二度と傷つけるまいと誓った俺が──誰よりも傷つけてしまうことになろうとはな。
いや、いい機会なのだ。
あいつは働きすぎる。優秀すぎるが故に、人に頼らず全部自分で背負ってしまうのだからな。
氷徹が筆頭代行を務めることができれば、今後のアンナの負担も減る。
これでアンナも人をうまく使えるようになるだろう。
休みは長めに言い渡した。たまにはゆっくりと羽を伸ばせばよいのだ。
……なんだ、貴様は。
俺の心を読んでいるのか?
確かに……お前の言う通り、それがすべてではない。
詰まるところ、俺は──
……命日に、アンナの心があいつで満たされるのが、許せなかっただけだ。
墓の前でずっとアンナが泣き続けるくらいなら……俺のことしか考えられなくしてやる。
たとえそれが、恐怖であり、絶望であったとしてもだ。
予想通り、アンナはこの二日間、あの男のことを考える暇もなかっただろう。
……これでよいのだ。
そのおかげで、アンナが逢い引きしている相手もわかったわけだしな。
おい、犬。
このことは、誰にも言うのではないぞ。わかったな?
言えばどうなるかわかっているだろう。
そうだな、犬鍋にしてしまってもよいのだぞ。
ッハ! 犬も、怯えた顔ができるのだな。傑作だ。
冗談だ。貴様など、食べる価値もない。
犬を食らうほど、食に困ってはおらんからな。
……だが、見逃すつもりもない。
アンナの傍に近づくものには、それ相応の目で見定めさせてもらう。
婚約者だろうが、部下だろうが、隊の仲間だろうがな。
それが騎士としてアンナを支えるに足る器か──
それとも、ただの馴れ合いでしかないのか。
俺の目は誤魔化せん。
……別に、嫉妬しているわけではない。ないぞ。
勘違いするなよ、犬。
アンナが誰かを信頼し、寄りかかれる存在を得るというのなら、それでいい。
そうあって然るべきだ。
俺でなくとも──よい。
……そう思っていた。
だが。
どうしても、納得がいかぬ時があるのだ。
アンナが他の男の話をするときの、あの無自覚な笑顔。
誰かと任務にあたる際に見せる、信頼のこもったまなざし。
俺には、向けたことのない顔だ。
ならば──俺は何だ?
恐れ、憎み、乗り越えようとした過去か?
傷つけた張本人か?
……それとも、ただ通り過ぎていった幼馴染みか。
くだらん。くだらん話だ。
だが、たまに思うのだ。
もし、あの時アンナを遠ざけなければ。
もし、あいつの手を、振り払わずにいたのなら──
……いや。やめだ。もう、過ぎたことだ。
過去に縋っていては、前には進めぬ。
それは俺自身が、アンナに叩きつけねばならん言葉だ。
ならば、俺もまた、進まねばならぬ。
──どこへ、か?
……ふっ。そんなもの、決まっておろう。
俺は、アンナの未来の前に立つ壁となる。
過去でも、影でもない。
真正面から、剣を交える相手として──
あいつのすべてを試す者として、生きる。
あいつが涙を隠してでも、前を向いて生きようとするのなら。
その道を、何度でも塞いでやろう。
乗り越えてみせろ、アンナ。
それができた時──俺は、お前にすべてを賭ける。
……それまでは、俺の背中など見せてはやらぬ。
──あくびをするな、犬。不敬罪であるぞ。
腹が満たされて眠気に襲われたか。
所詮は犬だな。
……ふん。お前は温かいのだな。
次から指笛は鳴らさんぞ。誰かに聞かれては面倒だ。
餌の匂いを嗅ぎつけて自分からやってこい。
わかったな。
……まぁ、現れなければ、少しくらい吹いてやらんでもないが、な。
明日の肉、期待しておけ。




