214.ある夏の日だった
……なんだ、貴様。
素手で触れているとでも、言いたげな目だな。
犬は論外だ。
この手触り──グローブ越しでは、味わえぬ。
大人しくしていろ。
ふん。……そう、だな。
あれほどまでに人との接触を忌み嫌った俺が、それでも平気だった相手がいる。
……そう、アンナだ。
とはいえ、手を触れるような機会など、せいぜいダンスの稽古くらいのものだったが──
いや。
……違うな。触れていたことは、あった。
あれは、俺が十の歳を迎えた頃のことだ。
母と、姉のラファエラと共に、俺は公務に出ていた。
その帰路で、何者かに襲撃されたのだ。
フィデルの刺客か、あるいはラウ派の陰謀か……今もって正体は定かではない。
ただ、事実は一つ。
ラファエラが、俺を庇って──死んだ。
もしも、あの時俺の手に剣があったならと、何度夢で思い返したか。
いや、持っていたところで、当時の俺には敵わなかったかもしれん。
それでも、泣いて立ち尽くすことしかできなかった自分を、俺は今も許せずにいる。
その時、俺も母も──殺されかけた。
間一髪、アリシアの部下が駆けつけ、命を拾ったがな。
俺はアンナの家に預けられた。
恐怖に震える夜、俺は──アンナの手を、ずっと握っていた。
あの小さな手の温かさに、ようやく眠りが訪れた。
ただ、それだけのことで、どれほど救われたか……。
だが、それは序章に過ぎなかった。
ラファエラを失った哀しみに、母は……壊れた。
自傷を繰り返す母の姿を見るたび、心が冷えていく。
俺たちは療養という名目で、ハナイの森の別荘へと隔離された。
後にルナリアが合流し、アンナは週末だけ訪れるようになった。
──ある夏の日だった。
俺がちょうど、十一歳を迎えた直後であったな。
蝉が鳴き止まぬ午後、母が俺とルナリアを呼んだ。
『ラファエラは天使だったわ』
そう言って俺たちを撫でた母の手は、かつてと同じく、優しくて、温かくて。
それが、俺が感じた母の最後の温もりとなった。
母は突然、『もう生きている意味などない』と嘆き。
『いっそこの手で殺してあげる』と叫びながら、ルナリアの首を締め始めたのだ。
止めても止まらぬ、母の異常な力。
苦しみ呼吸を止めるルナリア。
咄嗟に、俺は……椅子を掴み、母の頭に振り下ろした。
必死だった。ただ、ルナリアを守るために。
──即死だ。
優しかった母を、俺は自らの手で殺したのだ。
後から知った。
女医が〝呪いの書〟を使い、母の精神を歪めていたのだと。
でなければ、どれほど追い詰められていようと、母が我が子を殺そうとするはずがない。
俺は気が狂ったように暴れた。
室内のものをすべて破壊し、拳で壁を殴り、自分を傷つけようとした──
……そう、思い込んでいた。
実際には、それをすべて──アンナが受け止めていた。
俺が自分を傷つけぬよう、俺の拳を、腕を、叫びもせずに引き受けていたのだ。
気を失って目覚めた時、アンナの顔が視界にあった。
泣き出しそうな顔だった。けれど──あいつは一粒の涙すら流さなかった。
俺が、アンナを……傷つけたのだ。
誰よりも守りたかった存在を、この手で。
その日からだ。
俺はアンナを、遠ざけるようになった。
心配して声をかけてくるアンナに、『寄るな』と言い放った。
冷たく突き放すことで、俺の手から守れると信じて。
……怖かったのだ。
また同じことを繰り返し、アンナを壊してしまうのではないかと。
幼い日に交わした約束。
『ずっとそばにいる』と誓ったその言葉は──
アンナを傷つけるために言ったわけでは、断じてなかった。
今後、王族である俺の傍にいては、アンナも巻き込まれる可能性がある。
あの日を境に、俺は、アンナを突き放すことを決意した。せざるを、得なかった。
遠ざけることこそが、アンナのためになるのだと。
──それでも。
『シウリスさま。ずっとアンナのそばにいてください』
その約束を交わしたはずの俺の拒絶に、アンナはまるで……世界が壊れたかのような顔をした。
……それでも、泣いてはいなかった。
思えば、俺は一度として、アンナの泣き顔を見たことがない。
それに気づいた瞬間、悟ったのだ。
俺は、あいつのすべてを受け止められる男ではなかったと。
俺は、アンナを……ただ、悲しませることしかできぬ。
だから、アンナを切り離した。
庶民と王族では、所詮相入れぬ道であったのだと、自分に言い聞かせて──
それこそが、アンナが幸せになれるたった一つの道だと、信じて。
その日を境に、袂を分ったのだ。
……その、はずだった。




