213.それを〝愛〟と呼ぶならば
ピュウウッ──。
澄んだ夜の静寂を切り裂くように、指笛が高く鳴り響いた。
しばしの間をおいて、黒い影が草むらを滑るように駆けてくる。月明かりに浮かび上がったのは、狼にも似たハスキー犬──イークス。
その影は、シウリスの目前でぴたりと足を止めた。唸りも咆哮もなく、ただ鋭く光る瞳で彼を見上げ、鼻先をひくつかせる。
王の手に握られた、包みからかすかに漂う肉の香り──それをすでに嗅ぎ取っているのだ。
だが、シウリスはなに一つ取り出さなかった。かわりに腰に手を当て、冷たく獣を見下ろす。
「……餌が欲しいのなら、まずは示してみせろ」
その声音は低く鋭く、まるで生まれながらにして、相手を屈服させる権能をその身に宿しているかのようだった。
イークスは鼻を鳴らす。警戒の気配がわずかに揺れたが、逃げるそぶりは見せない。むしろ、真っすぐにシウリスの視線を受け止めている。
「俺の前に伏せよ」
その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
命令であり、試練であり、王としての絶対を示す言葉だ。
イークスはしばし動かなかった。けれど、わずかに揺れた耳が、確かに命を受け取っている。
そして──静かな沈黙の後、イークスはすっと前足を折った。
低く体勢を沈め、そのまま頭を垂れる。完全なる服従の姿勢。
シウリスはその姿を見下ろし、ふっと口角をわずかに上げた。
「……よくできたな」
抱えていた包みを片手で開く。中から姿を現したのは、艶めく赤身の塊。上質な肉の香りが、夜気に溶けて広がっていく。
包み紙を無造作に開ききると、シウリスはその肉をためらいなく地面へと落とした。
イークスは視線を上げ、許しを乞うようにシウリスを見上げる。
「毒など入っておらぬ。食え」
許可が下りたことを察したイークスは、即座に肉へと喰らいついた。
「これは、ただの肉ではない。貴族の食卓にも滅多に上らぬ、選りすぐりの上物だ。……貴様のような犬が口にするなど、本来ありえぬことだと知れ」
それが理解できているのかどうか。イークスは夢中で肉をむさぼる。
その様子を見つめながら、シウリスの唇から微かな息がこぼれた。
「アンナはまだ目を覚まさぬ。少し──やりすぎたかもしれん」
シウリスの呟きに、イークスは肉から顔を上げて、心配そうな目を向けた。
そんな視線を受け止めながら、シウリスは低く言い聞かせるように続ける。
「聞け、犬。昨日の続きを話してやろう」
夜の静けさの中で、王はまた、語り始めた。
***
俺には姉と兄、そして弟と妹がいた。
男の方は腹違いだがな。
我が国ストレイアでは、王にのみ、二人の妻を持つことが許されている。
理由は二つ。一つは王家の血を絶やさぬため。戦乱の世において、複数の後継者を持つことは保険でもある。
そしてもう一つは政略。複数の有力貴族と婚姻を結ぶことで、どこか一つの家系に権力が集中しないようにする……建前はな。
だが実際には、王といえど、必ずしも二人の妃を娶らねばならぬ決まりはない。
なのに、父王は──もう一人、王妃を迎え入れた。
第二王妃、ヒルデ。
あいつは、ことあるごとに俺の母に絡んでは、優位を誇示した。
『今晩はわたくしの元へ通ってくださるのよ。わたくしの方がいいとおっしゃるの。誰かさんと違ってね……おほほ』
──思い出すだけで吐き気がする。
母は、なにも言わなかった。ヒルデなど相手にしなかった。
それが正解だったということを、俺は後で知った。当時の俺は、その言葉の意味すらもわかっていなかった。
ある日、ヒルデに唆されて、俺はその部屋の扉をほんの少しだけ開いた。
ろうそくの淡い光の中で、父王の背中が見えた。
その腕の中には──笑みを浮かべるヒルデの姿。
勝ち誇ったような顔……おぞましい光景。
次の瞬間、血が逆流したように感じた。
なにをしているのか、理解できなかった。
ただ、体の内側がぞわりと爬虫類のような嫌悪感で満たされたのを、今でも覚えている。
俺は、逃げるように母の部屋へと走った。
そこには、椅子に腰掛け、物言わぬまま窓辺を見つめる母の姿があった。
そして、その頬を伝う一筋の涙。
気づかれまいと、母は静かにそれを指でぬぐい、俺を見て──笑った。
笑ったのだ。泣いている顔のままで。
その瞬間、胸の奥で黒いなにかが、爪を立てて這い上がってくるのを感じた。
──穢らわしい。
憎しみ、では足りなかった。
あの行為も、あの笑みも、そして母の涙を引き出したすべての元凶も。
ただ存在しているだけで、空気まで汚すような、そんな感覚だった。
この世には、触れてはならぬものがある──そう、あの日、骨の奥まで焼きついた。
男と女が交わるという行為。
欲望のままに誰かを求めること。
それらは忌まわしく、呪われた所業だとしか思えなかった。
──あれは、人を壊す。
ヒルデが見せつけた悦びと、母が流した涙。
その間にあったのは、愛などでは断じてない。
冷たく、ぬめりを帯びた汚泥のようなもの。
欲と、支配と、見せつけるための快楽。
俺は、絶対に……あんなものに染まるまい。
肉の交わりなど、獣の営みだ。
それを〝愛〟と呼ぶならば、その愛ごと俺は憎む。
母を傷つけたすべてを、骨の髄まで忌み嫌ってやる。
あの日からだ。
男女が寄り添う姿を見るだけで、胸がひりつくようになったのは。
奴の笑い声が、耳にこびりついて離れない。
あの光景が、脳裏から消えない。
──穢らわしい。
それほどまでして、人はなぜ、互いに近づこうとする?
欲望の果てに待つのは、破滅と、嘲笑と、涙だけだというのに。
あの夜、勝ち誇って笑ったヒルデの顔が。
そして、涙を見せまいとして微笑んだ母の顔が。
心に焼きついている限り、俺はきっと──
誰も、素肌では触れられない。




