212.こんな目に遭わせたのは
翌日も、ルティーは静かにアンナの回復に尽くしていた。
目を覚まさぬままだったが、呼吸は昨日よりもわずかに安定している。命の火は灯っているようだった。
「アンナ様……」
椅子に腰掛け、祈るように彼女の顔を見つめていたルティーの背後で、突然扉が勢いよく開かれる。
びくりと体を震わせたルティーは、条件反射で立ち上がった。
「シウリス、様……っ!」
現れたのは、この国の王。だが、今の彼からは威厳よりも鋭利な殺気が立ちのぼっていた。
「小娘……アンナは、まだ目を覚まさぬのか」
低く押し殺した声が、部屋の空気を凍りつかせる。
途端に、心臓が悲鳴を上げる。鼓動が喉元で跳ね、息を呑むのがやっとだった。
「はい……まだ、その様子はありません」
声を震わせながらも答えるルティーに、シウリスは冷たい視線を落とす。
「アンナを死なせれば、どうなるか。貴様にもわかっているだろうな」
その一言で、堪えていたものが奥歯を軋ませるほど込み上げてきた。
(そもそも……! アンナ様をこんな目に遭わせたのは、シウリス様ではありませんか……!)
叫びたい思いを必死に呑み込み、ルティーは感情を押し殺す。
たとえ相手が憎むべき元凶でも、目の前の男は王なのだ。
「……ご安心ください。私の命に代えても、アンナ様はお救いいたします」
震える声。それでもまっすぐに。怯えを押し隠し、ルティーは静かに告げた。
その強さに、シウリスの目が細められる。
「アンナ様は、シウリス様にとっても……かけがえのない方のはずです。どうか今は……そっと、見守ってあげてはいただけませんか」
その瞬間だった。
張りつめた空気に、雷が落ちたような怒号が響き渡る。
「……誰が、アンナを〝かけがえのない者〟などと、言った!!」
怒気を孕んだ声が壁を震わせ、重くのしかかる威圧が、ルティーの足元に鋭く突き刺さる。
床が軋むほどの勢いでシウリスが一歩、彼女に詰め寄った。
思わず肩を強張らせる。だが、ルティーの足は動かなかった。
恐怖に足がすくんだのではない。ただ、守りたかった。
アンナのために、ここで退くわけにはいかない。
「……わたし、は……っ。それでも、そう思っただけです……!」
声が掠れる。喉がひりつく。
けれど、揺るがぬ瞳でルティーは王を見つめ返す。
「知った風な口を……聞くな!!」
シウリスの怒声が、魂を抉るように響いた。
それでも、ルティーは瞳を逸らさない。震える膝に力を込め、胸に秘めた思いをまっすぐにぶつける。
「アンナ様が……どれだけの犠牲を払い、どれほど国を想い、陛下を想ってこられたか……! 私にはわからぬこともあります。ですが、アンナ様は……一度たりとも、陛下を責めることなど、ございませんでした!」
シウリスの双眸が、かすかに揺れる。
怒り、混乱、そして──悲しみ。
すべてが渦を巻くその瞳を、ルティーは確かに見た。
「……くだらん」
小さく、深く唸るような声で吐き捨てたシウリスは、ルティーから顔を背ける。
次いで、静かにアンナの寝台へと視線を落とした。
その目に宿った光は、これまでとはまるで別物で。
凍てついたように冷たい氷の中に、かすかに射す柔らかな光。
それはまるで、壊れそうなガラス細工を見つめるような──あるいは、取り返しのつかない過去を見つめるような眼差しだった。
浅く上下する胸、乾いた唇。
「……俺は──」
かすかな吐息と共に、その言葉は誰にも届かぬように零れた。
優しさに似た響きすら、微かに滲んでいた。
シウリスは静かに、アンナの枕元へと歩み寄る。
そっと伸ばされた手が、しかしその直前で止まる。
わずか数センチの距離。だがその距離が、シウリスには果てしなく遠く思えた。
触れてしまえば、アンナを壊してしまいそうで。
取り返しがつかないほど、今度こそめちゃくちゃに。
(穢れているのは……俺、か──?)
数多の命を奪い、血を浴び、アンナの婚約者さえも手にかけた。
アンナの世界を壊したのは、紛れもなく、この自分なのだ。
シウリスは、手を下ろす。
震える指先をそのままに、視線だけが彼女に留まった。
唇が静かに形づくる。
声にはなっていない。けれど、それは確かに、彼女の名だった。
アンナ。
そのひとことが、胸を抉る。
もはや癒えぬ痛みを、再び呼び起こす。
シウリスはひとつ、深く息を吐いた。
背を向け、ゆっくりと踵を返す。
「……まだ死ぬなよ。アンナ」
扉の前で、ふと足を止める。
ルティーが言葉を紡ぐよりも早く──低く、呟くような声が落ちた。
「……お前を、殺すのも。穢せるのも」
その声には、激情でも憎悪でもない。
ただ、己を呪うような、切実な痛みが宿っていた。
「この俺だけだ」
それはまるで、祈りにも似た呪いだった。
たとえ誰にも届かずとも、深く、この部屋に刻み込まれた言葉。
シウリスは振り返ることなく、扉の向こうへと去っていった。
ルティーは、ただ呆然とその背を見送る。
残されたのは、静寂。
がくりと膝が折れそうになる。
脚に力が入らない。立っていることすら、ひどく困難だった。
(こわい……っ)
遅れてやってきた恐怖が、全身を襲う。
喉がひきつる。呼吸は浅く、肺がまともに動いていない。
背中を伝う汗が冷たく、ぞっとするほど現実の感覚を刻みつけた。
なにかが壊れてしまいそうなほどの恐怖。
あの男の言葉も、眼差しも、存在そのものが。
まるで、生きたまま首を掴まれていたかのような、凍りつくような圧。
足元がふらつく。手が震える。唇の端がかすかに痙攣していた。
「……アンナ様……あなたは、どうして……あのお方を──許されるのですか……っ」
震える声で、誰に届くともなく問う。
理解したくない想いと、理解してしまった事実が喉に詰まり、言葉を苦くする。
ルティーは閉ざされた扉の向こうを見つめた。
奥歯を噛みしめながら、ただひたすらに。
それが愛なのか、狂気なのか、ただの業なのか。
わからない。ただ一つだけ、確かなことがあった。
あの扉の向こうへ消えた男は、誰よりも深く、誰よりも激しく──
アンナを、欲していた。




