211.おい、貴様……聞いているのか?
裏山に、鋭い指笛の音が響き渡る。
あたりはすでに夕闇に包まれており、月明かりがかすかに地面を照らしていた。しかし、鬱蒼と茂る木々にその光は遮られ、山全体が深い闇に沈んでいる。
笛の鳴った方向へ向かって、なにかが勢いよく走り出した。
──その者の名は、イークス。
この山に住み始めて一ヶ月が経った彼は、野生の本能を頼りに小動物を狩り、木の実を見つけては口にし、山の夜をささやかな楽しみとともに過ごしていた。
笛の音は、彼にとって嬉しい合図だった。
アンナが食事を持ってくるときの、決まりごとである。
「わんっ!!」
短く吠えて、イークスは勢いよく坂を駆け下りる。
その瞬間──体が、ぴたりと止まった。
魔物にすら躊躇なく牙を剥くイークスが、身じろぎ一つできない。
その場で、足をすくませていた。
「動くな」
闇の中から放たれた命令の声に、イークスの背筋が一気に硬直する。
暗闇を切り裂くような鋭い眼光が、木々の影から射抜いてくる。
それは、魔物以上の威圧感をまとっていた。
声の主が姿を現した時、イークスの全身は震え、耳が伏せられる。自然界の摂理が告げていた──目の前に立つこの存在には、決して敵わないと。
「犬。アンナが密かに会っていたのは、貴様か」
怯えるイークスへと、男は一歩また一歩と近づいていく。
その威圧に、腹を見せることすら忘れているイークスの頭へ、大きな手がゆっくりと伸ばされた。
そして──もふり。
「……ほう」
男の口元が、にやりと釣り上がる。
「なかなかの手触りだ。悪くない」
優雅に動くその手に撫でられるうち、イークスの体から強張りが少しずつ消えていった。
「貴様、ここで飼われているのか?」
「……きゅうん」
「主人はアンナであろう。俺への報告を終えると、部屋へ戻らずどこかへ出掛けていたからな。その直後指笛が鳴れば、見当はつく。男と相引きしているのかと思っていたが……犬とはな」
言い終えると、男──この国の王であるシウリスは踵を返し、だがその目線だけは、イークスを貫くように向ける。
「しばらくアンナは来れん。少し待っていろ、なにか持ってきてやる」
不思議そうなイークスの顔に、月の光がそっと触れていた。
***
骨付き肉を咥えたイークスは、夢中でそれを貪っている。
肉に食らいつき、前足で押さえ込みながら、骨の隙間まで舐めるようにかぶりついていた。
「大喰らいの犬めが」
ハッと笑いながら、シウリスは近くの倒木へと腰を下ろす。
夜気は涼しく、わずかに湿った風が木々の間をすり抜けていった。
薄い月明かりの中で、イークスが上級の肉を貪る姿を見つめる。
久しぶりの指笛に、シウリスは記憶を静かに揺り起こした。
「アンナは、指笛が上手くなったが──昔はまったく鳴らせなかった」
シウリスの声はふと懐かしさを帯びる。話しかけられたイークスは、一瞬だけピンと耳を立て、しかしすぐに肉の方へと夢中になった。
「きっかけは、アリシアだった。緊急の合図として指笛を鳴らす姿が、俺たちにはやたら格好よく見えたのだ。当時五歳だった俺とアンナは、その日から毎日練習した。これが、中々上手く鳴らせなくてな」
二人で鳴らないと首を傾げ合いながら練習した日々を思い出し、シウリスはふっと笑みを漏らす。
「俺の方が先に鳴らせるようになった。アンナは悔しがるでもなく、『すごいです、シウリスさま!』と目を輝かせて、褒めてくれてな。……あれは、なかなかに鼻が高かったぞ」
何度も何度も『さすがです!』と褒めてくれた、アンナの尊敬の念が込められた笑顔。それは、今思い出しても悪くない。
「その後も、アンナは毎日練習を続けた。一年経っても音は出せなかったが、諦める様子はなかった。聞いたことがある。なぜそこまで続けるのかと」
間を置いて、シウリスはイークスを見た。
「『シウリスさまに危険があった時、いち早く知らせたいからです』……そう言ったのだ」
火照った胸の奥を、月の光がそっと撫でる。
あのとき感じた嬉しさと照れ臭さは、今も鮮明に蘇る。
「初めて音を出せた時のアンナは……可愛くてな」
そのアンナの顔を、シウリスは忘れられない。
泣きそうな顔をしながら、『シウリスさまがおしえてくださったおかげです』と飛び上がるほど喜んでいたことを。
「アンナは、なんでも器用にこなすと思われがちだが、あれはどちらかというと不器用な女だ。ただ──努力で、すべてを越えていく」
シウリスがイークスに目を向けると、まだイークスは必死になって骨をしゃぶっている。
「おい、貴様……聞いているのか?」
「……わふ?」
幸せそうな顔をして頭を上げたイークスを見て、シウリスはふっと頬を緩める。
「──犬に言ったところで理解などできぬか」
「わうわん!」
「フン、生意気なやつめ……ならば──聞け」
そう言ってまた、シウリスはアンナとの思い出を話し始めた。
***
俺は母の生家である、リーン家で育った。
母のマーディアは、アリシアの娘であるアンナを預かって一緒に育てることにしたのだ。
政治的な思惑はあったであろう。
俺は八月生まれ、アンナは九月生まれの一ヶ月違い。
生まれた時から一緒に育ったと言っていい。
アンナは、なんにでも懸命な子どもであった。
努力家で、俺の言葉には常に忠実。
王子である俺に一切の無礼を働かぬよう、礼儀作法は厳しく仕込まれていたからな。
しかし友人であり、ライバルでもあった。
三つになると、一緒に剣術を習ってな……。
あの頃は、楽しかった。
アリシアの教えは無茶苦茶だったが、俺には合っていたな。
逆にアンナは別の者が師であった方が、伸びたかもしれん。
当時、何度もアンナと手合わせしたが、俺が負けたことはなかった。
二人で、アリシアに挑んだこともあったぞ。
軽くあしらわれて終わったが。
憤る俺に、アンナは言うのだ。
『シウリスさまなら、かならずおかあさんにかてます。アンナはしんじております』
……とな。
そして、共に鍛錬に励んだ。
剣術だけではない。勉学も共にした。
家庭教師に学び、同じテストをし、点数を競い合った。
こちらは勝ったり負けたりではあったな。アンナは優秀だ。
俺が帝王学を学んでいる間は、侍女たちに徹底してマナーを叩き込まれていたようだ。
言葉遣いや振る舞いは、日に日に上達していった。
しかし……アンナが完璧になるにつれて、少し距離を感じたのは確かだった。
当然なのだがな。
アンナは代々武将の家でアリシアが筆頭大将と言っても、庶民には変わりない。
それをアンナも理解していたのだろう。
俺が身分など気にしなくともよいと言っても、アンナは困って笑うだけであった。
そういうところは、俺よりもアンナの方が、よほど大人びていた。
アンナと一緒ならば、剣術を習うことも勉学に勤しむことも、すべてが楽しかったが……
やはり一番は、ダンスの稽古であったな。
あいつは踊ると活き活きし始めるのだ。
心底幸せそうに笑いながら、踊る。
同い年であれだけ踊れる者はいなかったからな。
ダンスの相手は、必ずアンナとしていた。
ちゃんと聞け、犬。お前の主人のことだ。
アンナは、王族である俺と、ほぼ変わらぬ教育を受けてきたのだ。
誇れ。一般庶民がこれほどまでの教養を嗜むことはない。
それでいて、今は筆頭大将なのだからな。
──相応しいというものだ。
なににだと? 犬に言う必要などあるまい。
俺は……アンナはずっと俺の傍にいるものだと信じて疑わなかった。
アンナはいつも俺を気にかけていたし、そういうものだと思っていた。
しかし、アンナは顔に出していない思っていたようだが、時折りひどく寂しそうな顔をしていてな。
それというのも、アンナには父親がおらず、アリシアは忙しくしていたからだ。
アンナが幼年学校に入学すると、一緒にいる時間はぐっと減った。
俺は王宮へ行かなくてはならなくなったしな。
それでも互いの勉学が終われば、リーン家で会い、週末も一緒に過ごした。
一度だけ、この裏山に駆け込んだことがある。
九つの頃だった。
護衛の目を盗み、アンナとふたり、抜け出した。
あの時は……ただ、二人きりでいたかった。
山を走り回り、泉に足を浸し、木の影に隠れて笑った。
ダンス以外では触れることのなかった手に触れ合った──。
俺たちは、あの時間を、宝物のように感じていた。
……懐かしい。
探しに来た大人たちに見つからないように逃げ回るのが、楽しかった。
そのうちに日が暮れ始めて……俺もアンナも心細くなった頃、アリシアに見つけ出されてな。
二人まとめて抱きしめられたあと、雷が落ちたかのように怒られた。
俺に対して容赦なく怒るのは、アリシアくらいのものだ。
ただの裏山だが、俺とアンナは大冒険をしたようにドキドキした。
幼い、冒険だ。
…………。
なんだ、犬。
この俺におかわりを催促するなど、貴様くらいのものだぞ。
……明日もアンナは起きられん。
この俺が直々に手を下してやったからな。
フン、この俺に唸り声をあげるなど、いい度胸をしている。気に入った。
話の続きは明日してやる。
その肉は美味かっただろう?
貴様はもう、俺の手の内だ。
アンナが来られん間はこの俺が直々に面倒を見てやろう。喜ぶのだな。




