210.マジで意味わかんねぇ……
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ルティーが再びアンナの部屋に戻ったとき、彼女は痛みのせいか、眉間に皺を寄せて眠っていた。
額に浮かぶ微かな汗。唇はわずかに乾いている。けれど、その胸はゆるやかに上下していて、確かに生きていると知らせていた。
(……よかった)
ルティーは胸を撫で下ろし、そっとベッドの傍に腰を下ろす。
食事と睡眠で魔力を補ったおかげで、ほんのわずかに力が戻っていた。
「……少しでも、楽に……」
誰にともなく呟いて、彼女は手をアンナの額へと添える。
魔力の流れに集中し、もう一度、回復魔法を展開した。先ほどに比べれば微弱なもの。それでも、苦しみを和らげる程度の癒しにはなるはずだ。
魔力の尽きかけたその手がようやく離れたとき、ルティーはひとつ息をついて立ち上がり、ソファへと歩み寄った。
ためらいなく身を沈め、ふう、と長い息を吐く。
(……疲れた……)
目を閉じると、今日という一日の光景が、頭の中に濃密に押し寄せてくる。
シウリスとアンナの命を賭けた手合わせ。
怒号と剣戟、鮮血の匂い。
(シウリス様は、どうしてアンナ様を目の敵のように……ううん、逆?)
あの時ルティーは、王の行動に矛盾を感じていた。
(……シウリス様は、アンナ様を殺そうとしたように見えた……なのに、最後には回復を許してくれた)
あの瞬間は、理解が追いつかなかった。けれど今になって、じわじわと、得体の知れない違和感が広がってくる。
シウリスの命で回復魔法だけは認められたのに、回復薬の使用は禁じられていた。
その理由が、どうにも腑に落ちない。
(回復薬は魔法陣が描かれた魔導紙と違って、直接体内に入れないと効果がない。ゾルダン先生が言ってた……意識のない人には、口移しが最も有効だって)
一滴でも喉に入りさえすれば、そこから回復し、無意識でも嚥下反射ができるからだ。
だが、シウリスはそれをさせなかった。
(……トラヴァス様が使うことを──拒んだように、見えた)
ルティーは回復魔法で手が離せなかったし、持っていたトラヴァスがアンナに使うことになったはずだ。
(相手がトラヴァス様だったから? それとも、ゾルダン先生や私の医療行為だったとしても、許されなかった?)
グローブをトラヴァスに投げつけた時の、シウリスの言葉を思い出す。
──貴様のような穢れた男が、素手でアンナに触れるなど、耐え難い。
(あの言葉は、なに……?)
シウリスの声音、目線、怒りの鋭さが鮮烈に蘇る。
ただの潔癖では片づけられない。怒りにも似た、強すぎる拒絶。
そこには確かな感情があった──
(シウリス様は多分、トラヴァス様を嫌っている。理由はわからないけど──でも、それだけ?)
矛盾はまだある。
命を奪うほどに攻撃しながら、死なせることは許さなかった。
むしろ、回復に必要な時間だけは与えられていた。
延命させたとも取れる、不自然な采配。
(治療を引き延ばす目的があったということ? なんのために?)
理由を求めても、答えは闇の中だ。
けれど、ぐるぐるとルティーの思考は巡っていく。
(もしかしたら、そんな複雑な話じゃないのかも……)
ソファの上で目を細めると、小さなランプの灯りの揺れる室内の中、アンナの眠るベッドがぼんやりと視界に入った。
彼女の横顔は美しく、静かに、儚げに浮かび上がる。
ルティーはもっと過去のことへと記憶を遡らせた。
アンナの最愛の人が亡くなった時のことへと。
(シウリス様は……どうして、グレイさんを──)
シウリスがグレイを殺した理由。
それは、いまだ答えの出ない問いのひとつだ。
シウリスとアンナ。アンナとグレイ。
渦巻く疑念と、解けない謎と、痛ましい現実。
〝どうして〟が、終わらない。
それでも、疲労には抗えなかった。
まぶたが落ち、意識がじわりと溶けていく。
(わからない……けど……守らなきゃ……私が、今度こそ……)
最後にそんな想いを胸に抱いたまま、ルティーの意識は静かに、闇の深みに沈んでいった。
***
トラヴァスの部屋では、カールがソファでゴロリと転がっていた。
「本当にそこでいいのか? 落ちないだろうな」
「わかんね。ま、落ちてもここの絨毯はふかふかだからよ。気にすんなって」
「カールがいいなら、問題はないのだが」
少し呆れたように、トラヴァスは横になったカールを見下ろした。
「お前は、アンナの傍に行くと言い出しかねんと思っていたが」
「言わねぇよ。ルティーがついてんだ。それにずっとアンナについてるのがバレたら、俺たちの首が飛んじまうぜ」
「……そうだな。ひとまずアンナは生きながらえた。それでよしとすべきか」
そう口にしてはみたものの、二人の顔には沈鬱な影が差したままだった。
「トラヴァス……お前、大丈夫かよ」
「シウリス様に〝穢れた男〟と言われたことか? 気にするな。我慢は……できるようになった」
一時はその言葉を耳にするたびに、ヒルデとの情事が脳裏に蘇り、嘔吐感を催すほどだった。
もちろん記憶が消えることはない。それでも、時が少しずつ感覚を鈍らせたのか、いまでは以前のような強烈な吐き気に襲われることはなくなった。
「けどよ……グローブまでさせるなんて、異常だぜ」
「シウリス様に嫌われていることは、承知している」
「それだけじゃねぇ気がすんだよな。……シウリス様、なんでアンナに執着してんだよ。今日、グレイの命日だぜ。墓参りに行かせたくなかったってか? 子どもかよ」
カールの言葉に、トラヴァスは一瞬だけ黙り込み、低く答えた。
「アンナへの執着なのか、グレイへの怒りなのかはわからんが……今後もこの手合わせはあり得るということだ」
「マジで意味わかんねぇ……」
不穏な予感を孕みながら、二人の中に、シウリスへの憎しみがじわりと積もっていく。
だがそれは、カールをフリッツ派へと引き入れたいトラヴァスにとって、悪い流れではなかった。
もちろん、アンナを傷つけられるのを看過するつもりはなかったが。
(グレイを殺され、自身もこれだけ傷つけられたのだ。アンナがシウリス派でなくなることは、あり得るかもしれん)
トラヴァスの一番の望みはそれだ。
しかしアンナは律儀で融通の効かないところがある。
もしトラヴァスがフリッツ派であることをアンナに告げれば、即刻アンナはシウリスに報告してしまう可能性もあった。安易にシウリスの簒奪を狙っていることを告げるわけにもいかない。
(シウリス様は政治の才においては、誰もが認める力を持っている。粗を探すのは難しい。かといって、力づくで退けるわけにもいかない……やれば、処分されるのはこちらだ)
それでも、シウリスの支配をこのままにするつもりはなかった。
たとえ王として有能であろうと、味方を踏みにじるような者に国の未来を託すわけにはいかない。
シウリスの描く平和は、戦火の果てにしか見えない。それがトラヴァスには、どうしても受け入れられなかった。
トラヴァスは機をうかがっているのだ。
いずれ、王座を奪うために。
フリッツを王とし、真の平和をこの手に掴むことを信じて。
「しっかし今日のアンナは……負けたとはいえ、また一段と強くなってなかったか?」
カールの問いかけに、トラヴァスは深く頷いた。
「強者と相まみえることで、実力は引き出される。それにアリシア様の〝救済の書〟を習得したことも、影響しているのかもしれんな」
「書に力を引き継ぐ効果なんてあんのかよ」
カールは眉をひそめ、信じがたいといった顔でトラヴァスを見やった。
「稀にあると聞く。特にアリシア様とアンナは母娘だ。経験が受け継がれていても不思議ではない。……あと二、三年もすれば、アリシア様を超える日が来るかもしれん」
「マジかよ」
「私たちも負けてはいられないな」
「わぁってら」
誰よりも先を駆けるアンナに、置いていかれぬように。
立ち止まる暇など、ない。
「……灯りを消すぞ」
「おう」
トラヴァスがランプの火を吹き消した、まさにそのときだった。
ピュウウッ──と、どこからともなく細い音が耳を打つ。
「鳥か? 最近よく聞くよな」
「今なにか鳴ったか? お前は耳がいいな。もう寝ろ、明日も早いぞ」
「……そうだな」
カールが寝返りを打ち、トラヴァスは窓の外を一瞥しただけで、何事もなかったかのようにベッドへと身を沈める。
ピュウウッ──
その音は、確かにあの合図に似ていた。
けれど今、それを使えるはずの女性は、城の一室で眠っている。
身動きもできぬまま、深い痛みと疲労に囚われて。
しかし、音の正体を気にする者はいなかった。
ただの鳥の声か、風の悪戯だろうと。
二人もまた、それ以上は考えず、静けさの中に身を預けて、やがて眠りについた。




