209.私の、お仕事ですから
「……う、ん……」
ぼんやりとした意識のなかで、ルティーはゆっくりと瞼を開けた。
目に映るのは、見慣れた天井ではない。自室のベッドの感触とも違う。代わりに肌に伝わるのは、ふかふかとした柔らかな感触と、微かに残る人の体温。
「おっ、トラヴァス! ルティーが目ぇ覚ましたぜ!」
はつらつとした声が耳に飛び込んでくる。視界に現れたのは、赤毛を無造作に後ろへ掻き上げながら笑っている青年──カールだった。
(ここは、どこ……?)
ようやく思考が動き始めたその瞬間、胸の奥にあった不安が一気に噴き上がる。
「アンナ様──っ」
ソファの上から跳ね起きた途端、視界がぐらりと揺れ、足元がふらついた。
「ルティー」
呼び掛けの声とともに、抱きとめる腕がルティーを支える。その瞬間、氷徹の異名を持つ男──トラヴァスの腕から、意外なほどの温もりが伝わってきた。
「アンナ様は……」
「大丈夫だ、自室で眠っている。ここは私の部屋だ」
「びっくりしたぜ。メシ呼びに行ったら、ルティーが床に倒れてんだもんよ」
カールの言葉に、ルティーの頬がふっと赤く染まった。
「す、すみません……」
「気にすんなって! 魔力、使いすぎたんだろ?」
気遣う色が、彼らの声の端々に滲んでいる。
「立てるか」
「……はい。大丈夫です」
トラヴァスの腕からそっと離れ、ルティーは彼のアイスブルーの瞳を見上げた。
いつものように無表情。
けれどそこに、冷たさは感じられなかった。
「怪我もなかったのでな。魔力の酷使と判断して、こちらに運んだ。カールもいたし、二人きりにはなっていないから安心してくれ」
「……アンナ様のお部屋に二人きりでは、またシウリス様のお怒りに触れてしまいかねませんものね」
ルティーの苦笑まじりの言葉に、トラヴァスの瞳がわずかに見開かれる。
「いや、今のは……ルティーの話だったのだが」
「え……? 私、ですか?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
まさか、自分がそのような気遣いをされていたとは、夢にも思っていなかった。
「当然だろ、女の子だしな!」
カールがにっと笑っていて、なんとなく納得する。気にしたのはどちらかというと、カールの方だと。
トラヴァスの配慮は、どこか理知的で、親が子を気にかけるような穏やかな優しさ。彼との年齢差を思えば、それも自然なことだとルティーは思った。
「お気遣い、ありがとうございます。では私は、アンナ様のところに戻りますので」
「ちょっと待てって。冷めちまったけどよ、食ってけよ。じゃねぇと力、出ねぇぞ」
ふと目をやれば、テーブルの上に夕食が並んでいる。
「でも……」
「ルティーのおかげで、アンナの顔色もマシになってたしよ。ありがとうな!」
「それは……私の、お仕事ですから」
「ならば今は、食べて力を戻すことがルティーの仕事だ。ちゃんと食べてしっかり眠らねば、魔力は回復しないとわかっているだろう」
穏やかに諭すようなトラヴァスの言葉に、ルティーは観念して席に着く。
香ばしい匂いが鼻をくすぐった瞬間、胃がきゅう、と小さく鳴った。
「──っ!!」
途端に顔が真っ赤に染まる。慌ててトラヴァスを見上げると、彼は珍しく、ふっと口元をゆるめていた。
カールはなにも聞こえなかったふりをして、新聞を大げさに広げている。
「い、いただきます……」
「一人では食べにくかろう。少し、付き合おう」
「ありがとうございます……」
トラヴァスはすでに食事を終えていたはずなのに、ルティーのためにと席についた。
遠慮がちにフォークを手に取りながら、ルティーはそっと視線を巡らせる。この部屋は、アンナの部屋とは明らかに趣が異なる。壁のあちこちに設けられた書棚には、びっしりと本が詰め込まれていた。
(ここからじゃ、見えないけど……トラヴァス様はきっと、難しい本ばかり読まれてるんだろうな)
本棚に整然と並べられた本の数々。
そのすべてが自分には理解できないものしか置いていないと、ルティーは思っていた。
「食べ終わったら、宿舎まで送ろう」
何気なく告げられた提案に、ルティーは首を横に振った。
「いえ……私は、今日はアンナ様のお傍にいます」
「眠らなければ、魔力は回復しないと言ったはずだが」
「大丈夫です。ソファでも十分眠れましたし……正直、宿舎のベッドより寝心地が良かったくらいです」
くすっと笑うルティーに、トラヴァスもまた、わずかに目元を緩める。
「確かに。あの硬くて狭い宿舎のベッドよりは、王宮のソファの方がマシかもしれんな」
「はい」
「ほんとだよなー。宿舎のベッド、狭いし落ちるしでよ……」
口を挟んだカールに、トラヴァスが即座に冷ややかな視線を送る。
「それはお前だけだ、カール」
「え? 落ちんだろ、普通?」
「落ちない」
「落ちませんね」
二人にきっぱり否定され、カールが不満げに新聞をばさりと持ち上げる。
「ちぇー……お前ら、どんだけ寝相いいんだよ……」
そうぼやきながらも、すぐに新聞の端から顔をのぞかせ、ニッと笑う。
「俺も今日はここに泊まってっかなー」
「勝手に決めるな。部屋の主は私だ」
「いーじゃねーか。どうせ広いんだしよ」
「そんなに宿舎が嫌なら、早く将になって王宮に部屋をもらうのだな」
「ちぇ、言ってくれるぜ」
カールはふてくされたように口を尖らせつつも、どこか楽しげにまた新聞へ視線を落とした。
トラヴァスは再び、ルティーへと向き直る。
「今日は、ルティーがいてくれて本当に助かった。感謝している。だが……無理はしないでくれ。なにかあれば、すぐ頼ってくれて構わない」
無表情ながらも、確かに温かさを含んだ声。その言葉が胸の奥に染みて、ルティーは静かに頷いた。
「それと、シウリス様がアンナに二週間の休暇を与えられた。この期間で、癒せそうか?」
「はい。峠は越えましたので、毎日回復魔法を施せば……一週間ほどでかなり快復するはずです。二週間あれば、十分に」
「そうか。それはよかった。だが、魔力を毎日限界まで使えば、ルティーの方が倒れる。くれぐれも、気をつけてくれ」
「私は、大丈夫です」
「……強情だな」
吐息混じりに言われ、ルティーは少し肩をすくめて笑った。
「筆頭大将代行には、私が任命されている。二週間の間は、アンナといえども私の指示に従ってもらうつもりだ。仕事は一切させず、休ませてやってくれ」
「はい。責任をもって」
やがて食事が終わると、ルティーは深く頭を下げた。
「お食事まで、ご用意くださってありがとうございました」
「明日の朝と昼は、アンナの部屋に運ばせよう。夜は、ここで一緒にとるといい」
「そ、それは……ご迷惑では」
遠慮がちに口をつぐもうとした瞬間、新聞の影からカールがひょこりと顔を出した。
「いーんだってルティー! そうしてくれりゃ俺も誘われっし、助かんだ! な?」
シシシッと笑うカールを見て、ルティーは思わずトラヴァスを見上げた。
「あの……本当に、よろしいのでしょうか」
「構わない。アンナの経過報告も兼ねているからな」
「では……お言葉に甘えさせていただきます」
そっと微笑んだそのとき、トラヴァスの瞳がわずかに細められた。
ルティーが立ち上がり、部屋を辞そうとしたとき、背後から再びカールの声が響く。
「なあ、トラヴァス。今日だけでも泊らせてくれよー」
「……仕方ないな」
そのやり取りに、ルティーはふふっと小さく笑みを漏らした。
(お二人は、本当に仲がいいのね。トラヴァス様ったら、カール様には甘いんだもの)
そんなふうに思うと、心の奥がほんのりと温かくなる。
そして、ほんの少しだけ──寂しさが忍び込んできた。
(羨ましい……)
扉を閉める直前、見えた二人の笑顔。
あの眩しい関係は、ルティーにはまだ遠い世界のようで。
静かに扉を閉じると、ルティーはまた、アンナのもとへと足を向けた。




