208.必ずお助けしますから!
アンナは医務室ではなく、彼女自身の部屋へと運ばれた。
それはシウリスの意を汲んでの判断だった。
人目に晒さず、誰の手も借りなかった──その証を示すために。
それはルティーにとっても、譲れぬ矜持だった。
部屋に満ちていたラベンダーの香りは、扉が閉じられる頃にはすでに、血の鉄臭さにかき消されていた。
トラヴァスは足早に、しかし慎重な手つきでアンナの身体をベッドへと横たえる。
すぐさまルティーが寄り添い、呼吸や脈を確認しながら容態を確かめ始めた。
「トラヴァス様、水と清潔な布をたくさんお願いします!」
「わかった」
トラヴァスが足音も急ぎ気味に部屋を出ていくのと入れ替わりに、カールが駆け込んでくる。
「持ってきたぜ、ルティー!」
「ありがとうございます! そのままテーブルに置いて、こちらへ寄せてください! お願いします!」
「任せとけって!」
カールは医療用品をテーブルに載せると、そのまま押してルティーのすぐそばまで移動させる。
「どうだ、やべぇか……?」
その問いに、ルティーは頷きも否定もせず、ただ口を引き結んだ。
しかし、自分に言い聞かせるように口を開く。
「とにかく、止血を最優先します。大丈夫……大丈夫です。必ずお助けしますから!」
そう言い切ると、ルティーは素早く医療用具を確認した。
ゾルダンが準備しただけあって、細かい備品に至るまで不足はない。
トラヴァスが桶に張られた水と、真新しい布を抱えて戻ってきた。
「ルティー、これでいいか」
ルティーはぱっと顔を上げ、こくりと頷く。
「ありがとうございます。とても助かります」
「他に手伝えることはあるか?」
その申し出に、ルティーは小さく首を横に振る。
彼らの善意に甘えたくなる気持ちはあった。それでも、これ以上の関与は許されない。
シウリスがアンナの肌を、他者に晒すのを嫌がったように。
ルティーもまた、同じ気持ちを抱いていた。
その尊厳は、なによりも優先されるべきものだ。
「ここからは……私の仕事です。どうか、部屋を出ていただけますか」
「わかった。なにかあればすぐ呼んでくれ」
トラヴァスは短く頷く。
「頼むぜ、ルティー……!」
カールの言葉を重く受け止める。
二人が部屋を出ると、扉は閉ざされた。
誰も頼る者などいない、たった二人だけの空間。
ルティーはひとつ、深く息を吸った。
次に吐き出すと同時に、表情を引き締め、テーブルの上から鋏を手に取る。
その手に迷いはなかった。
アンナの服に刃を入れ、血に濡れた布を裂いて剥いでいく。
(……酷い……)
あらわになった傷に、一瞬、胸が凍える。
けれど、目を逸らすことは許されない。
出血を止めなければ。感染を防がなければ。手を止めれば、それが死に繋がる。
布を水に浸し、血を拭き取る。肌に貼りついた汚れを落とし、清めながら、ルティーは指先を傷口に添えた。
そこに、回復魔法を静かに流し込んでいく。
(重傷箇所を見極めて……魔力は限られてる。無駄撃ちすれば、アンナ様が……私のせいで……!)
両手を腹部に置き、深く集中する。
流し込んだ魔力が内臓に潜り、破れた組織を探し、繋ぎ合わせていく。
慎重に、しかし確実に。呼吸を忘れるほどの精度で、魔力の糸を手繰っていく。
その作業は、骨が折れるどころの苦労ではなかった。体力も、魔力も、みるみる削れていく。
「……はぁっ、はっ……」
額に滲む汗を袖で拭う余裕もない。
連続の回復魔法の使用は限られている。
再詠唱の合間にルティーは包帯を巻き、体を清拭して、また魔法を注ぎ込む。
その繰り返し。時間の感覚さえ、薄れていく。
「アンナ様……どうか……!」
呼びかけは祈りに変わる。
けれどアンナの瞼はぴくりとも動かず、唇に色は戻らない。
それでも、ルティーは止まらなかった。止まるわけにはいかなかった。
ただひたすらに、魔力を注ぎ続ける。
そして──
限界が訪れる。
身体の奥から、絞り取るようにしていた魔力が、とうとう底をついた。
(……だめ、もう……)
それでも、ルティーは手を握りしめて、アンナの顔を見つめた。
(……でも……)
全快にはほど遠い。それでも。
「よかっ……生きて、る……」
アンナは生きていた。
か細く、けれど確かに息をしている。
その事実に、ルティーは小さく震えながら、実感する。
(……助けられた……!)
震える声がこぼれ、熱いものが視界を滲ませた。
身体中の力が抜けていく。それでもまだ、終われなかった。
誰かが来たとき、アンナの身体が無防備なままであってはならない。
最後の力を振り絞り、ルティーは寝間着を手に取る。
前開きの柔らかな布。
けれど、もうアンナを抱き起こすだけの体力も残っていなかった。
そこでルティーは、服の前後を逆にし、被せるように着せる。
そっと両袖に腕を通し、布で身体を包む。ほんの少しずれていても、それでいい。肌を隠せれば、それで。
「これで……お肌を……晒さずに……す、む……」
その瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
足元が崩れ、膝が床に着く。
ルティーの意識は、そのまま、闇へと沈んでいった。




