207.私以外に触らせたくない……?
「アンナ様ッ!!」
その名を叫ぶと同時に、ルティーは駆け出していた。
地に崩れ落ちたアンナのもとへ、一直線に駆け寄る。
汚れるのも構わずルティーは膝をつき、アンナの胸元に手を当てた。
震える指先が魔法陣を描き出す。淡い、癒しの光。
「お願い……お願いです……死なないでくださいませ……っ」
繰り返し紡がれる祈りのような呪文。
涙に濡れた声は、いつ途切れてもおかしくないほどに掠れていた。
トラヴァスとカールも駆けつける。
だが、ルティーの周囲に張り詰めた空気に足を止める。
誰にもその治療を妨げることなど、できなかった。
アンナの身体は、見るも無残な姿だった。
骨の軋む感触が手から伝わってくる。内部の損傷は深く、臓器にまで衝撃が及んでいるのがわかる。
模擬剣だというのに、服は破れ、肉は切り裂かれていた。
中級に届きかねるルティーの魔法では、到底追いつかない。
回復の光が届くたびに、命がこぼれ落ちていくような感覚がルティーを襲う。
──それでも。
(死なせない!! 私はこのためにアンナ様のお傍にいるんだから!!)
全身を襲う恐怖と焦燥を、ルティーは歯を食いしばって呑み込んだ。
涙は止まらない。それでも呪文は、絶え間なく紡ぎ続ける。
指先から放たれる光は、今にも断ち切れそうな命の糸を繋ぎとめる、唯一の手段だった。
「アンナ様……お願いです、目を開けて……っ!」
必死の声に応えるように、微かに揺れる睫毛。けれど、それは幻のように儚い。
ルティーの喉が詰まる。
けれど次の瞬間には、再び光を集中させていた。
「ルティー、回復薬がある。これを併用すれば──」
トラヴァスが回復薬を取り出す。しかしルティーが確認する前に、シウリスの鋭い声が切り裂いた。
「ならぬ」
唐突な拒絶。
意味を飲み込めず、トラヴァスがシウリスを見据える。
隣で聞いていたカールが理不尽な言葉に憤りを隠しきれず、一歩前に出た。
「シウリス様、なん──」
なんでダメなんだ、と続けかけたカールの言葉を、トラヴァスが静かに手で制す。
カールは不満げに奥歯を噛み締めるも、それ以上の抗議を飲み込んだ。
「シウリス様。アンナ様は極めて危険な状態にあります。なぜ回復薬の使用を禁じられるのか、その理由をお聞かせいただけますか」
氷のような青い瞳で見据えるトラヴァスに、シウリスは冷ややかな視線を返した。
「貴様、この状態のアンナに、どうやって回復薬を飲ませるつもりだ」
意識を完全に失って、息も絶え絶えの状態のアンナだ。
しかし、無理やりにでも飲ませる方法は、ある。
かつてトラヴァスが、ティナに行った時と、同じ方法で。
「筆頭大将を、このままみすみす死なせるわけにはまいりません」
「ッハ、なんのための水魔法士だ。こいつ以外、アンナに指一本触れさせるな。治療も回復薬も不要。他の者の手出しは許さぬ」
「……っ」
ルティーの背を、冷たい汗が一筋、つたう。
アンナの命は、ただ一人──ルティーだけに委ねられたのだ。
医師のゾルダンが傍まで来ていたが、今の言葉を聞いて歯噛みしている。
誰にも助けは求められない。
なぜシウリスが制限を課したのかも理解できず、ルティーに怒りが巻き起こる。
(どういうつもり……? アンナ様を死なせたいの? そんなこと……させない! 絶対に私が助けてみせる!)
流れていた涙は、いつの間にか止まっていた。
もう興味はないとばかりに、背を向けるシウリス。そんな彼に、ルティーは癒しの魔法を紡ぎながら訴えた。
「シウリス様! 私の力では、アンナ様を運ぶことができません。トラヴァス様のお力をお借りする許可を、いただけませんか!」
強い意志と共に放たれたルティーの言葉。シウリスはギロリと振り返った。
その威圧、眼光。
ルティーの背筋は凍り、ぶわりと汗が吹き出す。
「お願い、します……っ!!」
それでもなお、ルティーは引かなかった。
本当は怖くて怖くて、手は意志に反してブルブル震えている。
一瞬でも気を抜くと倒れてしまいそうなほどに。それでも、ルティーは耐えた。
「ほう。貴様……俺の命に、楯突くつもりか」
ばくんばくんと心臓が波打つ。
すぐさまトラヴァスとカールが、ルティーを守るように立ちはだかる。
「なんだ、貴様ら。俺に刃向かう気か? そのつもりなら、容赦はせんぞ」
空気がピシリと凍りついた。
カールは身体中を熱く燃やしてシウリスを睨み、トラヴァスは氷のように静かに怒りを滲ませている。
(お二人を、戦わせるわけにはいかないわ──!)
咄嗟の判断だった。
軍のトップであるアンナが敵わない相手に、たとえ二人がかりでも勝てるわけがないと。
「トラヴァス様、カール様、大丈夫です」
凛とした声に、二人は首だけで振り返る。
ルティーは立ち上がると、そんな彼らに不敵に笑って見せた。
恐怖に怯える心を押し隠し、ルティーは演じる。
「アンナ様を治療できるのは……アンナ様に触れられるのは私だけ。そう、シウリス様はおっしゃいました」
舞台に立つヒロインのように、毅然と、優雅に。
ルティーは一瞬の間を置いて、柔らかく目を細める。
「もし私が──今、何らかの事情で動けなくなったとしたら、どうなるでしょう。陛下は一度口にされたご命令を、簡単に覆される方ではありませんよね?」
医療行為はルティー以外に許さない──それは、ルティーが動けなくなれば、アンナの命も尽きるということ。
つまり、シウリスは自分に手は出せないとルティーは踏んでいた。
(シウリス様の行動は矛盾しているわ。アンナ様を殺す気かと思ったけれど、私の治療行為だけは許可してくれている)
アリシアから聞いた話がある。
アンナとシウリスは、幼い頃からのつながりがあったということを。
なぜ彼がここまでアンナを追い詰めるのか、理由はわからない。
だが、十月七日という命日を選んで手合わせをさせたこと。婚約者であったグレイ殺害の件。
(アンナ様を、私以外に触らせたくない……その肌を他の誰にも見せたくない?)
そう考えると、シウリスの強い執着が透けて見えた気がした。
本気で命を奪うつもりなら、とうに終わっていたはずなのだ。
だからこそルティーは──強気な発言で、賭けた。
〝私を殺しては、アンナ様は助からないのよ。それでいいの?〟
そう、言外に。
つまりはアンナの生殺与奪の権利は自分が握っているのだと、主導権はこちらにあるのだと認識させるために。
ともすれば、首を刎ねられかねない行為。
しかし余裕の笑みを演じるルティーに、シウリスは細く目を開き、彼女を見下ろす。
「立場も弁えず、指図する気か」
「まさか、そのようなことは。ただ私は、アンナ様をお部屋にお運びしたいだけなのです。ここでは着替えさせることもままなりませんもの。トラヴァス様とカール様にお助けいただく許可だけいただけましたら、あとはシウリス様の仰せの通りに」
そう言うと、ルティーは優雅に礼を取った。
右手を腹に、左手を背に、左足を引いて頭を下げる──女性のための、正式な敬礼。
アリシアは今までにやったことがないと笑っていたが、やり方だけは教えてくれていた。
ルティーには、こちらの方が合うだろうと。
指の先まで留意した仕草。誰もが見惚れるような、美しい敬礼。
「貴様、なぜ氷徹と赤獣にこだわる?」
「こちらのお二人は、私とアンナ様が最も信頼している方です。申し訳ありませんが、他の方では、私が信用できません」
「ほう……俺ですら、信用ならんというのか?」
口元をわずかに歪め、シウリスが嘲るように見下ろしてくる。
その視線に、心臓を掴まれたような錯覚にとらわれた。
けれども──答えは、明白だ。
(ええ、いちばん信用なりません。だからこそ、心理戦で負けるわけにはいかないの)
心のままを言葉に出せないルティーは、あくまで逆らう気はないと、柔らかい言葉を紡いでいく。
「私はたった今、初めて陛下とお言葉を交わしたばかりです。数分で信頼を築くなど、私にはとても」
「フン……うまく言い逃れるものだ」
そう言ったかと思うと、シウリスは白いグローブを脱ぎ、トラヴァスへと投げつけた。
咄嗟に受け取ったトラヴァスが眉をひそめる。
「使え。貴様のような穢れた男が、素手でアンナに触れるなど、耐え難い」
その言葉はトラヴァス本人と、そして事情を知るカールにしか、理解できないものだった。
トラヴァスは苛立ちと吐き気を噛み殺しながら、そのグローブを手にはめる。
「氷徹。貴様は今後、軍務中には必ずグローブをつけるんだな」
「……は」
理不尽極まる命令にも、トラヴァスは波風を立てぬよう逆らわず、ただアンナを救うためだけにそれを受け入れた。
そしてシウリスが機嫌悪く闘技場を去っていった瞬間、三人は動く。
「トラヴァス様!! アンナ様を!」
「ああ」
即座にトラヴァスがアンナを抱き上げ、ルティーは再び詠唱を始める。
「アンナ様の部屋にお願いします! カール様はゾルダン先生と一緒に、医務室から必要な医療品を持ってきてくださいませ!」
「わかった、すぐとってくらぁ!! アンナを頼んだぜ、ルティー!」
「はい!!」
ゾルダンを含めた四人が足早に闘技場を去っていくのを、周りの騎士たちはただ見送るしかなかった。
その瞳には、自らの無力を思い知らされた悔しさが滲んでいた。




