206.せいぜい俺を楽しませるのだな
十月七日──グレイの命日。
本来なら墓前にいるはずのその日、アンナは闘技場に立っていた。
その背には、王国軍の筆頭大将としての威厳が感じられる。
覚悟の重みを宿したその手が、今、静かに剣の柄を握っていた。
そんなアンナの姿を、ルティーは闘技場の端に立ち、震える思いで見つめていた。
これから始まる戦いへの恐怖に体を強張らせながらも、視線を外すことはしなかった。
中央には筆頭大将アンナ。そして対面に立つのは、紺鉄の衣装に身を包んだこの国の王──シウリス。
彼の名が囁かれるだけで、空気に緊張が走る。
周囲には噂を聞きつけた将や、本日非番の騎士たちが集まり、遠巻きにその一戦を見守ろうとしていた。
カール、そしてトラヴァスがルティーの傍へと現れる。
シウリスと対峙するアンナの横顔を見て、カールは眉根を寄せた。
「……アンナ、大丈夫かよ……ただの模擬戦って言っても、あのシウリス様相手じゃ……」
心配を滲ませるカールの言葉に、トラヴァスがわずかに顔を顰める。
「……無事、では済まんだろうな……安全を考慮した模擬剣でも、シウリス様にかかれば凶器に変わりはない」
「止めらんねぇのか……っ」
「邪魔立てしたとあっては、俺たちの首の方が飛ぶぞ、カール。……見届ける以外にあるまい」
場の空気が冷えていく。
シウリスは、一本の模擬剣を携えて立っていた。
対するアンナは、模擬剣……それに神の盾アイアース。
当初、アンナは模擬盾で挑もうとしていたが、シウリスに一喝された。
「そんなもので俺の剣を防げると思っているのか? 舐められたものだな……アイアースを使え」
その言葉に、むしろアンナは内心で安堵していた。模擬剣といえど、シウリスの剣を普通の盾で受け止めるなど、無謀に過ぎる。
アイアースなら、まだ抗える──そう思えた。
「これは試合ではない。どちらかが動かなくなるまで、終わらん戦いだ。心せよ」
シウリスの静かな言葉に、アンナは小さく息を呑んだ。
だが、その命令に逆らえる立場ではない。
遠くからその様子を見守るルティーは、胸の奥がきしむような痛みに耐えながら、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「……そんな……」
思わずこぼれた声に、隣のトラヴァスがすぐさま反応する。
「ルティー」
低く、鋭く名を呼ばれ、その手は無言の制止を示した。口を挟んではいけないのだと。
ルティーは肩を震わせながら、耐えるように黙るしかなかった。
オルト軍学校の剣術大会のようなポイント制ではない。
力尽き、倒れるまでの戦いだ。
もし少しでも手を抜いたり、わざと倒れようものなら、シウリスの怒りを買うだろう。そうすれば、どうなるかは本当にわからなくなる。
トラヴァスも、そして隣のカールも、顔をしかめたまま沈黙を保つ。
その表情は怒りでも悔しさでもなく、ただ目の前で進行する現実への、無力な苦悩を映していた。
「覚悟はいいな、アンナ」
「──はい、シウリス様」
中央に立つアンナが、足元の土を踏み締め、構える。
逃げない。
それは、筆頭大将としての矜持。
目の前で剣を握るシウリスは、その長身以上に巨大に見えた。
張り詰めた空気の中で、彼はただ一言──
「来い」
風が鳴った。
アンナは即座に踏み込む。
迷いのない初撃は、斜め上段からの鋭い斬り下ろし。
狙うは肩。
読まれていると知りながらも、その一撃を放ったのは──次の動きが決まっていたからだ。
シウリスがわずかに後退する。
その隙に、アンナは剣を内側へ巻き込むように反転させ、逆方向から振り抜く。
足を回し、一歩前へ。
縦、横、そして下からの突き。
三段の連撃を、呼吸の間に叩き込む。
──だが、それらすべてを、シウリスは流した。
受ける、ではない。弾くでも、受け止めるでもない。
刃の角度を読み、体を傾け、最小限の動きで剣筋をずらす。
(通らない、それなら──っ)
間合いを詰め、盾を前に押し出す。
ドンッとアイアースをシウリスの胸を叩いた。
わずかに体勢が揺らぐ。
そこに斜め下からの斬撃を差し込む。
──その刃は、シウリスの肩をかすめた。
(いける!)
そう思った、刹那。
「悪くはない。……だが」
低く響いたシウリスの声と共に、世界が変わった。
加速。
剣が、唐突に目の前へ。
「くっ!」
反射的に盾を構える。
ガンッ!
全身に衝撃が走る。
その刹那、二撃目、三撃目── 踏み込みざまに跳ね上がるような斬撃が、容赦なく襲いかかる。
(速いっ……!)
その一撃一撃が、重く、鋭い。
盾で受けるたび、腕に痛みが走る。
金属の振動が骨に響き、関節が軋む。
「っ……が」
四撃目は、盾の端を斜めにえぐるように滑り込んだ。
通常なら不可能な角度。それでも打撃を成立させるのは、シウリスの剣技が常軌を逸しているからだ。
それを見ていたトラヴァスとカールの表情が、青ざめる。
「やべぇぞ……なんだよ、ありゃ……!」
「アンナでなければ、とっくに沈んでいるな……」
圧倒的な戦闘センス、精密すぎる技巧。
それに喰らいつくアンナの技術もまた、尋常ではなかった。
誰もが言葉を失い、ただ息を呑んでその行方を見守っていた。
ルティーは胸の前でぎゅっと手を組み、まるで祈るように──祈るよりも切実に、アンナの姿を見つめる。
シウリスの攻撃をなんとか防いだアンナは跳び下がった。
呼吸を整え、キッと視線を上げる。
左腕が痺れている。アイアースでなければ、とっくに砕けていた。
(でも、まだ戦える……!)
アンナはシウリスへと駆け出した。
踏み込む直前、虚を突くように重心を低く沈める。
即座に鋭く切り上げ、盾を素早く前面に出す。
盾と剣の連携が、流れるような動きで相手の意識を散らした。
その一瞬、僅かな隙を見逃さない。
側面へと回り込み、全身の力を剣に込める。
「はぁぁぁーーーッ!!」
気合と共に、魂を叩きつける一閃。
──だが、その刹那。
剣の切っ先が、まるで待ち構えていたかのように突き出され。
弾かれる。
直後、アンナの剣を叩き落としに振り下ろされる刃。
ギィンッ!!
間一髪、アイアースで受け止める。
痺れた腕が、焼けつくような痛みを発した。
「っく!」
しかし続く連撃に、一歩、そしてまた一歩と下がらされる。
いつの間にか、アンナは完全に押し込まれていた。
反撃の隙がない。
(っく、守るしか……っ」)
だが、防御に徹すれば、消耗は早まる。
容赦なく襲いくる、シウリスの刃。
斬撃。
重撃。
呼吸の合間に、次の斬撃が来る。
「ぐっ……!」
盾越しに伝わる一撃が、骨を揺らす。
倒れそうになる膝を、気合いで踏みとどめた。
(この程度で、倒れるな……!)
恐れず踏み込み、盾で跳ね返す。
反撃の剣を振り下ろした瞬間。
しかしシウリスの身体は、ほとんど視界から消えていた。
(なっ──!)
横から。死角から。
振り下ろされた斬撃を、アンナは盾の角で強引に受ける。
バギィッ!
金属が軋み、肩口に衝撃が走った。
次の瞬間には、すでにシウリスは攻撃体制に入っている。
アンナは反射的に盾を上げ──
ガンッ!!!!
重さで膝が砕けそうになる。
「ぐうっ……!!」
血の味が、喉の奥に広がる。
一度膝をつくも、すぐさま立ち上がる。
ふらつく身体を支え、盾を構える。
「ふ……さすがだな、アンナ。筆頭大将の意地か? 常人ならば、とうに屍になっているところだぞ?」
クックと喉を鳴らして笑うシウリス。
アンナはぜぇぜぇと息を吐きながら痛みに耐える。
「さて……どこまで踊って見せる? せいぜい俺を楽しませるのだな、アンナ」
「ッ!!」
シウリスが剣を構え直した瞬間、アンナは理解した。
その構えは、「殺すための型」だ。
──そして。
シウリスは地を蹴り上げた。
パンッと土埃が舞い、一瞬にして距離を詰められる。
(速──っ!?)
振り下ろされる刃。
一撃。肩を裂く。
二撃。太腿をえぐる。
三撃。腹をかすめる。
四撃。盾の隙間へと突き立てる。
赤い飛沫が、砂の上に咲いた。
音もなく、鮮血が地を染めていく。
泣き叫びたくなるほどの痛みが、胸の奥を突き上げる。
しかし、それすらも飲み込んで剣を握り締めた、その瞬間──
殺意に満ちた五撃目が、頭上から振り下ろされた。
盾を抱えて、身を縮める。
砕けるような衝撃。
骨が軋み、肉が裂ける音。
視界が赤く染め上げられる。
──死ぬ。
「アンナ様あぁぁぁああああっ!!」
砂塵の向こう、嗚咽交じりの叫びが響いていた。
だが、それすらも、アンナの耳には遠く感じて。
盾の隙間から強引に剣が滑り込んでいき──
「……かふっ」
鮮やかな飛沫が、空中を弧を描いた。
アンナの身体は、ゆっくりと、地へ沈んでいく。
倒れるアンナの動きに合わせて、まるで操られたように、周囲の視線が一斉に下へと動いた。
バタン、と倒れる音が脳の奥へと響き渡り。
土埃が緩やかに舞い上がる。
誰もがその光景に、息を呑んだ。
アンナの黒目から、光が静かに消えていく。
血が、盾の縁を伝い、ぽたりと地へ落ちていった。




