205.怖くても、逃げたりしない
十月七日は、アンナの婚約者であったグレイの命日だ。
その日を三日後に控えたアンナは、短い昼休憩を利用して、自室の窓辺に置かれたラベンダーの手入れをしていた。
紫の小さな花弁が、初秋の風にそっと揺れる。
陶器の鉢には繊細な装飾が施されており、それはかつてグレイが贈ってくれたものだった。
指先で葉を撫でるたび、かすかに甘く清らかな香りが立つ。アンナはそっと目を伏せた。
筆頭大将に任命されてから、三ヶ月が経つ。
二十一歳の誕生日も過ぎ、アンナは日々、軍務に追われていた。
そんな中でも、グレイの命日だけは休暇を取るつもりだった。イークスと共に墓を訪れ、静かに彼を偲ぶために。
だが、そんなささやかな願いは唐突に打ち砕かれる。
穏やかな昼のひとときから一転、アンナは資料の束を携えて王の執務室を訪れていた。
毎日繰り返される、変わり映えのない報告業務のひとつ──その、はずだった。
「アンナ。久しぶりに手合わせをせぬか」
それは、報告書の中身とはまるで無関係な、あまりにも予想外の提案。
まるで他愛ない世間話でもするような口ぶりで告げられて、アンナは困惑した。
子どもの頃は、何度となく手合わせをしていた。
だが、勝てた記憶は一度もない。いつだって、彼の背は遠く、剣は鋭く、そして強かった。
軍に入ってからは、一度も。
まして筆頭大将となった今となっては、そんな話が持ち上がるとは夢にも思っていなかった。
「手合わせ……ですか」
言葉を返しながらも、心の準備が追いつかない。
シウリスは執務の手を止めると、アンナを真っ直ぐに見据えた。
「俺の相手をできる者がおらぬからな。よもや、断ることなどすまい?」
王に言われては、断ることなどできようはずもなかった。
本気で言っているということは、言葉の温度だけでわかる。
「……承知しました。私でよければ、お相手いたします」
「では三日後の十月七日に闘技場にこい」
「……その日は──」
言いかけた瞬間、シウリスの目が細くなり、底冷えのするような光が宿る。
「なにか、問題でもあるのか?」
低く、淡々とした声。
それだけで、室内の空気が一気に張り詰めた。
試されている感覚。心臓がひゅっと縮む気配がした。
アンナは唇を引き結ぶ。
あの人の命日。誰とも会わず、ただ静かに過ごすはずだった日。
けれど、個人的な感情を、王命の前に差し出すことはできない。
「……いえ。問題ありません。十月七日、承知しました」
「ふ……期待しているぞ、アンナ」
満足げに口の端を上げ、シウリスは再び机上の書類へと視線を戻す。
アンナは静かに一礼し、背筋を伸ばしたまま執務室を後にした。
しかし足取りは重く、曇った胸に痛みだけがじわりと広がっていく。
「どうかなさいましたか?」
部屋に戻ると、付き人のルティーがすぐに気配を察して声をかけてきた。
そんな彼女に、アンナは少し眉を下げる。
「すまない、ルティー。十月七日なんだが……私は出勤となった」
「え? でもその日は……」
言いかけてルティーは言葉を飲み込み、アンナの表情を見つめる。
「なにかおありなのですね? その日に」
「……実は、シウリス様に手合わせを命じられてな」
「手、合わ……せ……?」
ルティーは苦々しげに顔を歪めた。
実質最強と謳われるシウリスの相手を、アンナがしなければいけないことに。
アンナの愛する者を屠った男を、相手しなければいけないことに。
「私の休みに合わせて、ルティーも休みを取っていたな。私は出勤になるが、気にせず休んでくれ」
「いえ、シウリス様と手合わせと聞いて、休んでなどいられません。私もお傍にいさせてくださいませ」
その言葉に、アンナはじっと彼女を見つめる。
ルティーの眼差しは真剣で、揺らぎなどひとつもなかった。
「……そうか。ありがとう」
静かに感謝の言葉を口にする。
だが、それでも心の曇りが拭えることはなかった。
シウリスは、あまりにも強い。
筆頭大将となった今でも、彼に並ぶにはまだ遠い。竜を一撃で屠るその剣筋は、人の域を超えているとしか思えなかった。
強くなった──そう胸を張れる日々を積み重ねてきたはずなのに、今はただ、迫りくる闘技の刻に胸がざわめいていた。
その日の夕刻。
仕事を終えたアンナは、裏山へと向かった。
木々のざわめきと、風の香りが、少しずつ心を落ち着けていく。
奥へと分け入り、一番近い寝床を覗いてみたが、そこにイークスの姿はなかった。
アンナは指笛を空へ向けて吹く。
ピュウゥゥゥウウウッ
澄んだ音が山に溶けていく。
数分と経たぬうちに、木々の間をぬって、イークスが駆け降りてきた。
『姐さん!!』
まるでそう叫んでいるような勢いで。
「わんっ!!」
「ふふ、今日も元気そうね、イークス。ご飯持ってきたわよ」
イークスがこの裏山で暮らすようになって、一ヶ月になる。
環境にすっかり馴染んだイークスは、たくましく、そして自由に生きている。
アンナはイークスの傍に座り、食事をとる様子を静かに見つめた。
「イークス……グレイが逝って、もうすぐ一年ね……」
夜の帳が静かに降りていた。
月が、雲の切れ間から顔をのぞかせる。
グレイは月が好きだった。いや、月光浴と言うべきか。
月の光は、アンナのようだと言って。
『月が綺麗だな』と呟いた、グレイの横顔が脳裏に浮かぶ。
「シウリス様との手合わせが終わったら……あなたと一緒に、お墓参りに行けるかしら」
そっとイークスの首筋に手を伸ばし、あたたかな毛並みに触れた。
イークスは鼻先を擦り寄せ、答えるように瞬きをしている。
「……もう一年なんて、信じられないわね……グレイと一緒に月を見たのが、つい最近のような気がするの」
笑いかけてくれた彼の姿。あのとき感じた安心感も、優しい声も、思い出すだけで胸が締めつけられるようだった。
辺りは木々に覆われた暗闇。空に浮かぶ月だけが、そっとアンナたちを照らす。
その静けさのなかで、アンナの胸には別の鼓動が高鳴っていた。
三日後を思うと、体が強張った。けれど、弱音を吐ける相手はもういない。
「私ね、今度の手合わせ、怖いのよ。シウリス様がどれほど強いのか……本気で殺しに来るんじゃないかって……」
イークスが低く一声鳴き、彼女の手に鼻先を寄せた。
「だけど……怖くても、逃げたりしない。あなたと、そしてグレイに恥じないように戦うから」
あたたかな毛並みに触れながら、アンナは月を仰いだ。
銀の光が、二人の静かな夜を包んでいた。
ひとりと一匹は、静かに、故人を偲び続けていた。




