204.なんと残酷な定めでしょう
ルティーは食事を終えると、そそくさと食堂を出て、自室へと戻った。
宿舎の部屋は狭く、夏の今は熱がこもって息苦しいほどだが、それでも、骨の芯まで凍える冬の寒さに比べればまだましだった。
木造の壁は薄く、外気の音も人の気配も、なにひとつ遮ってはくれない。
だが今のルティーにとって、そのかすかな雑音こそが、かえって心を落ち着かせる響きだった。
ルティーは作り付けの小さな本棚に手を伸ばすと、一冊の本を手に取った。
表紙には、優美な飾り文字で《ロメオとヴィオレッタ》と記されている。
ページの角はすっかり丸くなり、折り目が重なった箇所には、色褪せた思い出が染み込んでいた。
何度も何度も、それこそ数えきれないほど読み返した証だ。
ルティーはそっとページをめくり、小さな声で台詞を口にする。
「〝月が綺麗ですね〟……」
ロメオの言葉を、丁寧に紡ぐ。
この意味を知ったのは、初めての演劇を見終わってからのことだった。
──ルティー。あの言葉はね、〝愛してる〟って意味が込められているんだよ。
初めて舞台を観たあの日の記憶が、ふいに胸によみがえる。
六歳の頃。
両親に手を引かれながら、重厚な劇場の扉をくぐったときのこと。
あの瞬間、胸が高鳴る音がした。
まばゆい灯りのもと、俳優たちの台詞が舞台の上に新たな世界を立ち上げていく。
まるで、本当に魔法にかかったようだった。
演出は名匠ガウディ。満員の客席。
上演されていたのは、名作『ロメオとヴィオレッタ』。
その舞台は、幼いルティーにとって人生を変える出会いだった。
それ以来、戯曲を集めるのが趣味となり、夜ごと両親の前で台詞を読み上げ、演じてみせた。
「将来は舞台女優ね」と微笑まれたことが、何より嬉しかった。
ルティー自身も、あの光の下に立つ未来を、疑いなく信じていたのだ。
……その夢を、今も、完全に手放したわけではなかった。
しかし、水の魔法士という特異な力を習得したルティーに、夢を追う自由はなくなっていた。
諦めきれないが、いつまでも握りしめていられる夢ではないとわかっている。
希少な水の魔法士を、国家が手放すとは思えなかったし──
なにより、命の危機と隣り合わせの筆頭大将の傍を、もう離れたくはなかった。
アンナを守れるのは、自分だけ。
そう信じているし、そうでなければならないと、ルティーは思っている。
アリシアを死なせてしまった罪を、繰り返すわけにはいかない。
敬愛する筆頭大将を、二度と失わないために。
ルティーは静かに立ち上がり、机に本を置く。
そして部屋の中央へと進み出て、姿勢を正すと、斜めに視線を落とした。
そこが舞台の一角であるかのように、体の隅々にまで意識をめぐらせる。
「〝ああ、ロメオ様……なぜあなたは、かの名を背負う運命に生まれ落ちたのです?〟」
ヴィオレッタの嘆きの台詞を、息を整えてから、深く感情をこめて紡ぐ。
指先の角度、視線の移ろい、声の揺らぎに至るまで──幼い頃に憧れた舞台をなぞるように、丁寧に。
「〝幾世の因縁に縛られ、血と誇りの名のもとに、ご自身の御心を痛めつづけるとは……なんと残酷な定めでしょう〟」
けれど、その先のロメオの台詞を紡いでくれる相手など、どこにもいない。
それでも、ルティーはほんのひととき、舞台の上に立つ夢を思い描く。
「もしもその名が呪われし印だというのなら──今この場でお捨てなさいませ。名を捨てても、あなたはあなた。高貴なる魂も、優しき瞳も、ひと欠けらたりとも損なわれはしません」
ルティーはひとり演じ続け──最後まで終えると、そっと視線を伏せて本を胸に抱きしめた。
窓の外では、夜風にそよいだ木の葉が微かに鳴っていた。
遠くから誰かの笑い声が聞こえてきたが、それもすぐに静寂に飲まれていく。
「……いつか、舞台に立てるかな」
ぽつりとこぼした声は、虚空に溶け、なんの返事も返ってこない。
ルティーは自分の言葉に、かすかに笑った。
それは希望ではなく──諦めが滲んだ、悲しい微笑だった。
もうわかっているのだ。
人生の分岐点は、とっくに過ぎ去ったことを。
舞台の上で誰かと台詞を交わす未来は、遥か遠くに霞んでいる。
けれど、それでも。
戯曲だけは手放せなかった。
せめて心の中だけでも、舞台の上に立っていたい。
そんな祈るような気持ちで、家から持ってきたたくさんの戯曲を、今も大切に持ち続けている。
本を棚へと戻し、ランプの火を落とす。
ほの暗い部屋の中、ルティーは小さく身を丸めた。
夢は静かに胸の奥に仕舞われ、夜の帳がそっと降りていく。
ベッドに身を横たえたルティーは、目を閉じる。
──せめて夢の中だけでも、続きを交わせたらいい。
そんな淡い願いを胸に、眠りへと身を沈めた。




