203.お母さんのご飯……食べたいな
就業時刻を迎えるとルティーは立ち上がり、まだ仕事をしているアンナへと目を向けた。
「お先に失礼します、アンナ様」
「ああ、お疲れ。ルティー」
筆頭大将アンナが、微笑みを浮かべる。
その穏やかな笑みに一礼し、ルティーは王宮を後にした。
忙しい時には夜遅くまで、アンナ様と仕事をすることもある。
それでも、あの筆頭大将はまだ十一歳のルティーを気遣い、普段はきっかり五時半に帰らせてくれるのだ。
住まいは王宮からそう遠くない、騎士の独身寮。
騎士たちが集うその寮に、子どもであるルティーは当然ひとりだけだ。
もとは王都の一般区に両親と暮らしていたが、事情があり、宿舎に移り住んでいる。
夕食は食堂で簡単に取ることができた。寮母が用意してくれる家庭的な料理は、栄養も味も申し分ない。
それでも、どこか物足りなかった。
(お母さんのご飯……食べたいな)
食堂の端で一人、トレーに並べられた食事をとりながら、息を吐いた。
宿舎に移り住んだのは、単に家と王宮の距離が遠かったからではない。
当時、水の書を習得したルティーは、王都中に名を知られてしまっていたのだ。
噂はすぐに広まり、彼女の元には癒やしを求める人々がひっきりなしに訪れるようになった。
だがある日、その中のひとりを癒していた最中に、思いもよらぬ出来事が起きる。
それは、水の魔法士にとって最も忌むべきもの──暴発だった。
魔法の暴発は、書との相性が悪いほどに起こりやすい。
本来、暴発は詠唱した本人がダメージを受けるものだが、回復魔法に関してだけは違う。
詠唱した本人ではなく、癒やそうとした相手にダメージがいくのである。
つまり、もしも相手が瀕死の状態であれば、死なせてしまう可能性があるということだ。
書には、大なり小なりのリスクのある。水の書に関しては、回復したい相手を逆に傷つけてしまうリスクを孕んでいた。
もちろん、ルティーはそれを承知していたが、何十回何百回と続けても、暴発が起こらないほど書と相性が良かった。
しかし、いくら相性がいいと言っても絶対ではない。
ある日、ルティーの噂を聞きつけてやってきた女の子を癒やそうとした時。
ついに暴発が起こってしまった。
ボンッと爆発するような音を立てて、焦げ臭い匂いが辺りに広がった。
ルティーはすぐに二度目の詠唱で傷を治したが、女の子は、心に深い傷を負ってしまったのだ。
その日を境に、少女は日常を送れなくなった。
ちょっとした物音に過敏になり、眠ることも、目を合わせることさえできなくなったという。
少女の両親は、毎日のように家を訪れるようになり。
怒りに満ちた言葉が、家中に響き渡った。
──お前が、この子を壊した。
──娘の未来を奪ったのは、お前だ。
やがて話は慰謝料の請求へと発展した。
金額は到底、一般家庭が払えるようなものではなかった。
けれど、両親は逃げなかった。黙って頭を下げ、精一杯、誠実に対応し続けていた。
それが、ルティーには耐えられなかった。
(私のせいで、お父さんとお母さんが……)
だから、自分から願い出た。
戸籍上の親子関係を、解消してほしいと。
法律上、ルティーと縁を切ることで、莫大な慰謝料を両親に払わさずに済むようにしたのだ。
親子関係が切り離されれば、ルティーは未成年なので、慰謝料の支払い義務は二十歳になるまで免除される。
それを狙ったのだ。二十歳までにはお金を貯めておく必要があるが。
親子の縁を切ることを、両親は泣きながら承諾した。
何度も「本当にいいのか」と問われたが、ルティーは首を振った。
──自分のせいで、これ以上、二人が傷つくのは嫌だったから。
そうしてルティーは家を出ることにした。
宿舎なら、一般人は入れないようになっているので、あの女の子の両親が押しかけてくることはない。
それ以来、週末の午後になると、ほんのひとときだけ。
人目を避けるようにして、両親がそっと会いに来てくれる。
ふたりのまなざしは、昔と変わらず温かくて、いつもルティーのことを案じてくれた。
会うたびに両親は「友達はできた?」──そう、尋ねてくる。
独身寮は賑やかで、大人たちは気さくな人も多い。けれど、ルティーに友人と呼べる相手はいなかった。
全員が十八歳以上。十一歳の子どもと話が合うわけもない。
しかし、それだけではなかった。ルティー自身が、意図して人を遠ざけていた。
誰かに、「回復魔法を使ってほしい」と言われないように。
──もし言われたとしても、断ると心に決めていたから。
アリシアの死後、この魔法はアンナのためだけに使うという覚悟を持っていた。
それを他人に口にすれば、波風が立つのはわかっている。
誤解も反感も買うだろう。わがままだと蔑む者もいるかもしれない。
だからルティーは、人を避けた。
望んで孤独にいるように見えるとしても、それで構わなかった。
第十二軍団で医療技術を学ぶ日々の中、ルティーは時折、重傷を負った者と対峙する場面に出くわすことがある。
そのたびに、彼女は音もなくその場を離れた。
将であるゾルダンは、なにも言わない。
──察してくれているのだ。癒せるはずの力を使わずにいる理由を。
けれど、他の者たちはそうではなかった。
回復魔法の才を持ちながら、怪我人から目を背け、なにもしない少女。
誰が見ても不自然で、このままでは冷ややかな視線を向けられてもおかしくはない。
いや、すでにもう始まっていた。
それでもルティーに譲る気はなかった。
アリシアを失った時の絶望だけは、もう二度と──味わいたくなかったから。
(……私、そのうち刺されるかもしれないな)
今はまだ、命に関わるほどの重症者がいない。それだけが、辛うじて均衡を保たせている。
だがこの先、もし誰かが瀕死の状態で目の前に現れても、なお見捨てるのだとしたら。
その代償がどれほど大きいか──ルティーにもわかっていた。
(それでも……私は……もう、二度と……一番大切な人を、失いたくない……)
すべては、アンナのために。
どれほど罵られようと、殺人鬼と蔑まれようと、殴られようと、食事に毒を盛られようと──かまわない。
世界中を敵に回しても、彼女だけは守る。
美しく、気高く、優しい、筆頭大将。
大好きだった人の、たった一人の娘である、アンナを。
他の誰を見殺しにすることになったとしても。
ルティーは、選んだ。
アンナ以外のすべてを犠牲にしても、生かすという──その、決意を。
(アンナ様の、ためだけに──)




