202.このままじゃ……私は役立たずのまま
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アンナの付き人となったルティーは、筆頭大将の執務室で細やかな雑務に従事していた。
書類の整理、部屋の掃除、物資の受け取りや伝令の伝達──誰かに頼まれるまでもなく、自然と体が動く。
それは二ヶ月前まで、徹底的に教え込まれていたからだ。今はもう騎士ではなくなった、長い銀髪の彼によって。
今では時間を決めて第十二軍団の医療衛生隊へ向かい、将であり医師でもあるゾルダンのもとで、医療技術を学んでいる。
さらに、空き時間には机に向かい、学校で学ぶはずだった内容を独学で進めていた。
以前ならわからないことがあれば、ルーシエやマックスに訊くことができた。けれどアンナの執務室には常駐の部下がいない。
基本的にはルティーとアンナ、たった二人きりの空間だ。
アンナは筆頭大将として忙しい日々を送っている。
そんな彼女の時間を私事で奪うのは気が引けた。
「ルティー、私は少しシウリス様のところへ行ってくる。留守を頼むよ」
書類を手に、アンナが慣れた足取りで部屋を出ていく。
「はい。かしこまりました」
返事をして扉が閉まったあと、ルティーは一人、静かに溜め息をついた。
自習用のテキストを開いたまま、指先が空中で止まる。わからない問題のページから、進んでいなかった。
その時、控えめなノックの音が室内に響く。
「──はい。どうぞ」
入ってきたのは、第二軍団の将であるトラヴァスだ。冷徹な眼差しと整った軍装、そしてまるで氷の結晶を思わせる整然とした空気を纏っている。
「トラヴァス様。……書類ですか?」
ルティーは慌てて立ち上がり、姿勢を正す。
「そうだ。アンナ様は?」
トラヴァスは、カールとは違い、公の場ではアンナのことをきちんと〝様〟付けで呼ぶ。規律を重んじる者らしい、丁寧な言葉遣いだ。
「ただいま、シウリス様のもとへ。お預かりできる書類であれば、私が承ります」
「助かる」
近づいてきたトラヴァスは、手に持っていた書類を差し出しながら、机の上に開かれた一冊の本に目を留めた。
整然と記された表の途中で、ペンは止まっている。
「ルティーは勉強中か?」
「はい。なかなか一人では思うように進まなくて……」
「見せてみなさい」
「え……?」
不意の申し出に、ルティーが戸惑って差し出したテキストを、トラヴァスは一瞥するなり、迷いなく指を動かした。
印をつけながら、解法の誤りと、その理由を淡々と説明していく。
理路整然とした語り口で、けれどどこか、人を突き放さない静かな温度があった。
「……あ、ありがとうございます。トラヴァス様。とてもわかりやすかったです」
「大したことではない。わからぬことがあれば、誰かに聞けばいい」
その言葉は簡単なようでいて、実際は難しい。
この部屋にはアンナとルティーしかおらず、廊下にいる騎士や将たちは、みな忙しそうに仕事をしている。
よく知らない人に声をかけるのは勇気がいるし、なによりわずかな時間を自分のために使わせることに、引け目を感じてしまう。
ルティーがうつむいたままなにも言えずにいると、トラヴァスはほんのわずかに視線を落とし、無表情のまま言った。
「解けない問題は書き出しておきなさい。時間ができた時には見てあげることもできるだろう」
「……トラヴァス様が、ですか?」
「嫌なら構わないが」
「いえ! ……ありがとう、ございます……」
深く頭を下げると、トラヴァスは微かに、ほんのひと筋だけ唇を緩めて、部屋を出ていった。
彼は〝氷徹〟の異名で知られる将だ。
けれど、ルティーが彼を恐れたことはなかった。
アンナが「情に厚い」と評す通り、彼の行動にはどこか不器用なやさしさが滲んでいるからだ。
(トラヴァス様も将だから、お忙しいはずなのに……損をする性分なのかもしれないな)
小さく笑みを浮かべながら、ルティーは勉強の道具を片付け、机の引き出しから一冊の書を取り出した。
水の書。これは、二冊目だ。
一冊目をすでに習得しているルティーだったが、アリシアが亡くなって以降、魔法を使わなくなっていた。
誰よりも守りたかった人物を、ルティーは──癒すことが、できなかった。
アリシア以外の騎士たちに、全魔法力を使い切ってしまっていたからだ。
なにもできずにアリシアを失ったあの記憶は、今でも夜毎に彼女を締めつける。
だからこそ決めたのだ。
この魔法は、アンナのためにしか使わない──と。
それは彼女なりの贖罪だった。
誰も責めてはいない。けれど、自分で自分を許すことができなかった。
だが、魔法は使わなければ成長しない。
このままでは、いざという時に水の魔法の真価を発揮することができない。
そんな時、習得師からある話を聞いた。
〝同じ魔法書を複数回読み込み再度習得することで、使わずとも魔法のレベルを上げることができる〟ということを。
一冊目は習得師の力を借りて取り込めたが、二冊目以降はそうはいかない。
本を読み、自分で噛み砕き、血肉としていくしかなかった。
過去には、最大で七冊を取り込んだ者がいたらしい。
だが、それは極めて稀で、困難を極める道だ。
アリシアが逝って、二ヶ月が過ぎた。
ルティーは一日も欠かさず、水の書を読み込んでいる。
けれど、まだ二冊目が「自分の中」に入っていく気配はない。
ページを開きながら、そっと拳を握る。
(このままじゃ……私は役立たずのまま)
声にならない想いが、胸の奥で確かに熱を帯びていく。
それは願望ではない。自らに課した使命。
(必ず、習得してみせる)
誰にも告げず、誰にも頼らず、ただひとり。少女は静かに、未来を見据えた。




