201.あんなに小さかったのに
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アンナとサエクは、イークスのこれからを思いながら、その姿を見つめた。
すべてを理解しているように、イークスは尻尾をふりふりと揺らしている。
「イークスくんにとっても、裏山は縄張りになるでしょうし。むしろ都会の中より、こっちのほうが向いてるかもですよ。あ、寝床になるような場所、いくつかマークしておきました。地図、どうぞ!」
サエクは胸元のポケットから丁寧に折りたたまれた紙を取り出し、アンナに手渡した。
「ありがとう。まさか本当に裏山で飼えるなんて、思いもしてなかったわ……」
「グレイさんのおかげですね!」
アンナは地図を手に頷きながら、イークスに目をやる。
「大きくなったわね。グレイにくっついて来たときは、あんなに小さかったのに」
思い返せば、わずか一年と四ヶ月。だがその間に、イークスは驚くほど逞しくなった。
子どもを送り出す親のような、誇らしさと寂しさが胸に込み上げる。
「大きく、そして強くなりましたね! イークスくんは、本当に賢いですよ。飼い主に似たんでしょうね」
サエクは膝を曲げながらそう言って、イークスの背を軽く撫でた。イークスは満足げに鼻を鳴らし、ぺろりとサエクの頬を舐める。
最初は誰にも懐かなかったイークスも、サエクにはすっかり心を開いているようだった。
敵意のない撫で方も、いつも話しかけてくれる声も、イークスにとっては安心できるものだったのだろう。
ふへっと笑ってサエクが腰を下ろすと、イークスも隣にどすんと座り込む。くるんと丸まったしっぽが、彼女の膝に軽く触れた。
「もう、べったりじゃない。やっぱり好きなのね、サエクさんのこと」
「へへ、嬉しいです。信頼されてるって思うと、やっぱり嬉しいですね!」
そう言いながらも、サエクの目はほんの少し潤んでいた。
ずっと長く面倒を見てくれていたのだ。永遠の別れというわけではないが、イークスのいない生活を考えると、彼女も思うところがあるのだろう。
サエクはイークスの首元を掻き、イークスは目を細めて気持ちよさそうに目を細めている。
「……じゃあ、明日から裏山で住まわせるわ。今までありがとう、サエクさん」
「どういたしまして! あ、それでですね、ひとつお願いがあるんですけど」
「そういえば、言ってたわね。なにかしら」
アンナが首を傾げると、サエクは立ち上がって少しだけ身を乗り出した。
「その剣、見せてもらえませんか? ちょっとでいいので、抜いていただけたら……!」
「ええ、それは構わないけれど……」
妙なお願いに訝しみつつも、アンナは腰の剣──クレイヴソリッシュの柄に手をかける。
一閃、青白い光を帯びた刃が静かに空気を裂くように現れた。
サエクはその剣の美しさに目を丸くして、息を呑む。
「これが……噂の、光の剣……」
「触らないでね。本当によく斬れるから」
「うわ、はい! 十分です、もう最高です!」
アンナは意味がわからないながらも剣を納める。
サエクは興奮冷めやらぬ様子で、笑みのまま口を開いた。
「実は自分、アンナさんの神の盾も、遠目にですが見たことあるんですよ。やばいと思いました!」
「やばい?」
その言い草に、アンナは思わずくすくすと笑う。だが、サエクの次の言葉で、その笑みが止まった。
「アンナさん。この光の剣と神の盾を題材にした物語を……書かせてもらえませんか?」
「……え?」
「取材も、させてほしいです! まあ、忙しいでしょうから、こっそり勝手にするかもしれませんけど!」
「それって……私の話を、書くってこと?」
「はいっ!」
サエクは真っすぐに頷く。その目には、いつもの朗らかさではなく、創作に燃える真剣な光が宿っていた。
アンナはしばらくのあいだ、黙ってサエクの顔を見つめる。
(私の話……?)
アンナは手元の剣を見る。
特別な剣と思われているが、これは古代の剣クレイヴ・ソリッシュではない。
「勘違いしてるようだけど、これは本物じゃないのよ。私の二十歳の誕生日にグレイがくれた、クレイヴ・ソリッシュのイミテーションなの」
「そうだったんですね! メモメモ!」
サエクは手帳を取り出すと、早速メモを取っている。
「それに、この盾はアイアースって呼ばれてるけど、本物じゃなくて──」
「知ってます。グレイさんを守った盾、だからですよね」
アンナは頷いた。
周りが勝手にそう呼んでいるだけで、両方とも本物ではないのだ。
なのに、光の剣と神の盾を題材とした物語を、彼女は紡ごうとしている。
人気の物語のように、特別な冒険をしたわけでもない。
アンナにとっては、魔物と戦うことも、仲間と切磋琢磨することも、愛する人と日々を過ごしたことも──
すべてが、日常だ。
そんな人生が本になるほど価値のあるものだとは、アンナ自身は思っていなかった。
「……私の話を、誰が面白がるのかしら」
漏れたつぶやきに、サエクは迷いなく首を振った。
「誰に頼まれたわけでもないです。でも実はもう書き始めちゃってて。アンナさんなら、きっと許してくれるかなって。えへへ」
「ええっ? ちょっと……っふふ、もう!」
思わず吹き出すと、サエクは再びまっすぐにアンナへと視線を重ねる。
「アンナさんの人生を、後の人にも知ってほしい。この国に、こんな人がいたって、ちゃんと残しておくべきだって。それだけです」
その真摯な態度とサエクの言葉は、まるで剣のようにまっすぐで、アンナの心の奥を射抜いた。
(彼女はもう、ただのドッグシッターじゃないのね)
少し寂しい。でも、どこか誇らしい。
誰かの目には、自分も物語の登場人物として映っているのかもしれない。
そう思うと、不思議な胸の高鳴りがあった。
「……いいわ。そこまで言うなら、書いてちょうだい。サエクさんなら、きっと丁寧に紡いでくれるって、信じられるもの」
「わ、ほんとですか!? 本当に、いいんですか!?」
「でも、勝手に脚色しすぎたら、怒るわよ?」
冗談めかして笑みを浮かべると、サエクはぱっと花が咲いたような笑顔になった。
「もちろんですっ! でも……多少は盛らないとお話にならないので、そのへんは……こう、うまーくやります!」
「うまーくね?」
二人は目を見合わせ、自然と笑いがこぼれる。
そこへ、イークスが「わふん!」と声を上げて鼻を突き出してきた。アンナはその頭を抱き寄せる。
「イークスも、カッコよく書いてもらわなきゃね」
「あはは、任せてください!」
イークスのしっぽが、ぱたぱたと勢いよく床を叩いた。
二人の笑いが収まると、ちょっとした静寂が訪れ──
アンナは、しっかりとサエクの顔を見つめる。
「今まで本当にありがとう、サエクさん。創作、頑張ってね」
「こちらこそ、ありがとうございました! イークスくん、裏山でも元気でやるんだよー!」
サエクの明るい声に、アンナは小さく笑った。イークスも「わんっ」と小さく返事をする。
そして、名残惜しそうに店内を一度だけ見渡したイークスの頭を、アンナはそっと撫でる。
「行きましょう、イークス」
サエクに背を向けたアンナが扉を押し開けると、夕陽がやさしく差し込んだ。
ひとりと一匹は、その夕暮れの中へと消えていく。
後ろ姿を見送ったサエクは、原稿用紙を取り出し、早くも物語の続きを書き始めていた。
その筆致は軽やかで、どこまでも、真剣であった。




