200.そんなに教え込んでたなんて
サエクの店を訪れると、いつも元気な彼女が今日は少し浮かない顔をしていた。
「──あっ、アンナさん!」
こちらに気づいたサエクが、ぱっと笑顔になって手を振る。けれど、その明るさの下に、微かな陰りがあるのをアンナは見逃さなかった。
「いつもありがとう、サエクさん。……小説は書いてないの?」
「いえ、書いてます書いてます! でも今日はちょっと、アンナさんにお話と……お願いがあって」
「なにかしら」
「あ、先にイークスくん連れてきますね!」
サエクはそう言ってから一度奥へと下がり、イークスを連れてすぐに戻ってきた。
子犬だった頃の面影を残しながらも、今ではすっかり大きく育ち、見た目はもう成犬そのもの。だが中身はまだ幼く、人懐こさも無邪気さもそのままだ。アンナを見るなり嬉しそうに跳びついてくる。
「お待たせ、イークス」
アンナは笑みを浮かべながらリードを受け取ると、そのふわふわの頭を撫でた。イークスは尻尾を勢いよく振って、満足げに鼻を鳴らす。
その様子を見守っていたサエクが、口を開いた。
「実は、自分……受賞をきっかけに、執筆の仕事がぐっと増えてきまして」
サエクが賞を獲ったのは、ちょうど二ヶ月前の、軍の改編の時期だった。アンナ自身が忙しくしていたこともあり、それを知ったのはだいぶ後になってからだ。
「すごいじゃない。でも、もしかして──」
「はい。少しずつ、ドッグシッターの仕事を減らしてはいたんですけど……イークスくんが、最後のお預かりで」
「……もう、見てもらうのは難しいかしら?」
「うーん、自分、取材旅行とかも入っていて。難しいですね。もちろん、同業者を紹介する事はできるんですが、一般地区なのでかなり遠くなっちゃいます」
アンナは思わず眉を寄せた。イークスのことを考えると、胸の奥が少しだけ重くなる。
しかしサエクにも事情はあり、責めるわけにはいかない。彼女にはこれまで本当によくしてもらっているのだ。
「そう……でも仕方ないわ。その人を紹介してくれる?」
「もちろんです。でもその前に、一つだけ聞いておきたいことがあって。アンナさんは王宮の裏山に、イークスくんを連れて行ったことってあります?」
「裏山に?」
思いがけない言葉に、アンナは目を瞬かせた。
王宮の背後には、小さな山がある。標高こそ低いものの、自然が豊かで、地下から湧く水は今なお王都ラルシアルの主要な水源となっている。この地に王都が築かれた由来とも言われているほどだ。
しかし同時にその地は、人々の負の感情が澱のように溜まり、魔物が自然発生する場所でもあった。
定期的な魔物狩りが行われてはいるが、安全とは言い難い。
以前、ホワイトタイガーが出現したのもその裏山だった。あれは自然発生ではなく、例外的なものだとアンナは認識しているが。
街中のように安全とは言えない場所に変わりはない。
「いいえ。連れて行ったことはないけれど……それがどうかしたの?」
「じゃあ多分、グレイさんかな。イークスくん、あの山で躾けられてますね」
「……え?」
思いも寄らぬ答えに、アンナは目を大きく見開いた。
「躾け、って?」
「最近、イークスくんと二人で散歩していると、やたらと裏山に行きたがるんですよ。で、この間魔物に遭遇しちゃいまして」
「え!?」
「いやー、びっくりしましたね! 自分、魔物に遭うの、久しぶりだったんで!」
「大丈夫だったの??」
「イークスくんがやっつけてくれました」
「ええ!? イークスが?」
あまりの驚きに、アンナは息を呑む。
「はい。相手は植物系の魔物だったんですけど、枝をからめて襲ってくる前に、イークスくんが一気に噛みついて。枝を引きちぎって動きを止めたんです」
「……まさか、そんなことができるなんて」
アンナは信じられないというように、イークスに視線を落とす。彼は自慢げに鼻を鳴らし、しっぽを振っていた。
「普通は、魔物を目の前にした犬って、逃げるか、腰を抜かしちゃうんですけどね。でもイークスくんは、動じることなく戦ったんです」
「つまり、イークスは……」
「訓練されてますね。しかも相当、徹底的に。咄嗟にできない芸当ですもん」
「……グレイったら。そんなこと、まったく言ってなかったのに」
呆れと感心がないまぜになった笑いが、自然とアンナからこぼれる。
「他にもイークスくんは山道をちゃんと覚えてるし、湧き水の場所も把握してますねー。寝床にできそうな場所も見つけて、勝手にそこで休んじゃってます」
「……そんなことまで」
「あと、匂いで隠した餌を探す訓練もされてますよ。食べちゃっていいもの、ダメなものの区別もついてます。おそらく、そういうのを教え込まれてるんです」
「……そうなの?」
アンナが視線を下に向けると、イークスは得意げにわふっと息を吹き出した。尻尾をひときわ高く振り、堂々たる態度だ。
「魔物を倒したってことは、狩りもできるってことなのかしら?」
そう問うと、サエクは「あー」と少し首をかしげ、言葉を探すように指先をこめかみに添えた。
「んー、実はそこ、ちょっと別ジャンルなんですよねー」
明るく笑いながら、サエクは素人にもわかるよう、ゆっくり言葉を選んで続ける。
「魔物への攻撃って、もともとは防衛行動の延長なんです。普通は逃げるのが最優先で、次に威嚇、そして最後に反射的な攻撃が出る。でもイークスくんは、その反射で動ける部分を、ちゃんと訓練されてるんでしょうね。でも狩りってなると、逃げるものを追う必要があって、そこには経験と嗅覚、それから、好奇心が必要なんです」
「なるほど、そうなのね」
「おそらく、狩りよりも防衛行動を最優先で教え込んだんだと思います。とはいえ、イークスくんは狩りの最低ラインも超えてますけどね! グレイさん、相当上手く訓練してますよ。ネズミや野鳥のヒナくらいなら、イークスくんはちゃんと反応して捕まえるんで」
「……食べるの?」
少し眉をひそめて尋ねると、サエクはむふっと頬を上げて答えた。
「そこがまた面白いところで! 〝これは食べてもいい〟って教えられたもの以外には、ほとんど手を出さないんです。で、食べる時もがっつかない。ちゃんと、許可を求めるような目で見てくるんですよ」
「それってやっぱり……」
「そう、訓練されている動きですねー。『これを食べていいかどうか』って、判断を人に仰ぐ癖がついてる。でも、ひとりきりになったら、その線引きも少しずつ曖昧になるかもですね。たとえば小動物を仕留めた時なんか、自分の判断で食べることはあると思います」
「じゃあ……完全じゃないけど、イークスは一人で生きられるってこと?」
アンナの問いに、サエクは頷いた。
「単独で山を生きるには、ギリギリですけどね! けど水場も雨をしのげる場所も把握しているし、最低限の危機察知能力もある。やれる、と思ってます!」
足元のイークスは、アンナの足に鼻先をちょんと当ててから、しっぽをぱたぱたと振った。まるで、自分の話を聞いて悦に入っているかのようだ。
「……そんなに教え込んでたなんて」
呆れと驚きと、わずかな尊敬が入り混じった声でアンナが呟く。
「あと、もしかしてと思って指笛を試してみたんですけど」
「……どうなったの?」
「これもバッチリ教えられてますね! 指笛に反応して戻ってきました」
ビシッとサムズアップするサエクは、なぜかしてやったり顔でいひひと笑っている。
「アンナさんは指笛、できます?」
「ええ、できるわ」
「じゃあ裏山で飼えますよ! イークスくん、ワイルドなんで!」
「けど──」
アンナの言葉はそうついて出てきたものの、考え込むように唇と顎に指をかけた。
裏山は確かに魔物が発生するが、定期的な掃討はアンナの指揮のもと、軍が行っている。場所も王宮のすぐ背後。非常時には自分が駆けつけられる。
しかも生まれたての魔物なら、イークスの力でも十分に対応できるのだ。
「いえ……本当ね。裏山でなら、飼えちゃうわ」
予想もしていなかった未来に、アンナは瞬きをした。
イークスが裏山にいることで、魔物が育ちにくくなり、小動物や実のなる植物が増えるかもしれない。そうなれば、食料も自然と確保できる。イークスが生きていくための土台は、既に整っていた。
「一週間くらいなら、余裕で生活できます。もちろん、できれば毎日ごはん持ってってあげてほしいですけど!」
「それくらいならできるわ。王宮のすぐそこだもの」
「じゃあ、それで決まりですね!」
サエクの朗らかな声に、アンナはそっと笑みを浮かべた。
一般区のドッグシッターに預けると、会えるのは週に一度がせいぜい。でも裏山なら、ちょっと足を伸ばすだけでいい。
指笛を鳴らせば、イークスが自分から駆けてきてくれる──そんな未来が、少しだけ楽しく思えた。
「グレイがそんなに丁寧に訓練してくれていたなんて、思わなかったわ。裏山でも、この子はちゃんと生きていける……いえ、生き抜いてくれる気がするわ」
「自分も、そう思います!」
イークスはアンナを見上げながら、ぴょこんと片耳を立て、またしっぽを振った。
──姐さん、任せてくれよ。俺、やれるぜ!
その目はきらきらと澄んで、そう言っているかのようだった。




