199.誰が飼い主かわからなくなるわ
筆頭大将アンナは、カールと並んで前線に立っていた。
深い森の奥地で魔物の集団が現れたとの報告を受け、百騎を率いての討伐任務である。
「左から三体、来るぞ!」
アンナの鋭い声に応じて、カールが素早く剣を構えた。
「任せろっ!」
軽く言い放ったその声に気負いはない。が、踏み込みは正確無比だった。
鋭い一閃が魔物の胴を裂き、黒い体液が飛び散る。
アンナもまた、剣を抜いて前に出た。
「怯むな! 一気に畳みかけろ!」
号令の声が森に響き渡る。兵たちは気を引き締め、呼吸を合わせて魔物に立ち向かう。
アンナの戦いぶりは、まさに軍を束ねる筆頭大将のそれだった。剣筋は鋭く、動きに無駄がない。しなやかに駆け、的確に斬り伏せる。
カールとの連携も完璧だった。呼吸を読むまでもなく、二人は互いの動きを知り尽くしていた。
「さっすが筆頭大将様だよなっ」
冗談めかしたカールの声に、アンナは唇をひとつ引き結ぶ。
「カール。軽口を叩く余裕があるなら、あと三十体は倒してもらおうか」
「っへ、んーなの余裕だぜ! アンナより多く倒してやるよ!」
「やれるものならな」
アンナも口の端を上げて応じつつも、剣の軌道は鋭さを失わない。
背中を預け合う二人の間には、長年の戦友のような揺るぎない信頼があった。
やがて森は静けさを取り戻し、任務は無事完了を迎えた。
騎士たちに大きな損害はなく、被害も最小限。戦果としては上々だった。
しかし、帰還の途についた時。
アンナの心はふと、王都に残してきたイークスのもとへと向かっていた。
(来週まで迎えに行けそうにないわね……ごめんね、イークス……)
あの透き通るような瞳を思い出すだけで、胸の奥がきゅっとなる。
誰よりもグレイに懐いていたイークスを、手放すつもりはない。
けれど今の生活では、そう思い続けることさえも贅沢なのかもしれなかった。
筆頭大将となって、二ヶ月が過ぎていた。
暑い盛りだが、周辺国からの挑発もなく、フィデル国の動きも沈静したまま。
おかげで大規模な戦はなく、表面上は穏やかな日々が続いている。
普段王宮で暮らしているアンナだが、週末になると預けていたイークスを引き取りに行く。そして家で一緒に過ごすことを習慣にしていた。
だが、将としての務めは想像以上に重く、最近は週末でさえ自由にならないことが増えている。
(このまま土日まで預けっぱなしにしたら……一体、誰が飼い主かわからなくなるわ)
イークスは、かつての婚約者グレイが愛し、共に育てた犬だ。
アンナにとっても、イークスはつらい時にそばにいてくれた、大切な家族なのだ。
迎えに行けば、尻尾をぶんぶんと振って駆け寄ってくる、愛らしさ。
もちろん一緒に暮らしていきたい。ただ、仕事をしながら飼えるかと言われると、難しいところだった。王宮に連れていくわけにもいかない。
(新しい飼い主を探すなんて、イークスが絶対に嫌がるわ。私だって、寂しい……。私の家族はもう、イークスしかいないのに)
父親がどこにいるかわからない今、アンナの家族と言える者は、イークス以外にいなかった。
愛し合ったグレイも。太陽のような明るさを持った母アリシアも。
この世から、いなくなってしまったのだから。
ふと寂しくなることはある。
しかし、アンナはそれを誰にも見せなかった。
アンナはこの国を背負う、筆頭大将なのだから。
ある日のこと。
執務室で書類に目を通していると、ドアが開く音とともに、砕けた声が響いた。
「アンナ、どっかメシ食いにいかねぇか?」
書類を提出しに来たカールが、気軽にそう言ってくる。
彼はこの夏の組織改編で、第四軍団の小隊長に就任したばかりだ。新しい部下を抱え、忙しくしているのはわかっている。
「まだ勤務中だろう」
冷たく息を吐きながら言い放つと、カールは肩をすくめた。
「もうちょいで定時なんだしよ、いいじゃねぇか。土曜は残業しない主義だろ、アンナは」
この男は、アンナが筆頭大将になった今でも、敬語など使わない。
幾度か注意はしたが、結局、言っても無駄だった。
それに、彼が敬語を使えば、きっと調子が狂うだけだ。
「イークスを迎えに行きたい。それよりこの書類、不備があるな。やり直せ」
「げっ、マジかよ」
「それから、もっと丁寧に書けと何度言わせる。直したらトラヴァスに回しておけ。私は帰る」
「っちぇ」
カールが出ていくと、部屋の隅で空気のように勉強していたルティーが、クスクスと笑った。
アンナはそんな彼女へと、さっきまでとは打って変わった優しい顔を見せる。
「ルティーも、今日はご苦労だったな。あがって構わない」
「ありがとうございます、アンナ様。このテキストだけ終わらせて、掃除をしたら帰ります」
「そうか。頼む」
ルティーは十一歳。平日は軍の補助として働きつつ、時間を見つけては勉強に励んでいる。
学びが遅れぬよう、自学で学校課程の内容を進めているのだ。以前はルーシエやマックスに教わっていたが、今は一人で取り組んでいる。
アンナも見てあげたいと思いながらも、ルティーに割く時間的余裕はなかった。
執務室を後にしたアンナは、涼しげな夕風の中、王宮をあとにした。
先週は迎えに行けなかった分、イークスに会えるのが嬉しくてならない。
イークスが尻尾を振って駆け寄ってくる姿を想像するだけで、自然と足が軽くなる。
夕暮れの街路を、アンナは足取り静かに、それでもどこか弾ませながら歩いていった。




