195.選択肢なんてなかった
夜の帳が下りる頃、男ふたりは同じ部屋に腰を落ち着けていた。
「お前はベッド使えや。俺はソファーで十分だからよ」
先に口を開いたのは、がっしりとした体格の男──ブラジェイだった。
気取りのない声音には、どこか世話焼きの気配がにじむ。
「ありがとうございます。見かけによらず優しいですよね、ブラジェイさん」
スヴェンは礼を言いながらも、くすりと笑う。どこかからかうような響きを含んで。
「おめぇ、俺のことどう思ってんだ。まぁいい、お子様は早く寝ろ」
「僕、もう十七ですよ」
「二十六の俺からすりゃ、まだまだガキだ」
スヴェンはベッドの縁に腰掛けると、ふと唇をつり上げた。
「そのガキを警戒してるのは、ブラジェイさんの方じゃないですか」
唐突に冷ややかな目になったスヴェンに、ブラジェイは睨むでもなく、視線を逸らす。
「……警戒なんぞ、してねぇんだがな」
「気にしてるでしょう? どっちがガキだか」
からかう口調に、ブラジェイは眉間に皺を寄せ、鋭く睨む。
「てめぇ……」
その迫力にも動じず、スヴェンは「怖い怖い」と涼しい顔で笑った。
舌打ちの音が空気を割り、ブラジェイが溜めていた息を吐き出す。
「別に、俺とあいつはなんでもねぇよ」
「それじゃあブラジェイさんだけ宿に泊まればよかったじゃないですか。わざわざソファに眠って僕を警戒しなくても」
「女だけの家に、お前だけ泊まらせるわけにゃいかねぇだろうが」
ぶっきらぼうな言い方に、スヴェンはふっと目を細めた。
「おや。僕を大人の男として見てくれてたんです?」
「……うるせぇ」
露骨に嫌そうな声で言い捨てるブラジェイ。苦味の走ったその顔を見て、スヴェンは笑う。
「問題を起こす気はありませんよ。やっと帰れるんです。与えられる地位を無駄にするほど、馬鹿じゃありません」
「そうだろうな。だが、こっちにも事情がある。使役の異能持ちから、目を離すわけにいかねぇんだよ」
ブラジェイの声音が僅かに低くなる。スヴェンは静かに頷いた。
「ご安心を。裏切るような真似はしません」
スヴェンにとって何よりも優先すべきは、サエスエル国で弟を無事に保護し、奴隷という枷を外して相応の地位へと引き上げることだ。
その目的のためなら、無用な波風を立てる真似など、最初から選択肢にない。
「それでもだ。ホワイトタイガーを使役されると、脅威なのは間違いねぇからな。やってたろ? ストレイアの首都で」
ブラジェイの言葉に、スヴェンは首を振った。
「あれは違いますよ。魔物を使役する能力は僕にはありません。動物を使って、ホワイトタイガーをおびき寄せただけです」
それは二年前のことだ。
ヤウト村で少年工作員として作戦を展開しているスヴェンの元へと、指令が届いた。
参謀軍師ミカヴェルから急遽告げられた、敵将アリシアの暗殺命令。
「……結果は失敗に終わりましたけど」
「ああ、ありゃ失敗だな。だが、成功でもある」
「……は?」
意味深な言葉に、スヴェンが眉をひそめる。ブラジェイは低く息をついて、ソファに背を預けた。
「わかんねぇか? あれは最初から、お前に殺らせる気なんざ、なかったってこった」
「……どういうことです」
「命令を出したのは、ミカヴェルだろ。あいつのやり口は、回りくどいんだよ」
ソファの縁を指でトン、と叩いて、ブラジェイは目線を宙に滑らせる。
「成功させたらそれで良し。失敗しても、〝どう失敗するか〟で使えるかどうか見極める。……そういう任務だったってこった」
ブラジェイの言葉に、スヴェンの表情が、少しずつ険しさを増していった。
「つまり、試されていた……と?」
「そういうこった。お前が命令に従う奴か、信用に足るか。ミカヴェルはそれを見てた。結果、〝飼う〟には都合がいい、ってところだろうな」
スヴェンは唇を噛んだ。悔しさと怒りがせめぎ合う。
「弟を人質にされたようなもので、選択肢なんてなかった。それでも忠誠心の有無を試すっていうんですか?」
「そういう、理不尽さも含めての判断だったんだろうよ」
ミカヴェルの思惑に乗るしかなかった腹立たしさが、スヴェンの顔に表れる。
そんなスヴェンを見たブラジェイは、ふっと眉を下げて笑った。
「もう、あいつにゃ関わらせねぇよ。サエスエル国でお前の地位と弟の安全が確保されているのは本当だ。あの国で、兄弟仲良く暮らしゃいい」
ブラジェイのその言葉に、スヴェンはじっと視線を落としたまま、わずかに唇を噛んだ。
──兄弟仲良く。
叶うなら、そうしたい。なんの駆け引きも裏もない国で、弟と普通に生きていけるなら、それ以上の願いはない。
「……信じていいんですね? サエスエルに行けば、弟は本当に……」
「俺がなに言っても無駄じゃねぇのか? 自分で確かめろ。実際に、その目でよ」
ブラジェイのその言い方は、あくまでぶっきらぼうだったが、嘘の匂いはなかった。
スヴェンはほんの少しだけ、眉を緩める。
「わかりました。逆らわずに従いますよ」
「ああ、そうしとけ」
場の空気が、少しだけ緩んだ。
スヴェンの、フィデル国への思いは複雑だ。
利用された悔しさや怒りがある。そして、同時に──感謝も。
ブラジェイやティナとは、最終の作戦とその後の道中が一緒だっただけだ。
それでもその人となりを、スヴェンはわかっているつもりだった。
「それにしても、本当に顔に似合わず優しい」
眉をひそめるブラジェイに、スヴェンはふっと笑ってみせる。
「今日も、僕のこと見張るって言いながら、ずっと周囲に気を配ってましたよね。道中でも、食事中も」
「……職業病みてぇなもんだ」
「保護者かと思いましたよ。僕と、ティナさんの」
「カンベンしてくれ。誰がお前らの保護者だ」
「でも、本当は僕のこと、ちょっと気に入ってるんじゃないですか?」
「……てめぇなぁ……」
嫌な顔を見せつつも、まったく本気で怒っていない。
彼のそういうところが、多くの者に慕われ、惹かれる理由であると察して、スヴェンは微笑みをみせた。
「ティナさんもいい人ですよね。優しくて、強くて、少しお節介で。……お似合いだと思いますけど」
「なに言ってやがる。あいつはそんなじゃねぇ」
ぶっきらぼうな口調だが、強く否定するでもない。
「好きじゃないんですか?」
「ありえねぇなぁ。変な勘繰りしてねぇで、もう寝ろ」
面倒がるブラジェイに、スヴェンは仕方なく毛布に潜り込んだ。
それでも気になって、毛布の中から顔と声を出す。
「ティナさんはブラジェイさんのこと、好きだと思いますけど」
「ねぇよ。あいつの想ってんのは、俺じゃねぇ。あいつは別の男に惚れてんだ。お前みてぇな、美丈夫のよ」
口の端を無理やり吊り上げるブラジェイに、スヴェンはどこか納得いかない。
「ふーん。じゃあ、迷惑かけないようにそばにいる……っていうのはどうです?」
「だから寝ろっつってんだろ、てめぇ……」
低く唸るような声に、スヴェンはもうひと笑いしてから、ようやく目を閉じた。
「はーい。おやすみなさい、ブラジェイさん」
「……もう喋んな」
毛布に潜り込みながら、スヴェンは小さく笑った。
その声を最後に、部屋には再び静けさが訪れる。
「……ほんとガキだな」
月明かりが窓から差し込み、ブラジェイは口の端を上げて笑った。
その光の中で、ふたりの夜は、静かに深まっていった。




