190.覚悟が足りなかったのは、私の方かもしれないな
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アンナが執務室の整頓を進めていると、扉が控えめにノックされた。
「失礼します」
姿を見せたのはルティーだった。背筋を伸ばしたその姿には凛とした気高さがあったが、その目元には、まだ癒えきらぬ痛みが滲んでいた。
「アンナ様。これより私は、正式にお傍でお仕えいたします。至らぬ点もあるかと思いますが、どうかよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。早速だが、この資料を分類して、それぞれ箱に分けて入れてくれるか?」
「かしこまりました」
手渡した書類の束をルティーは受け取ると、すぐさま手際よく作業に取り掛かっている。
しかし、その様子を横目に見ていたアンナは、彼女の動きにどこか翳りを感じた。
静かなため息のように、問いが口をついて出る。
「前筆頭大将の部下たちは、どの部署に行くと言っていた?」
手の動きがぴたりと止まり、ルティーは視線を伏せた。
「マックスさんは、クロバース隊に……ルーシエさん、ジャンさん、フラッシュさんは、軍を辞めて出ていかれました」
「……そうか」
アンナの胸の奥に、鋭い痛みが走る。
アリシアの元で長年共に戦ってきた顔ぶれだ。アンナにとっても、彼らは幼い頃からよく知る人たちだった。
アリシアを敬愛し、その背を守り続けた彼ら。だからこそ、新しい主を得ることなく去るのではと覚悟していたが、どこかでまだ希望を捨てきれずにいたのだ。
(でもきっと、それが彼らにとって最善だったんだ)
去る者を責めるつもりはない。
いなくなる寂しさはあるが、アンナはそれをぐっと飲み込もうとした。
「アンナ様」
まっすぐな声に顔を上げると、ルティーが真摯なまなざしで見つめていた。
「私は、どこにも行きません。生涯、アンナ様のお傍で仕えさせてくださいませ」
その健気な決意に、アンナは言葉を失う。胸の奥が熱くなるのを感じながら、しかし、その感情に溺れるわけにはいかなかった。
「ありがとう、ルティー。しかし私の傍にいるということは、楽な道ではない。時には厳しい決断もしなければならないだろう。その覚悟はあるか?」
その言葉に、ルティーは迷いなく頷く。
「はい。私は、アンナ様と共にあると決めました。たとえどんな困難があろうとも、乗り越えてみせます」
その答えに、アンナは己の問いが愚問であったことに気づく。
すでに彼女は乗り越えているのだ。
戦場に出向き、アリシアの最期を見届け、それでもまた、新しい筆頭大将の付き人であろうとしている。
そんな彼女は、誰より強いのではないのか。
(……覚悟が足りなかったのは、私の方かもしれないな)
アンナは苦笑とともに自嘲し、そして顔を上げた。
「頼りにしている。その代わり、私もルティーを全力で守ろう。誰よりも大切な、母と私の付き人だ」
「アンナ様……」
ルティーの頬がほんのりと色づいた。
「なにか困ったことや、つらいことがあれば、すぐに言ってくれ」
「はい……ありがとうございます」
アンナが穏やかに微笑むと、気を張りつめていた空気が少し和らぐ。
「さぁ、まずは片付けを終わらせてしまうか」
「はい!」
元気よく返事をするルティー。その明るい声に、アンナの肩の力はふっと抜けた。
二人は肩を並べ、再び執務室の整理に取りかかった。
***
新たな筆頭大将として、アリシアが使っていた執務室に移動して、二日目。
整理された部屋にはまだ、彼女の気配が仄かに残っていた。
手にしたのは、アリシアの遺した一冊の書。
「ルティー。私は少しの間、出掛けてくる。留守を頼むよ」
「はい、かしこまりました」
アンナに頭を下げたルティーは、黙々と細部の掃除を続けていた。
日が傾き始めた王都の石畳を踏みしめ、向かったのは、一般区に入ったすぐの小さな店だ。
《習得所メルダの間》の看板が軒に掲げられていた。年季の入った建物である。
中に入ると、棚に並ぶ試し用の書が目に入る。
魔法も異能も、本来は書を読み、内容を完全に理解することで体内に習得されていく。だが、相性が悪ければ、どれだけ読み込んでも身につくことはない。
習得師の存在は、そうした無駄を省くためのものだ。
「いらっしゃい。なにを習得するね? それとも〝取り出し〟に来たのかい」
現れたのは、小柄な老女だった。皺の刻まれた手を見せながら、うっすらとした笑みで迎えられた。
「これをお願いします」
アンナが書を渡すと、老女は目を細める。
「……《救済の書》とは。なんとも懐かしいものを」
その口調には、驚きと、ほんの少しの哀愁が混ざっていた。
「この書はな……幸福になりたい者には向かん。誰かのために、自分をすり減らすことも厭わぬ者が持つには、あまりに重い力じゃ。とくに──大切な者の死を目の前にして、黙って立ち尽くすことができぬ性分なら、なおさらな」
アンナはその言葉に、まっすぐな眼差しで答えた。
「わかっています」
その確かな意思に、老女はふっと微笑んだ。
「……ふふ。これを人に習得させるのは、わしの長い人生でも二度目じゃ」
「──え?」
アンナが目を見開くと、老女は懐かしむように遠くを見つめた。
「昔も一人、同じような目をした者がいた。お主と、よく似た目でな……」
そして老女は、記憶の奥底に眠る一人の人物の名を、静かに語り始めた──。




