188.特に私のような人間相手にはな
アンナとルティーが手を握り合うのを、トラヴァスは数歩離れた位置から見届けた。
華奢な少女の手が、そっと差し出され、柔らかな手に受け止められる。
その一瞬に、たしかな絆が芽吹いた気がした。
トラヴァスは、ふっと小さく息を吐く。
ルティーの希望は通った。アンナには、信頼に足る付き人がついた。
この結果は、上々と言っていい。
目を輝かせるルティーに向かって、トラヴァスは声を掛ける。
「来なさい、ルティー。今からアンナの付き人となる手続きをしてやろう」
「はい! ではアンナ様、また後で伺います!」
弾むような声が執務室の壁に反響し、アンナはふんわりと微笑んで、軽く頷いた。
そうして二人はトラヴァスの執務室へと戻る。
扉を閉める音が静かに響いた部屋で、トラヴァスは机に向かい、再び書類に目を通し始めた。
ペンの先は滑らかに動きながらも、意識の一部は、机の前に立つルティーに向けられる。
「あの、トラヴァス様、本当にありがとうございました!」
深々と頭を下げるその仕草に、社交辞令とは異なる真摯な熱がこもっている。
少女が示す感謝は、曇りがなく、眩しいほどだ。
「礼には及ばない。私もアンナとの会食を取りつけられたからな」
ペンを走らせながら応じる。
先日は、アンナの部屋で食事を共にしてはいた。だが、あれはアリシアを亡くした直後という異例の状況下だ。
慰めと配慮が優先される場に、色を差し挟む余地などなかった。
だからこそ、今回の“どさくさ”は幸運だったのだ。今度こそ、正式に誘うことができた。それだけでも意味がある。
「そのことですが、お食事の際の出費は私に払わせてくださいませ! 元々は私のせいですし……」
自分の非を真っ直ぐに受け止めて、代償を払おうとするルティーに、トラヴァスは律儀な性分だと心の中だけで笑う。
「構わんが、付き人程度の給金だと、破産するぞ?」
「え!? アンナ様は、そんなに食べられるのですか!?」
「量はそこそこだな」
予想通りの反応に、トラヴァスはペンを置き、ルティーをじっと見つめた。
「金のことは気にしなくていい。それより、ルティーにひとつ頼みがあるのだが」
「頼み? なんでしょう。私にできることなら、なんでもさせていただきますが」
軽快に言い切る声の裏に感じられる、純粋な心。
だがその純粋さは、時に不用意な刃ともなり得る。
「軽々しくなんでもやるとは言わない方がいい。特に私のような人間相手にはな」
トラヴァスの言葉に、ルティーの唇がかすかに動き、喉が詰まる音が微かに聞こえた。
理解はしているのだろう。自分の不用意さに気づいた顔をしている。
「あの……なんでしょうか……」
だが、それでもすぐに立て直して、問いかけてくるあたりが、この少女の強さだ。
「そんなに怯える必要はない。すまないが、付き人の合間にで構わない。医療班にも顔を出してもらえるか。このままだと、ゾルダン医師の顔が立たなくてな」
ゾルダン──あの荒々しい医師は、ルティーのことを気にかけながらも、どこか不器用な愛情表現しかできない。
彼に苦手意識を持っているようだとトラヴァスは気づいていたが、予想外にルティーは『そんなことか』とでも言いたげにほっと息を吐いた。
「はい、不都合はありません。医療の技術も上げたいと思っていましたし、むしろ有難いお話です」
前向きな返事に、トラヴァスわずかに目を細める。
「そうか。ではこれが決定通知だ。今からアンナのところに行ってくれて問題ない」
「ありがとうございます! 皆さんに知らせてから、アンナ様の元へ向かいます!」
書類を手渡すと、ルティーは天使のような笑顔を見せ、『みんな』の元へ駆け出していった。
そんなルティーの顔を見たトラヴァスは、一人残された執務室でふっと笑う。
(あれほど真っすぐに礼を言われると、調子が狂うな)
あれでまだ十一歳。
礼儀正しい姿勢、〝氷徹〟相手に怯まぬ態度と胆力、それでいて天使のような容貌と表情。
どれをとっても、凡百の大人を凌駕している。
(末恐ろしいとは、まさにこのことか。アンナの付き人には、確かに彼女のような人物が最適だったのかもしれん)
思考を巡らせていると、扉がノックされた。入室を促すと、すらりとした姿が姿を現す。
入って来たのはローズ──第二軍団副官に任命されたばかりの、元恋人だ。
「ローズか。異動の準備の方はどうだ?」
彼女は相変わらず快活で、はつらつとした口調で応じる。
「引き継ぎもあるし、そんなにすぐ終わらないわよ。もう少し時間をくれる?」
「ああ、構わない。副官用に執務室も用意した。必要な荷物はそっちに運び入れてくれ」
「あら。私はこの部屋で、一緒に仕事するものだと思ってたのに」
「男女が密室でずっと一緒にいるのも都合が悪かろう」
「ふん……クソ真面目」
皮肉を込めるように言いつつも、その目は楽しげだった。
別れたとはいえ、一緒に仕事できることが嬉しいという気持ちが滲んでいて、それはトラヴァスも同じだ。
「三日後にはあなたの副官として、ちゃんと働けるようにするわ」
「今回は改編が前倒しで急だったからな。統括の仕事をしっかり終わらせてからで構わない」
「そう、わかったわ。それじゃあ、戻るわね」
踵を返しかけたその背に、トラヴァスはふと声を掛けた。
「話を受けてくれてありがとう、ローズ。助かった」
振り向いたローズは、目を細め、静かに笑う。
「いいのよ。私も一気に出世できたから」
その軽妙な物言いに、思わずふっと笑みがこぼれる。
ローズは満足げに頷くと、軽やかに扉を開いて出ていった。
からりとしたその性格が、トラヴァスは昔から嫌いではなかった。
彼女はしっかり者で、強く、そして潔い。
(ローズとなら、これからも上司と部下として、うまくやっていけるだろう)
トラヴァスはそう、信じていた。
扉が閉まったあとも、彼女の香りがほのかに残っていて──。
かすかに引っかかるその名残から、トラヴァスは目を背けた。




