187.この男は……わざと言ったな……
アンナは部屋に入ってきた人物を見て、ふと口元を緩めた。
「ああ、トラヴァスか。どうした?」
それだけ言うと、すぐに目を机に戻し、書類の整理をする。
部屋のものをすべてまとめているのだ。筆頭大将用の執務室に移動するために。つまり、アリシアが使っていた執務室にである。
自分の荷物はもちろん、アリシアの執務室も把握しなければならない。
さらに休みの日には、王宮に借りているアリシアの部屋も片付けなければならないので、時間はいくらあっても足りない状態だった。
「片付け中か、忙しそうだな」
「まぁな。前筆頭大将の部屋も片さねばならんし、しばらくは引越しと書類整理になりそうだ」
「手伝おうか」
「有難いが、遠慮しておく。どこになにがあるか自分で把握していなければ、後々面倒だからな」
「ああ、言い忘れていたが、手伝うのは俺じゃない。ルティーだ」
そこでアンナは初めてルティーがいることに気づいた。
思わず眉を寄せ、小さな少女とトラヴァスを見比べる。
「ルティーが? なぜだ?」
「アンナの付き人になるそうだ」
「なに?」
アンナはその言葉に理解できず、顔を歪めた。トラヴァスは相変わらずの無表情で、ルティーはそれをドキドキとしながら見守っている。
「私はルティーを付き人にするつもりはない。お前も知っているだろう」
「ああ、それなんだがこれを見てくれ」
トラヴァスが、一枚の書類をアンナに向けた。
アンナは仕方なくそれを受け取り、目を通す。
「これは……ルティーの配属通達書? 配属先は、医療班か……私の付き人、だと!?」
アンナはその紙をくしゃりと握った。
アンナが希望した人員は、ルーシエとジャンだけだ。ルティーを付き人にしたいなどとは、一言も言っていない。
「どういうことだ、トラヴァス!」
「ああ、すまん。どうやら書士が勘違いをしたようでな。俺もそのミスに気付かず、判を押してルティーに回してしまった」
それは、明らかに嘘だとわかった。
なのにトラヴァスはまったく悪びれもしていない。
怒りを滲ませるアンナに、トラヴァスは飄々と言い放つ。
「ルティーがアンナの付き人にというものでな。どうだ? 彼女を付き人にしてみては。ルティーならばアリシア様の部屋の書類は熟知しているし、この引越しも手伝わせればアンナの物も整理できるはずだ。アンナ自身がすべてを覚えこむ必要はなくなる」
「そんな理由でルティーを付き人になどできない。まだ彼女は十一歳なんだぞ」
話にならないと切り上げようとするアンナに、トラヴァスは食い下がった。
「医療班に配属になるにしろ、アンナの付き人になるにしろ、彼女は働かなければならないんだ。希少な水の魔法士をやすやすと手放すことがあっては、いくら筆頭大将と言えども進退に関わってくる」
「トラヴァス……脅すつもりか?」
「いいや。私は事実を述べたまでだ」
ピリ、と空気が軋んだ。
明らかな脅しを見たルティーが、顔面を蒼白にさせて事態を見守っている。
ギロッとトラヴァスを睨みつけるアンナに、やはりトラヴァスはなんでもないことのように言葉を続けた。
「アリシア前筆頭大将がルティーを医療班に配属させず、手元に置いていた理由がわかるか?」
「なに? ……ルティーが付き人を望んだから、という話は聞いていたが」
それ以外にアリシアから話は聞いていない。眉を寄せながら、トラヴァスの言葉を待つ。
「この王宮で働く者は、ほとんどが十八歳を超えている。医療班も、オルト軍学校で厳しい訓練をくぐり抜けてきた者や、学校で専門知識を学んできた者ばかりだ。そんな中にただ水の書を習得させられただけの子どもが、なんの苦労もなく入ってみろ。どうなるかは火を見るより明らかだろう」
「それは、そうだが……」
ストレイア王国は、実力主義だ。
年若くとも、実力さえあればどんどんのし上がっていける。
しかし、ただ水の魔法を習得できたというだけであれば、実力があるとは判断されない。
十一歳のルティーが医療班に放り込まれれば、知識も経験もない彼女を面倒に思う者も出てくるはずだ。
なのに癒しの力だけはあるから、やっかまれる可能性がある。冷たい扱いを受けることも、容易に想像がついた。
そんな環境に一人放り込まれれば、心が折れるのは時間の問題だ。泣きながら逃げ出すか、無理をして体を壊すか──どちらにしても、彼女にとって良い結果にはならない。軍のためにも。
「アンナにとって悪い話ではあるまい。そもそもアンナが今まで付き人らしい付き人をつけなかったのは、信用の足る人物がいなかったからだろう? 極秘扱いの書面が多くなると、どうしても疑心暗鬼になるからな。重要な情報を売られでもすれば、一発で一般兵に格下げだ」
「わかっているなら彼女を連れて出ていってくれ」
「だからこそ、ルティーが最適だというのだ。アリシア前筆頭大将を死なせた罪の意識のある彼女が、その娘であるアンナを裏切るわけがあるまい?」
トラヴァスの言葉に、ルティーの顔が青ざめる。
(この男は……わざと言ったな……)
そう思いながらアンナは、トラヴァスに傷つけられたルティーへと同情の目を送った。
すると捨てられた子犬のような目で見上げられて、アンナの胸はぎゅっと音を立てる。
「ルティーにしても、一人で医療班に放り込ませるのは酷というものだ。筆頭大将の付き人という肩書きを得て、その庇護下に置くことでこそ、この王宮を生き抜ける。つまり双方にとってメリットしかないわけだが?」
ここまで反撃の糸口を閉ざされてしまっては、アンナは大きく息を吐くしかなかった。
手元の書類を一瞥し、トラヴァスを睨みつける。
「まったく、お前という奴は……この書類も、お前が捏造したな?」
「おや、バレてしまったか」
トラヴァスは相変わらずの無表情で、特段悪びれる様子もなく肯定した。
「で、トラヴァスがこんな捏造までした理由を聞こうか」
「二人にとってよりよい形をとると、こうなっただけだ。格好よく言い換えるなら、今後のストレイア王国の要となる人物に、良質な環境を与えるため、といったところだな」
トラヴァス見事なとどめを刺され、アンナは「まったく」と笑うしかなかった。
ルティーの表情が、にわかに明るくなっていく。
そんな顔を見てはもう、断ることなどできなかった。
「捏造の件は不問にしておいてやる」
「それは有難いな。今度夕食でも驕ろう」
「その辺の安価な店なら許容できんが?」
「心得ているさ」
珍しくトラヴァスがにっと笑い、アンナもまた口の端を上げた。
そしてアンナはルティーへと、ようやく声を掛ける。
「そういうことだ、ルティー。私の付き人になってもらえるか?」
そう告げた瞬間、目の前の少女の様子が一変したのがわかった。
ぱちんと見開かれた瞳は、驚きの色のままこちらを見つめている。
息を呑んだ気配すら伝わってきて、思わず胸がきゅっと鳴った。
こんなにも素直に気持ちを表に出してくれたことが、思いがけず嬉しかった。
「あの……本当に……!?」
ルティーの声は震えていた。大きく見開かれた瞳に、信じられないという思いと喜びが混ざっているのが見て取れる。
アンナは思わず微笑んだ。あまりにまっすぐな反応で、胸の奥がじんと温かくなる。
「実のところをいうと、付き人がいない環境は限界だったんだ。書類の整理を任せられる者がいると、助かる」
真摯に言えば、ルティーはぱっと顔を輝かせた。
「はい……はいっ! 私、一生懸命頑張ります!」
その姿があまりに真剣で、アンナは自然と手を差し出していた。
ルティーは震える小さな手で、そっとアンナの手を握る。
彼女の思いが、まっすぐに胸に届くような思いだった。
アンナは優しく、ルティーの手を握り返す。
この少女の決意と震えを、真摯に受け止めながら。




