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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
光の剣と神の盾〜ストレイア王国軍編〜

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184/391

183.あなただったのね……

 筆頭大将アリシアの葬儀の日は、雲ひとつない晴天だった。

 まるで、彼女自身がこの空を選んだかのように。


 まっさらな騎士服に身を包んで、アリシアは静かに棺の中で眠っている。なにひとつ、重たいものを背負わずに。


「母さんらしい、旅立ちの日ね」


 礼拝堂での厳かなミサを終え、光の降り注ぐ外に出て呟いたアンナは、どこか遠くを見つめていた。


 カールとトラヴァスは、ひそかに胸をなで下ろしていた。

 その言葉で、ようやくアンナが“オンモード”を解いたのだと、二人は理解して。


 アンナの目は泣き腫らしていて隠せていない。

 だから二人は、アンナは泣いたのだと思った。誰にも涙を見せずに、一人きりで。

 それでも、泣けずに耐え続けるよりはいいと思おうとした二人だったが、傍にいてやれなかった無力さが、静かに胸に残っていた。


 風が、緑の草をなびかせる中。小高い丘の上にある墓地へと、棺は運ばれていく。

 そして、本当に最後の別れがやってきた。


 多くの者たちが、目元をぬぐいながらアリシアに別れを告げた。

 王宮に入ることのできなかった一般市民も、数多く足を運び、順に感謝と敬意を捧げていく。


 その列の中には、アリシアの直属の部下たちの姿もあった。

 マックス、フラッシュ──そして、ジャン。

 彼の背を、そっとルーシエが押していた。


 昨夜は声を上げて崩れ落ちていたルーシエだったが、今はジャンを支える役目を懸命に果たしていた。

 その小さな手は震えていたが、歩みは確かだった。


 ジャンの顔には、生きる力を削がれたような苦悶の色が滲んでいた。まなざしは深い闇を映し、唇は強く噛み締められて。

 押し潰されそうな絶望が、全身に刻み込まれていた。


 ルーシエが最後の挨拶を終わらせると、ジャンはアンナに目を向けることもなく、ゆっくりと棺に近づいていく。


 美しく化粧されたアリシアの顔を見つめ、彼は──


「アリシア……」


 上司の名を呼び、震える手でそっと彼女の頬をなぞった。

 その手が止まる。次の瞬間、ジャンは、アリシアに顔を寄せ。


 そして──そっと、唇を重ねた。



 ジャンの緑の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。

 静かな、静かな、別れの口づけ。


 その瞬間、アンナはようやく気づいた。

 母の愛した人のことを。


 唇が離れ、その場に立ち尽くしているジャンに、アンナは声を掛ける。


「あなただったのね……」


 その声に、ジャンの肩がわずかに揺れた。


「アンナ……」

「母さんの恋人。気がつかなかったわ……」


 アンナは肩をすくめて、ほんの小さく微笑んだ。

 気づける機会は何度もあったはずなのに、今の今まで思い当たらなかった自分を、情けなく思いながら、

 そんなアンナを見たジャンは、ひどく狼狽えたように目を伏せ、その場を離れる。次の弔問客とすれ違いながら、逃げるように。


 アンナはその後ろ姿を見送っていた。

 胸が、締めつけられるように痛んだ。


 恋人を失うことの痛みを、アンナも理解していながら、なにも言えなかった。

 慰める言葉も見つからない。


 そんな思いを抱えながらも、人々は次々にアリシアへと別れの挨拶をしていく。

 葬儀は、その参列者の多さゆえに、長い時間を要した。


 じっとその様子を見守っていたアンナは、見知らぬ女性に声をかけられる。

 その人物は、自らをミダと名乗った。


「あたし、アリシア様にモデルになってもらって、絵を描いたことがあるんだ」


 ミダはそう言った。手には丸められたキャンバスがある。


「母さんを……?」

「ああ。あたしは、ジャンと同じ孤児院出身でね。たまたま二人が一緒にいた時、これだって思って……絵にしたんだ。でも、着色が遅くてさ。完成した時には……もう、渡せなかった」


 悔しげに俯いたミダはしかし、すぐに顔を上げた。


「けど、描き上げたからさ。娘のあんたに……いや、アンナ様に、もらってほしいんだ。とにかく、見てくれよ」

「……もちろん。見せてほしいわ」


 アンナ言葉に顔を明るくしたミダは、キャンバスを丁寧に広げた。


 風が、ふわりと吹き抜ける。アンナの黒髪が揺れる。


 そこに描かれていたのは、アリシアの横顔。

 視線の先には、ジャン。

 二人は見つめ合っていた。愛おしく、切なげに。


(こんなの、誰が見たってわかるわ……母さんとジャンは……)


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 今日は流れていない涙が、こぼれ落ちそうだった。


「ミダ……これ、本当にもらっていいの……?」

「ああ、むしろ受け取ってほしいんだ。アリシア様に見せられなかった分、誰かがこれを見て喜んでくれたら、あたしも嬉しいよ」

「……ありがとう」


 アンナは礼を言い、絵を胸に抱きしめるようにして受け取った。


 やがて、すべての弔問者がアリシアに最後の言葉を掛け終える。


 その身は静かに棺に納められ、柔らかな土の中へと沈められていく。

 乾いた土が、ぱらぱらと音を立てて落ちるたびに、胸の奥になにかが沈んでいくようだった。


 誰も声を上げず、誰も泣き叫ばない。

 ただ、重たい沈黙の中で、それぞれが心の中で別れを告げていた。


 葬儀が終わると、少しずつ、人々はその場を後にする。

 ひと組、またひと組と、静かに言葉を交わしながら去っていく。


 気がつけば、あれほど人が溢れていた場所に、残る足音もまばらになっていた。

 風の吹き抜ける音だけが、乾いた静けさを落としていく。


 カールとトラヴァスが静かにアンナの傍へ寄る。言葉はなかった。ただ、寄り添っていた。


 そこへ、もう一度ジャンが現れる。

 先ほどとは違う顔。少しだけ、決意の影が灯った表情。


「アンナ……」

「ジャン」


 母の恋人だった彼に、なんと声をかけるべきか。

 迷ったその時、ジャンの方から口を開いた。


「アンナに、アリシアの最期の言葉を伝えに来た」


 アンナはハッとして顔をあげる。そして唇をキュッと締め、覚悟を決めてコクリと頷いた。

 覚悟の顔を見て、ジャンは話し始める。アンナの母親の、最期の時を。


「アリシアの最期の言葉は、『アンナ』だった。アリシアはアンナの名を呼んで、なにかを伝えたそうにして……けど、なにも言うことなく……逝ったよ」


 死の間際の母親の言葉を聞いたアンナは、睫毛を伏せる。


(母さんが最後に気にしてくれたのは……私……)


 すでにいないことが悲しくて、でもその事実が嬉しくて。アンナは泣きそうになりながら、ほんの少し微笑んだ。


「母さんが……そう。ありがとう、ジャン。母さんを看取ってくれて」

「……アンナ……」


 声を詰まらせるジャン。

 そんな彼に、アンナは見せなくてはならないものがあった。


「ジャン、ミダという女性は知ってる?」

「ミダ? まぁ、知り合いだけど……」


 アンナは頷き、抱えていたキャンバスを取り出す。

 まだジャンには見せず、しばし自分の胸にだけ、母の姿を焼きつけた。


「母さん……ジャンの前では、こんな顔をしてたのね……」


 微笑みとともに、絵をジャンへ差し出す。

 その瞬間、ジャンの表情が変わった。

 まるで春の陽が、閉ざされた心を照らすように。


 アリシアと過ごした時を。

 二人だけの思い出を。

 それは鮮やかに、克明に、彼の脳裏へと映し出した証だった。


「……アリシア」


 ジャンの目が滲む。

 それだけで、どれほどアリシアを愛していたのかがわかる。


「ミダは私にくれたけれど……あなたが持っていた方がいいかと思って」

「ああ……欲しい……」


 ジャンの素直さに、アンナは少し目を細めて頷いた。

 母が描かれた、写真のような絵画が要らなかったわけではない。

 けれどこの時のアリシアの思い出は、ジャンと共にあるべきだと、心からそう思った。


 絵を受け取ったジャンは、ジャケットを探る。その中から取り出したのは……一冊の、古い本。


「アンナ……これを」


 差し出されたのは、〝書〟だ。

 アリシアがずっとその身に習得していた、〝救済の書〟。


「これは……母さんの……」


 アンナは、それをそっと受け取り、赤子を抱くように胸に当てた。


「アリシアと、その書に俺は助けられた。……ごめん、俺のせいなんだ。アリシアが亡くなったのは……」


 ジャンは自分を責めるように言った。


 アリシアの救済の書。まさしく、アリシアの形見を前に、アンナはそっと笑みを見せる。


「あなたを救えたのなら、母さんは本望だったはずよ。謝る必要なんてないわ」

「アンナ……」

「ありがとう、母さんを愛してくれて」


 アンナの言葉になにも言えなくなったジャンは背を向け、一歩、また一歩と歩き出す。


 その向かう先には、フラッシュがいた。

 マックスがいた。

 ルーシエがいた。


 三人は、黙って彼を迎え入れる。

 壊れ物をそっと抱きしめるように、皆がジャンを抱き抱えた。


 その瞬間、ジャンの肩が震える。

 押し殺すような嗚咽が漏れ、彼は泣いていた。

 噎ぶような声で。

 まるで、この世が終わってしまったかのように。


 アンナはただ、じっとその姿を見ていた。

 静かに。ひとことも発さずに。

 胸に救済の書を抱いたまま、静かに見つめていた。


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ああ、このシーンは、言葉になりません(T_T) みんな切なくて、悲しくて。でもどこかで前を向くように、アリシアに背中を押されているようにも感じます。 ジャンには、どこかで幸せになってほしいですね。
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