183.あなただったのね……
筆頭大将アリシアの葬儀の日は、雲ひとつない晴天だった。
まるで、彼女自身がこの空を選んだかのように。
まっさらな騎士服に身を包んで、アリシアは静かに棺の中で眠っている。なにひとつ、重たいものを背負わずに。
「母さんらしい、旅立ちの日ね」
礼拝堂での厳かなミサを終え、光の降り注ぐ外に出て呟いたアンナは、どこか遠くを見つめていた。
カールとトラヴァスは、ひそかに胸をなで下ろしていた。
その言葉で、ようやくアンナが“オンモード”を解いたのだと、二人は理解して。
アンナの目は泣き腫らしていて隠せていない。
だから二人は、アンナは泣いたのだと思った。誰にも涙を見せずに、一人きりで。
それでも、泣けずに耐え続けるよりはいいと思おうとした二人だったが、傍にいてやれなかった無力さが、静かに胸に残っていた。
風が、緑の草をなびかせる中。小高い丘の上にある墓地へと、棺は運ばれていく。
そして、本当に最後の別れがやってきた。
多くの者たちが、目元をぬぐいながらアリシアに別れを告げた。
王宮に入ることのできなかった一般市民も、数多く足を運び、順に感謝と敬意を捧げていく。
その列の中には、アリシアの直属の部下たちの姿もあった。
マックス、フラッシュ──そして、ジャン。
彼の背を、そっとルーシエが押していた。
昨夜は声を上げて崩れ落ちていたルーシエだったが、今はジャンを支える役目を懸命に果たしていた。
その小さな手は震えていたが、歩みは確かだった。
ジャンの顔には、生きる力を削がれたような苦悶の色が滲んでいた。まなざしは深い闇を映し、唇は強く噛み締められて。
押し潰されそうな絶望が、全身に刻み込まれていた。
ルーシエが最後の挨拶を終わらせると、ジャンはアンナに目を向けることもなく、ゆっくりと棺に近づいていく。
美しく化粧されたアリシアの顔を見つめ、彼は──
「アリシア……」
上司の名を呼び、震える手でそっと彼女の頬をなぞった。
その手が止まる。次の瞬間、ジャンは、アリシアに顔を寄せ。
そして──そっと、唇を重ねた。
ジャンの緑の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
静かな、静かな、別れの口づけ。
その瞬間、アンナはようやく気づいた。
母の愛した人のことを。
唇が離れ、その場に立ち尽くしているジャンに、アンナは声を掛ける。
「あなただったのね……」
その声に、ジャンの肩がわずかに揺れた。
「アンナ……」
「母さんの恋人。気がつかなかったわ……」
アンナは肩をすくめて、ほんの小さく微笑んだ。
気づける機会は何度もあったはずなのに、今の今まで思い当たらなかった自分を、情けなく思いながら、
そんなアンナを見たジャンは、ひどく狼狽えたように目を伏せ、その場を離れる。次の弔問客とすれ違いながら、逃げるように。
アンナはその後ろ姿を見送っていた。
胸が、締めつけられるように痛んだ。
恋人を失うことの痛みを、アンナも理解していながら、なにも言えなかった。
慰める言葉も見つからない。
そんな思いを抱えながらも、人々は次々にアリシアへと別れの挨拶をしていく。
葬儀は、その参列者の多さゆえに、長い時間を要した。
じっとその様子を見守っていたアンナは、見知らぬ女性に声をかけられる。
その人物は、自らをミダと名乗った。
「あたし、アリシア様にモデルになってもらって、絵を描いたことがあるんだ」
ミダはそう言った。手には丸められたキャンバスがある。
「母さんを……?」
「ああ。あたしは、ジャンと同じ孤児院出身でね。たまたま二人が一緒にいた時、これだって思って……絵にしたんだ。でも、着色が遅くてさ。完成した時には……もう、渡せなかった」
悔しげに俯いたミダはしかし、すぐに顔を上げた。
「けど、描き上げたからさ。娘のあんたに……いや、アンナ様に、もらってほしいんだ。とにかく、見てくれよ」
「……もちろん。見せてほしいわ」
アンナ言葉に顔を明るくしたミダは、キャンバスを丁寧に広げた。
風が、ふわりと吹き抜ける。アンナの黒髪が揺れる。
そこに描かれていたのは、アリシアの横顔。
視線の先には、ジャン。
二人は見つめ合っていた。愛おしく、切なげに。
(こんなの、誰が見たってわかるわ……母さんとジャンは……)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
今日は流れていない涙が、こぼれ落ちそうだった。
「ミダ……これ、本当にもらっていいの……?」
「ああ、むしろ受け取ってほしいんだ。アリシア様に見せられなかった分、誰かがこれを見て喜んでくれたら、あたしも嬉しいよ」
「……ありがとう」
アンナは礼を言い、絵を胸に抱きしめるようにして受け取った。
やがて、すべての弔問者がアリシアに最後の言葉を掛け終える。
その身は静かに棺に納められ、柔らかな土の中へと沈められていく。
乾いた土が、ぱらぱらと音を立てて落ちるたびに、胸の奥になにかが沈んでいくようだった。
誰も声を上げず、誰も泣き叫ばない。
ただ、重たい沈黙の中で、それぞれが心の中で別れを告げていた。
葬儀が終わると、少しずつ、人々はその場を後にする。
ひと組、またひと組と、静かに言葉を交わしながら去っていく。
気がつけば、あれほど人が溢れていた場所に、残る足音もまばらになっていた。
風の吹き抜ける音だけが、乾いた静けさを落としていく。
カールとトラヴァスが静かにアンナの傍へ寄る。言葉はなかった。ただ、寄り添っていた。
そこへ、もう一度ジャンが現れる。
先ほどとは違う顔。少しだけ、決意の影が灯った表情。
「アンナ……」
「ジャン」
母の恋人だった彼に、なんと声をかけるべきか。
迷ったその時、ジャンの方から口を開いた。
「アンナに、アリシアの最期の言葉を伝えに来た」
アンナはハッとして顔をあげる。そして唇をキュッと締め、覚悟を決めてコクリと頷いた。
覚悟の顔を見て、ジャンは話し始める。アンナの母親の、最期の時を。
「アリシアの最期の言葉は、『アンナ』だった。アリシアはアンナの名を呼んで、なにかを伝えたそうにして……けど、なにも言うことなく……逝ったよ」
死の間際の母親の言葉を聞いたアンナは、睫毛を伏せる。
(母さんが最後に気にしてくれたのは……私……)
すでにいないことが悲しくて、でもその事実が嬉しくて。アンナは泣きそうになりながら、ほんの少し微笑んだ。
「母さんが……そう。ありがとう、ジャン。母さんを看取ってくれて」
「……アンナ……」
声を詰まらせるジャン。
そんな彼に、アンナは見せなくてはならないものがあった。
「ジャン、ミダという女性は知ってる?」
「ミダ? まぁ、知り合いだけど……」
アンナは頷き、抱えていたキャンバスを取り出す。
まだジャンには見せず、しばし自分の胸にだけ、母の姿を焼きつけた。
「母さん……ジャンの前では、こんな顔をしてたのね……」
微笑みとともに、絵をジャンへ差し出す。
その瞬間、ジャンの表情が変わった。
まるで春の陽が、閉ざされた心を照らすように。
アリシアと過ごした時を。
二人だけの思い出を。
それは鮮やかに、克明に、彼の脳裏へと映し出した証だった。
「……アリシア」
ジャンの目が滲む。
それだけで、どれほどアリシアを愛していたのかがわかる。
「ミダは私にくれたけれど……あなたが持っていた方がいいかと思って」
「ああ……欲しい……」
ジャンの素直さに、アンナは少し目を細めて頷いた。
母が描かれた、写真のような絵画が要らなかったわけではない。
けれどこの時のアリシアの思い出は、ジャンと共にあるべきだと、心からそう思った。
絵を受け取ったジャンは、ジャケットを探る。その中から取り出したのは……一冊の、古い本。
「アンナ……これを」
差し出されたのは、〝書〟だ。
アリシアがずっとその身に習得していた、〝救済の書〟。
「これは……母さんの……」
アンナは、それをそっと受け取り、赤子を抱くように胸に当てた。
「アリシアと、その書に俺は助けられた。……ごめん、俺のせいなんだ。アリシアが亡くなったのは……」
ジャンは自分を責めるように言った。
アリシアの救済の書。まさしく、アリシアの形見を前に、アンナはそっと笑みを見せる。
「あなたを救えたのなら、母さんは本望だったはずよ。謝る必要なんてないわ」
「アンナ……」
「ありがとう、母さんを愛してくれて」
アンナの言葉になにも言えなくなったジャンは背を向け、一歩、また一歩と歩き出す。
その向かう先には、フラッシュがいた。
マックスがいた。
ルーシエがいた。
三人は、黙って彼を迎え入れる。
壊れ物をそっと抱きしめるように、皆がジャンを抱き抱えた。
その瞬間、ジャンの肩が震える。
押し殺すような嗚咽が漏れ、彼は泣いていた。
噎ぶような声で。
まるで、この世が終わってしまったかのように。
アンナはただ、じっとその姿を見ていた。
静かに。ひとことも発さずに。
胸に救済の書を抱いたまま、静かに見つめていた。




