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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
光の剣と神の盾〜ストレイア王国軍編〜

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182/391

181.ずっと、オンモードかよ……

 アンナは執務室で、急ぎでもない書類に手をつけていた。

 意味があるわけではない。ただ、何かしていなければ心が持たなかった。


 カールは少し離れた壁際に立ち、黙ってその姿を見守っていた。

 ペン先が紙を滑る音だけが、部屋に満ちる静寂をわずかに裂く。


 やがて、執務室の扉がノックされ、静かに開いた。

 入ってきたのは、ルティーを送ってきたばかりのトラヴァスだ。


「トラヴァス。どうだった、ルティーの様子は」


 アンナの声は平坦だった。感情を抑え、呼吸のように自然に、〝将〟としての声が口をついて出た。


「……変わらずだ。すぐに元通りというわけにもいくまい」

「そうだな……」


 短い言葉が交わされ、ふたたび沈黙が落ちる。


 それでもアンナの手は止まらず、次の書類へと伸びていた。

 すでに読んだ書類をもう一度手に取っていることに、自分でも気づいていない。


「アンナ」


 トラヴァスが声をかける。


「礼拝堂の方は人が減っていた。もう一度……行ってあげてはどうだ。今日しか、ないのだぞ」


 葬儀は明日に控えている。共に過ごせるのは──今宵限りだ。


 アンナの手が、ふと止まる。

 わずかに眉を寄せ、奥歯を噛みしめる仕草のあと、呼吸を詰めてから静かに首肯した。


「……顔を……見てくる」


 言葉は絞り出すように小さく、しかしはっきりと。


 立ち上がったアンナは、ゆっくりと礼拝堂へ向かった。

 重たい沈黙をまとった背を、二人の男は心配するようについていく。


 夜の礼拝堂は人影もなく、静まり返っていた。

 奥の安置室には、アリシアがただひとり、白布のもとに眠っている。


 アンナはその前に膝をつき、白布をそっとめくった。


 穏やかな顔。


 まるで深い眠りについているような、そんな表情。

 静けさが、胸を締めつけた。


 アンナはその母の顔を、黙って見つめる。

 カールとトラヴァスが少し離れてアンナを見守っていた。


「二人はもう帰って構わない。遅くまで、ご苦労だったな」


 アンナの声には、感情の翳りひとつない。

 将としての仮面を被ったまま、決して崩れようとしなかった。


「……一緒にいるぜ、アンナ」


 カールが小さく言う。だが即座に、冷静な声が返る。


「気にしてくれるのはありがたいが、お前たちまで私に付き合う必要はない。一人で大丈夫だ。帰ってくれ」

「けどよっ──」

「カール」


 食い下がる言葉を、トラヴァスが短く制した。

 カールはグッと喉に言葉を押し込める。拳を握ったまま、唇を噛んだ。


「……わかった。アンナ、なんかあったら呼べよ。俺は今日、トラヴァスの部屋に泊まっからよ」

「勝手に決めるな、お前は……まぁいいが」


 トラヴァスが少し呆れながらも承諾する。

 将であるトラヴァスは、王宮に一室を借りているため、なにかあればすぐに駆けつけられる。


「私は大丈夫だ」


 アンナの態度は、まるで鎧をまとっているようだった。

 どれだけ言葉を重ねても、これ以上は届かない。二人はそれを悟る。


 悔しさを胸に滲ませながら、カールとトラヴァスは安置室を後にした。

 振り返ることさえ躊躇われて、扉を閉める。


 せめて傍にいたい気持ちはあった。だが、そんな雰囲気ではない。


「ずっと、オンモードかよ……」


 廊下に出ると、カールが唇をかみしめたまま吐き捨てるように呟く。

 礼拝堂の出口に向かう途中、トラヴァスがちらりと振り返った。


「泣き声も聞こえんな……グレイの時は、俺たちが部屋を出た途端に慟哭が響いたものだが……」


 あの時のことは、忘れられない。

 けれど今回は、すすり泣く音すら、聞こえてこない。


「悲しくないわけ、ねぇのにな……」


 カールが絞り出すように言い、トラヴァスも頷いた。


「グレイの時のように泣かれるのも、つらいが……ずっと耐えたままでいる姿も、それ以上につらい」

「……俺らに、できることは、ねぇのかよ……」

「頼ってくれればいいのだがな……」


 誰よりも彼女を想いながら、それでも届かない。


 こんな時にグレイがいてくれたら、と思わずにいられなかった。

 悔しいが、どれだけアンナを想っても、グレイのようにはなれない──そんな無力感が、胸の奥にじわじわと広がっていく。


 カールは拳を握りしめたまま、深く息を吐いた。

 そのまま、トラヴァスと共に礼拝堂の廊下をゆっくりと歩き出す。


 夜の王宮へと続く回廊は静寂に包まれ、二人の足音だけが、冷たい石床に微かに響いていた。


「……俺らは、まだまだかよ……」


 ぽつりと落ちたカールの言葉に、トラヴァスが小さく呟く。


「将としてのアンナを支えることはできても……ただの『アンナ』を救うには、俺たちは力不足だ」

「……詩人かよ」


 カールは苦笑するが、その笑みは乾いていた。

 トラヴァスは黙って前を見据える。


「信じるしかない。アンナが、一人でこの夜を乗り越えられると」

「……信じる、か」


 そう言いながらも、カールは何度も背後を振り返りそうになる。

 今すぐ引き返して、扉を開けて、そばにいたい──その衝動を、どうにか堪えた。


 扉の向こうでアンナは〝将〟であろうとしている。

 その覚悟の重さが、二人には痛いほど伝わっていたから。


 二人の背は、届かぬ祈りと、どうしようもない無力感が滲んでいた。





 そして──アンナは、アリシアのそばに座っていた。


 時間の流れは曖昧だった。壁の燭台の炎が揺れていても、その音すら耳に届かない。

 重たい沈黙が空間を支配し、世界が止まっているかのように。


 棺の中の顔は、あまりにも穏やかだった。

 まるで夢を見ているだけのようだと、じっと見つめる。


 けれど、それがもう二度と覚めない夢なのだと思い知るたび、胸の奥が引き裂かれた。


「……母さん」


 ようやく、小さく母を呼んだ。

 当然、返ってくる声はない。


 喉が詰まる。

 伝えたい言葉は山ほどあるのに、ひとつも口から出てこなかった。


 声にしてしまえば、すべてが壊れてしまいそうで。

 涙がこぼれれば、自分自身が保てなくなる気がして。


 誰も見ていないというのに、アンナの瞳は濡れなかった。


 それでも、そっと伸ばした指が、アリシアの頬に触れたとき。


 冷たさが、決定的な事実として肌から伝わってくる。

 胸の奥に張りつめていたものが、ひとつ、音を立てて軋んだ。


 息を止めたその時。


 扉が、ゆっくりと開いた。


 微かな気配に、アンナがはっと顔を上げる。


 入ってきたのは──この国の王、シウリスだった。


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