181.ずっと、オンモードかよ……
アンナは執務室で、急ぎでもない書類に手をつけていた。
意味があるわけではない。ただ、何かしていなければ心が持たなかった。
カールは少し離れた壁際に立ち、黙ってその姿を見守っていた。
ペン先が紙を滑る音だけが、部屋に満ちる静寂をわずかに裂く。
やがて、執務室の扉がノックされ、静かに開いた。
入ってきたのは、ルティーを送ってきたばかりのトラヴァスだ。
「トラヴァス。どうだった、ルティーの様子は」
アンナの声は平坦だった。感情を抑え、呼吸のように自然に、〝将〟としての声が口をついて出た。
「……変わらずだ。すぐに元通りというわけにもいくまい」
「そうだな……」
短い言葉が交わされ、ふたたび沈黙が落ちる。
それでもアンナの手は止まらず、次の書類へと伸びていた。
すでに読んだ書類をもう一度手に取っていることに、自分でも気づいていない。
「アンナ」
トラヴァスが声をかける。
「礼拝堂の方は人が減っていた。もう一度……行ってあげてはどうだ。今日しか、ないのだぞ」
葬儀は明日に控えている。共に過ごせるのは──今宵限りだ。
アンナの手が、ふと止まる。
わずかに眉を寄せ、奥歯を噛みしめる仕草のあと、呼吸を詰めてから静かに首肯した。
「……顔を……見てくる」
言葉は絞り出すように小さく、しかしはっきりと。
立ち上がったアンナは、ゆっくりと礼拝堂へ向かった。
重たい沈黙をまとった背を、二人の男は心配するようについていく。
夜の礼拝堂は人影もなく、静まり返っていた。
奥の安置室には、アリシアがただひとり、白布のもとに眠っている。
アンナはその前に膝をつき、白布をそっとめくった。
穏やかな顔。
まるで深い眠りについているような、そんな表情。
静けさが、胸を締めつけた。
アンナはその母の顔を、黙って見つめる。
カールとトラヴァスが少し離れてアンナを見守っていた。
「二人はもう帰って構わない。遅くまで、ご苦労だったな」
アンナの声には、感情の翳りひとつない。
将としての仮面を被ったまま、決して崩れようとしなかった。
「……一緒にいるぜ、アンナ」
カールが小さく言う。だが即座に、冷静な声が返る。
「気にしてくれるのはありがたいが、お前たちまで私に付き合う必要はない。一人で大丈夫だ。帰ってくれ」
「けどよっ──」
「カール」
食い下がる言葉を、トラヴァスが短く制した。
カールはグッと喉に言葉を押し込める。拳を握ったまま、唇を噛んだ。
「……わかった。アンナ、なんかあったら呼べよ。俺は今日、トラヴァスの部屋に泊まっからよ」
「勝手に決めるな、お前は……まぁいいが」
トラヴァスが少し呆れながらも承諾する。
将であるトラヴァスは、王宮に一室を借りているため、なにかあればすぐに駆けつけられる。
「私は大丈夫だ」
アンナの態度は、まるで鎧をまとっているようだった。
どれだけ言葉を重ねても、これ以上は届かない。二人はそれを悟る。
悔しさを胸に滲ませながら、カールとトラヴァスは安置室を後にした。
振り返ることさえ躊躇われて、扉を閉める。
せめて傍にいたい気持ちはあった。だが、そんな雰囲気ではない。
「ずっと、オンモードかよ……」
廊下に出ると、カールが唇をかみしめたまま吐き捨てるように呟く。
礼拝堂の出口に向かう途中、トラヴァスがちらりと振り返った。
「泣き声も聞こえんな……グレイの時は、俺たちが部屋を出た途端に慟哭が響いたものだが……」
あの時のことは、忘れられない。
けれど今回は、すすり泣く音すら、聞こえてこない。
「悲しくないわけ、ねぇのにな……」
カールが絞り出すように言い、トラヴァスも頷いた。
「グレイの時のように泣かれるのも、つらいが……ずっと耐えたままでいる姿も、それ以上につらい」
「……俺らに、できることは、ねぇのかよ……」
「頼ってくれればいいのだがな……」
誰よりも彼女を想いながら、それでも届かない。
こんな時にグレイがいてくれたら、と思わずにいられなかった。
悔しいが、どれだけアンナを想っても、グレイのようにはなれない──そんな無力感が、胸の奥にじわじわと広がっていく。
カールは拳を握りしめたまま、深く息を吐いた。
そのまま、トラヴァスと共に礼拝堂の廊下をゆっくりと歩き出す。
夜の王宮へと続く回廊は静寂に包まれ、二人の足音だけが、冷たい石床に微かに響いていた。
「……俺らは、まだまだかよ……」
ぽつりと落ちたカールの言葉に、トラヴァスが小さく呟く。
「将としてのアンナを支えることはできても……ただの『アンナ』を救うには、俺たちは力不足だ」
「……詩人かよ」
カールは苦笑するが、その笑みは乾いていた。
トラヴァスは黙って前を見据える。
「信じるしかない。アンナが、一人でこの夜を乗り越えられると」
「……信じる、か」
そう言いながらも、カールは何度も背後を振り返りそうになる。
今すぐ引き返して、扉を開けて、そばにいたい──その衝動を、どうにか堪えた。
扉の向こうでアンナは〝将〟であろうとしている。
その覚悟の重さが、二人には痛いほど伝わっていたから。
二人の背は、届かぬ祈りと、どうしようもない無力感が滲んでいた。
そして──アンナは、アリシアのそばに座っていた。
時間の流れは曖昧だった。壁の燭台の炎が揺れていても、その音すら耳に届かない。
重たい沈黙が空間を支配し、世界が止まっているかのように。
棺の中の顔は、あまりにも穏やかだった。
まるで夢を見ているだけのようだと、じっと見つめる。
けれど、それがもう二度と覚めない夢なのだと思い知るたび、胸の奥が引き裂かれた。
「……母さん」
ようやく、小さく母を呼んだ。
当然、返ってくる声はない。
喉が詰まる。
伝えたい言葉は山ほどあるのに、ひとつも口から出てこなかった。
声にしてしまえば、すべてが壊れてしまいそうで。
涙がこぼれれば、自分自身が保てなくなる気がして。
誰も見ていないというのに、アンナの瞳は濡れなかった。
それでも、そっと伸ばした指が、アリシアの頬に触れたとき。
冷たさが、決定的な事実として肌から伝わってくる。
胸の奥に張りつめていたものが、ひとつ、音を立てて軋んだ。
息を止めたその時。
扉が、ゆっくりと開いた。
微かな気配に、アンナがはっと顔を上げる。
入ってきたのは──この国の王、シウリスだった。




