180.庇って逝ったのね……
アンナは自室には戻らず、夜の帳が下りた廊下を静かに抜けて、執務室へと入った。
それに続くようにして、カールも足音を忍ばせるように入ってくる。
後ろを振り向き、赤髪の青年を確認したアンナは、少し呆れたように言葉を吐いた。
「カールはいつでも本当に自由だな」
「……ちょっとの間くらい、お前の隣にいさせてくれよ」
「好きにすればいい」
アンナは咎めることなく彼を受け入れ、自分は無言で机上の書類に手を伸ばした。
ランプの灯がわずかに揺れて、影を長く引き伸ばす。
アリシア亡き今、筆頭大将の椅子は空席だ。
まだ誰が次の筆頭大将となるかは決まっていないが、だからこそ、今は軍の中心となる存在が必要となる。
その重さが、静かにアンナの肩へと落ちていた。
中間報告に目を通していると、静かなノックが部屋の空気を打った。
第六軍団の将、スウェルが姿を見せる。
かつてアンナが入軍した当初に配属されたのが、彼のもとであった。今は同じ将として肩を並べているが、冷めた表情は以前と変わっていない。
「大丈夫か、アンナ」
「問題ない。それよりスウェルも大変だったな」
「僕が到着した頃には、大方収束していたんだ。第一軍団から聞き取りをした報告書をまとめている。読んでおいてくれ」
差し出された封筒は、見慣れた軍報の体裁。アンナはそれを静かに受け取った。
「助かる」
オンモードで武装された手は、わずかに硬く、しかし震えてはいなかった。
スウェルは部屋の隅にいるカールへと一瞥を投げ、それからもう一度アンナへと目を戻す。
「こんな時に言うのもなんだが、筆頭大将の座を空席のままにしておくと士気に関わる。フィデル国に弱みを見せるわけにもいかない。……僕は、君を推す。他の将からも推す声はあるはずだ。覚悟だけはしておくといい」
「……ああ、わかっている」
それだけを言い残し、スウェルは静かに去っていった。
扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻る。アンナは封を開け、報告書に目を落とした。
一枚目には簡潔な件名が記されていた。
《ヤウト鉱山区における反乱鎮圧作戦の経過および損耗報告》
報告者、スウェル。
彼らしい、簡潔で冷静な文体。戦場を記録するための、無機質な言葉が並んでいた。
紙をめくる。
カールは少し前に立ち、何も言わずにアンナを見守っていた。
邪魔をしないように、けれど確かにそこにいる。
なにも言わない彼の視線が、かえって空気に緊張感を与えた。
一つ目の項目は、《戦術の概要》。
その見出しを見た瞬間から、アンナの眼差しは硬く鋭くなる。
『敵はヤウト鉱山の複雑な坑道構造を利用し、ゲリラ戦法を展開。地上部の戦線が有利に進んでいた中、坑道内部からの奇襲により、後方が一時混乱。
だが筆頭大将アリシアの到着により、態勢が立て直され、戦況は持ち直す』
さらに読み進めると、母の名が明記された項目が目に飛び込んでくる。
『筆頭大将は、敵の坑道からの襲撃により背後から奇襲を受け負傷。周囲の者により救護テントへと搬送される。一時戦線から離れるが、治療を待たず、自らの意思で戦場に復帰。
その後、敵将の刃に晒された第一軍団隊長ジャンを庇い受傷。致命傷を負い、その場で戦死が確認された』
一瞬、手が止まる。
無機質な〝戦死〟という二文字が、これほどまでに重く、容赦なく心を抉るものだとは思わなかった。
「……っ」
無意識のうちに紙の端を強く握っていた。
指先が白くなるほどに。
カールがなにか言いかけた気配がするも、そのまま静かに読み進める。
『アリシアの死後、隊長フラッシュ、同じく隊長マックスの両名により、敵将を追撃。連携のもとで敵将を討ち取つ。敵軍は指揮系統を失い混乱。
制圧・掃討戦の進行とともに、洗脳を受けた労働者たちの存在が明るみに出る。主犯格とされる敵指揮官はいまだ行方不明』
(敵指揮官……まさか、ミカヴェルか?)
脳裏に、その名が一瞬よぎった。
けれど確証はない。なにもわからない。
アンナは小さく息を吐き、報告書のページを静かにめくる。
そこには反乱鎮圧後の対応が書かれていた。
『戦死者はアリシアを含め二十四名。精査は継続中。
救護部隊、補給線の見直しが急務。
鉱山内部構造の把握不足が被害拡大の要因。
洗脳に使われた手法は未だ不明、生存者からの聞き取りを継続中』
ざわりと、冷たいものが背中を撫でた。
心理戦を得意とする、グランディオルの一族。
いまだ姿を見せないミカヴェル──
アンナの胸の奥がざわつき、わずかな焦燥が喉元までせり上がる。
もう終わりかと思った報告書の最後の一枚に気づき、アンナは静かにページを捲った。
『アリシア筆頭大将の行動は、軍規に照らしても最大限の忠誠と献身を示すものであった。
彼女の死は現場の士気に大きな影響を与え、同時に戦況の勝利をもたらした決意と結束の象徴として評価される』
その文を読んだ瞬間、アンナは悟る。
この言葉には、スウェル自身の思いが込められている、と。
軍の報告でありながら、そこには娘を案じる、かつての上司のささやかな祈りが滲んでいた。
目を閉じれば、あの勇敢な背中がまぶたに浮かぶ。
(母さんは……ジャンを庇って逝ったのね……)
報告書を静かに閉じる。
その音は、まるで夜の空気を切り裂くように響いた。
そして──アンナの瞳に、一瞬だけ涙の光がにじむ。
しかし、それが零れることはなかった。
アンナは仮面を貼り付けるように、再び机上の書類へと手を伸ばす。
するとカールが歩み寄り、そっと口を開いた。
「……読ませてもらっても、いいか?」
その声にこめられたのは、いつになく慎重な気遣い。
アンナは無言で頷き、報告書を差し出した。
カールはそれを受け取り、ランプの光にかざして目を走らせる。
ページをめくる指先はゆっくりと、その行間までも読み取ろうとするように。
そうして最後の一枚を読み終えたカールは、静かに報告書を閉じた。
しばしの沈黙が流れる。アンナはなにも言わず、ただ机上の書類に目を落としたまま。
「……アリシア筆頭は、すげぇ人だよな」
カールの声は小さく、どこか遠くを見るような響きを持っていた。
「……自慢だよな。こんな母親がいてよ」
淡く笑うその声音に、アンナの心がわずかに揺れる。
けれど、目元に浮かんだ涙の光は、またすぐに消えた。
(泣かねぇのか)
カールはふと、胸の奥にわずかなひっかかりを覚える。
泣いていい場面のはずなのに、アンナは一滴も零さない。
強いからなのか、強がってるのか。それとも、まだ実感が追いついていないだけなのか。
どれにしても、彼女の心に張られた糸のことが、気にかかった。
「……俺に、なんかしてほしいこと、あっか?」
声は静かで、押しつけがましさは欠片もない。
そこにあるのは、ただ傍にいるという意思だけだ。
アンナはゆっくりと顔を上げ、カールを見た。
そして、ほんの一瞬だけ──目を細める。
「……いいや。平気だ」
それだけ答えて、また机上の書類に視線を落とす。
「そっか」
カールはそれ以上何も言わず、しかし立ち去りもしなかった。
静かな夜。
執務室には、ランプの灯だけが、揺れもせず燃え続けていた。




