178.どこかで夢じゃないかって思ってる
アリシアの帰還は、夜になってからだった。
王宮前に馬車が止まると、アンナを先頭に、騎士たちが静かに列をなす。
けれどその誰一人として、足音すら立てようとしなかった。
それは、ただの帰還ではなかったからだ。
……帰るはずのなかった者の、最後の帰還だった。
報せは、確かに届いていた。
アリシア筆頭大将、戦死──と。
戦死の報を受けてはいても、アンナは信じきれないでいた。
あの筆頭大将が死ぬわけがないと。
たった二日前に、簡単には死なないと、そう言っていたのだ。
だから、どこかで──
『いやぁね、勝手に殺さないでちょうだい』
と、いつもの調子で顔を出すのではないかと、そんな馬鹿げた希望を胸の隅で握りしめていた。
けれど、棺は確かにそこにあった。
アリシア直属の部下たち……ジャン、マックス、フラッシュ、ルティー。
彼らが手を添えて、静かに台の上へと移す。
手つきに迷いはなかったが、顔は誰も彼も、魂が抜けたようだった。
その顔を見ただけで、アンナの中にあった〝なにかの間違いかもしれない〟という期待は、音を立てて崩れてゆく。
一歩も動けなかった。
棺に近づきたいのに、足が動かない。
恐ろしくて仕方がなかった。
この一歩で、すべてが本当になってしまう気がして。
ただ、その場に立ち尽くす。
その時だった。
銀の髪が、駆け寄るように棺の前で揺れた。
ルーシエ──アリシアの副官にして、唯一留守を任されていた男だ。
彼もまた、信じられないのだろう。
ジャンもマックスも、フラッシュも……彼の姿を見た瞬間、視線を伏せた。
「見せて……ください……っ」
かすれるような声。
フラッシュが無言で棺の蓋に手をかける。
静かに開かれた中を、ルーシエが覗き込み──
「……っ、アリシア……様……」
膝から、崩れ落ちた。
礼儀も、場も、周囲の目も、すべて忘れたように。
膝をつき、顔を伏せ、嗚咽をこらえるように揺れていた。
いつも穏やかだった彼が、そんな風に取り乱す姿を、アンナは初めて見た。
「アリシア様……アリシア、さま………、っ──」
声にならない叫び。
そのすぐ隣で、ルティーがぽろぽろと涙をこぼしながら、小さく繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
アンナは、唇を強く噛んだ。
泣くわけにはいかなかった。
泣いてしまえば、ここに立っていられなくなる。
だから、心に鎧を着るように命じた。
「カール……棺を閉めて、移動を。シウリス様が、礼拝堂の安置室使用の許可をくださっている」
「……わかった」
棺の蓋が閉じられる。
その一瞬、中を覗いたカールの奥歯を噛み締める姿が、アンナの目に焼きついた。
ルーシエはマックスとフラッシュに抱き起こされ、ジャンは姿を消し、ルティーは泣いたまま動けなかった。
それでも棺は、動き始める。
誰も、なにも言わなかった。
沈黙だけがそこにあって。
その中で、騎士たちはそれぞれの思いを胸に、見送っていた。
礼拝堂の中は、まるで時間が止まったかのようだった。
天井の高い石造りの空間に、灯火のゆらぎだけが揺れている。
壁の模様も、床の影も、すべてが静かすぎて。
その場に立つ者の心音だけが、やけに響いた。
アンナは立ったまま動かない。
その隣に、カールとトラヴァス。
二人とも言葉を発さず、ただアンナの横にいるだけだ。
カールがちらりとアンナを見やった。
「ちょっと……座らねぇか」
だが、アンナは小さく首を振る。
立っていたかった。
崩れ落ちてしまいそうで、怖かったから。
(……まだ、信じられないの。どこかで夢じゃないかって思ってる)
以前、グレイが亡くなったとき。
そのときは地下の安置室だった。
冷たい石壁の部屋に、蝋燭だけが照らしていて──
その時は、心がひりつくように痛んでいた。
けれど、今は違う。
この地上の礼拝堂は、温かいのだ。
静かで、光が灯され、風の音すら柔らかい。
だからこそ、今ここにアリシアが眠っているという実感が、どこか遠く感じる。
しばらくすると奥の扉が開き、女性の医療班が現れた。
いつもの群青色とは違う、黒と白を基調にした服に身を包み、深く頭を下げる。
「……処置が終わりました。ご対面のご準備が整っております。どうぞ、中へ──」
その一言に、アンナは目を閉じて、息を吸った。
覚悟を、胸の奥でひとつにするように。
そして、頷いた。
カールとトラヴァスがそばに並ぶ。
三人で、安置室の扉をくぐる。
──そこに、アリシアはいた。
真新しい騎士服をまとい、髪も整えられ、顔は穏やかで。
まるでただ、眠っているだけのようだった。
その手も、口元も──まぎれもなく、アリシアだった。
静かで、自信に満ちて、どこか優しさのある表情。
そのまま目を開けて、『なんて顔してるの』と大きな口を開けて笑いそうで。
しかし、言わなかった。
アンナは、そっと歩み寄る。
視線をアリシアの顔へと向ける。
唇が、震えた。
だけど、涙は出なかった。
(私は将だ。今ここで泣くわけにはいかない)
静かに拳を握る。
爪が手のひらに食い込んでも、構わなかった。
その姿を、カールもトラヴァスも黙って見守っていた。
何も言わず、何も求めず……ただ、そばに。
──数秒か、それとももっと長かったのか。
やがてアンナは小さく息を吐き、顔を上げる。
もう、震えてはいなかった。
「……外に、まだ待ってる者たちがいる。私は……戻る」
トラヴァスが「そうか」と短く答える。
アンナは歩を返し、扉の前で一瞬だけ立ち止まった。
だが迷いは見せず、自ら手を伸ばし、静かに扉を押し開ける。
礼拝堂の外には、アリシアにひと目会いたいと願う騎士たちが、静かに並んでいた。
「……見てやってくれ」
アンナのひと言に、騎士たちは深く頭を垂れ、ひとり、またひとりと礼拝堂の中へ歩を進めていく。
その中に、ルティーの姿もあった。
彼女はアンナの前で足を止め、小さく息を呑む。
何かを言いかけるように口を開き──けれど、結局、言葉にはならなかった。
ただ立ち尽くし、その場から動けない。
「ルティー……つらい現場に行かせてしまったな。すまなかった」
アンナがそう声をかけると、
「いえ……! いいえ……っ」
そう言ってルティーは顔を伏せ、ぽろぽろと涙をこぼし始める。
憔悴しきったルティーの姿に、アンナは眉を下げた。
「……もう遅い。長距離の移動に、戦闘もあったのだろう。疲れているはずだ。……トラヴァス」
背後で様子を見守っていたトラヴァスに、アンナは静かに声をかける。
「悪いが、ルティーを家まで送ってやってくれないか」
「……わかった」
大粒の涙を止められないルティーを見ては、つられてしまいそうで。
アンナは彼女をトラヴァスに託し、そっとその場をあとにした。




