177.私はそんなに不安な顔をしているか?
朝、いつもより早く家を出たアンナは、イークスを預けると、王宮へ向けて足早に歩を進めた。
軍議の間には、すでに将たちの姿がそろっている。
「第一軍団はアリシア様の指揮のもと、昨夜遅くヤウト村へ出立しました」
アリシアの副官であるルーシエの声が、静まり返った室内に凛と響いた。
「……なにが起こった?」
緊張を帯びたアンナの問いに、ルーシエは一瞬の間を置いて、重く口を開いた。
「ヤウト村で、村人たちによる反乱が発生しました」
その一言で、空気が波紋のようにざわめきを帯びる。
「反乱? 村人の武力など、鎮圧に騎士団すら不要なはず。アリシア筆頭が動くとは思えませんが」
疑念をにじませた声で、第二軍団の将トラヴァスが問う。ルーシエの表情が翳った。
「ただの反乱ではありません。ヤウト村では、上納すべき金鉱の産出分を不正に流用していたようです。その資金で他国から傭兵を雇い、武装蜂起に及んだと見られます」
「他国とは?」
「まだ断定はできませんが、恐らくはフィデル国です。あの国とは、かねてより鉱山の領有権を巡って争いが絶えませんでしたから」
ヤウト村は王都の南西に位置し、豊かな金鉱を擁する鉱山地帯だ。隣国フィデルとは長年にわたり、緊張関係が続いている。
「現在、増援として第三軍団と第六軍団が現地へ向かっています。その他の軍団は、王都の防衛と周辺の治安維持にあたるよう命じられました」
将たちの表情に、次第に緊張が走ってゆく。
「報告によれば、膠着していた戦闘は明け方から再び動き出し、今まさに交戦状態に入っているとのことです。状況次第では、さらなる増援が必要になるかもしれませんが、現時点では続報待ちとなります」
ルーシエの静かな声が、会議の場に重苦しい空気を浸透させた。
将たちは無言のまま、目配せを交わし、それぞれの思案を巡らせる。
「皆さまには、平時と変わらぬ動きを保ちつつ、いつなにが起きても即応できるよう、万全の備えをお願いいたします」
一同がうなずき、軍議の間に沈黙が落ちた。
アンナは胸の内に広がるざわめきを、奥底へと押し込める。
アリシアは、誰よりも強く、戦場を読む勘の鋭さと、理知的な判断を併せ持つ将だ。頭で考えているのか、肌で感じているのか、見ている者には判別がつかない。
けれど、気づけば彼女の決断が、常に最善の道を切り拓いていた。
そんな筆頭大将を信じているのだから、動揺するわけにはいかない。
だが、どこかで燻る不安の影は、どうしても振り払えなかった。
拳をそっと握りしめ、アンナは正面をまっすぐに見据えた。
***
昼過ぎ、アンナは自室に戻り、積み上がった書類に目を通していた。
そこへ、ふいにカールがふらりと顔を出す。
「よう、ちょっと暇になったから顔見に来たぜ」
けけっと笑うカールに、アンナは呆れたように眉をひそめる。
「どうせ手を動かすのは苦手なんだろう?」
「まぁな。俺より書類が得意な奴がいっぱいいるしよ」
「小隊長のお前がサボってどうする。困ったやつだ」
口ではそう言いつつも、アンナは彼が来た理由に薄々気づいていた。
心の機微に聡いカールは、アンナのわずかな心の揺らぎに気づいたのだと。
いつもはアリシアが出動していても、まったく心配しないアンナであるが、なぜだか今日は、妙なざわめきが胸の奥で燻っていた。
そこへ、もう一度ノックの音。
今度はトラヴァスが姿を見せる。
「なんだ、トラヴァスも来たのかよ」
「お前も来ていたのか、カール。油を売りに来るほど暇なのか?」
「うっせ、お前もじゃねぇか」
「私はちゃんと仕事で来ている。アンナ、これに目を通しておいてくれ」
差し出された書類は、見るからに急ぎではない内容だった。
アンナはそれを受け取り、思わずふっと笑う。
「すまないな、二人とも。私はそんなに不安な顔をしているか?」
アンナの問いに、一人は気まずそうに笑いを浮かべ、一人は無表情のまま目を細めた。
自覚のないまま、表情に出ていたのだろう。
「アリシア筆頭のことだ。今ごろ村人の槍を片手で折って、説教しているに違いあるまい」
「だな。『反乱なんて百年早い』って、あの迫力でよ!」
二人の言葉に、アンナはくすりと笑う。
「戻ってきたら、『不安になる暇があるなら、腕でも磨いておきなさいな』って叱られそうね」
オンモードの解けたアンナの言葉に、カールはほっとして笑う。
「そうそ。『ヒヨッコに心配されるほど、年寄りじゃないわ』って怒られるぜ」
カールの言葉に皆が笑った、その直後。
またも、ノックが鳴る。
ぴたりと笑い声が止み、アンナは扉を見つめた。
「どうぞ」
声に応じて入室したのは、ルーシエだった。
寄れひとつない騎士服、凛とした立ち姿、整った表情──だが、その瞳だけが、明らかに揺れている。
なにかを強く押し殺した、張り詰めた気配を纏って。
「アンナ様、少し……よろしいでしょうか」
その声音に、空気が変わった。
アンナは無意識に立ち上がる。
「どうした、ルーシエ」
「……先ほど、前線から急報が届きました」
普段は穏やかな彼の表情が、こわばっていて。
ドクン、ドクンとアンナの耳のそばで心臓が鳴る。
「……なに?」
ルーシエは一度、目を閉じてから息を吸い──言葉を、絞り出す。
「第一軍団、アリシア様が……戦死されたとの報が届きました……っ」
「っ!!」
世界の時間が止まった。
現実とは思えない言葉に、空間がぐにゃりと歪んで見える。
喉がなにかを言おうと震えるが、声にならない。
思考が真っ白になり、耳に届くのは自分の心臓の音だけ。
「……そんな、はずないだろ」
カールの声が震える。否定したい。受け入れたくない。
「まさか、そんな……」
トラヴァスも言葉を失い、口を閉じるのも忘れてルーシエを見つめる。
アンナは胸の内に広がるざわめきを、奥底へと押し込めた。
叫びたくなる衝動を、涙に変えそうになる自分を、必死に抑え込む。
信じていた。アリシアは絶対に戻ってくると。
アリシアは、そういう存在だった。揺るがず、強く、鋼のように前を行く──アンナにとって、唯一無二の柱だった。
しかし今、アンナは将だ。
泣くことも、うろたえることも、許されない。
この報せの意味を、誰よりも先に受け止めなければならない。
「……わかった。詳細を……整理して、改めて報告を」
喉が焼けるように痛む。それでも、涙はこぼれなかった。
アンナはそっと目を閉じる。
強くて、明るくて、あたたかい──太陽のようなアリシアの姿が浮かぶ。
触れれば壊れてしまいそうな現実を、アンナはただ静かに、受け止めようとしていた。




