175.私、幸せの神様のお話を聞きたいわ
新しい恋人ができたら、その救済の書を取り出すのか──そんなアンナの問いかけを受けて、アリシアは静かに胸元へ手を当てた。
「私はこの書を取り出すつもりはないわ」
その言葉に、アンナは眉を寄せる。
不誠実ではないのか、という思いが、胸の奥でざらりと渦巻く。
「アンナ。母さんはね、父さんを忘れたわけじゃないの。今でも、父さんを……ロクロウのことを、愛しているのよ」
アリシアの声は、時を越えてなお残る想いを慈しむようで、アンナは言葉を失う。
今、アリシアは「好きな人がいる」と言ったばかりだ。それなのに、まだ父のことを愛していると言う。
「こんな風に言うと、不誠実に思われるでしょうけど……私はロクロウもその人も、同じくらいに愛してしまったのよ」
(父さんとその人のことを……同じ、くらい……?)
理解しがたい言葉に、アンナは瞳を見開いた。信じられない。二人の男性を同時に愛する──そんな母親が、自分の目の前にいる。
アリシアは、そんな娘の動揺を汲み取ったのか、優しく語りかける。
「最初、私はロクロウ以外の人と付き合うつもりはなかったのよ。ロクロウを忘れられないのに、他の人と付き合うなんて失礼だって、そう思っていたの」
「まぁ、そう……よね……」
それが、アンナの中では普通の感情だった。だからこそ、アリシアの感覚は受け入れがたい。
「でもね、ロクロウが好きなのも事実。その人のことが好きなのも事実なの。どちらかを選ぶのは、本当に難しいことよ。でも私は、今そばにいて支えてくれる人を選ぶことにした」
「……父さんのことを愛しているのに?」
「ええ。どちらも選べない状態が続くより、ずっとマシなんだって気付いたのよ。……ねぇ、アンナ」
アリシアはゆっくりと腰を上げて、娘の前に歩み寄る。アンナも自然と立ち上がり、向かい合ったその瞬間──アリシアはそっとアンナの手を握った。
「今はわからないでしょうけど、あなたもきっと同じように悩む時が来るわ。その時、今母さんが言った言葉を、思い出してほしいのよ」
その声が、まるで未来の娘への祈りのようで。
「母さん……? どうして……」
唐突に襲いかかるのは、説明のつかない恐怖だった。
胸の奥から湧き上がる闇のような不安が、アンナを呑み込んでいく。
娘のそんな表情を見たアリシアは、思わず眉をひそめた。
「ごめんなさい……今言うのは残酷だったかしらね……グレイがいなくなって、一年も経っていないっていうのに」
「違う……違うの……」
「え?」
アンナの唇は青ざめ、かすかに震え始める。
「どうしたの? 違うって、なにが?」
「だって、『思い出してほしい』だなんて……まるで……その時、母さんはいないみたいじゃない……!」
アンナの瞳から、ぽろりと落ちた涙こぼれ落ち──床に小さな音を立てる。
誰かがいなくなることの恐怖。愛する人を失う絶望。それらが一気に襲いかかってくる。
アリシアはそんなアンナを、優しく抱きしめた。
「馬鹿ね、母さんはそんなに簡単に死んだりしないわよ」
「グレイだって、簡単に死ぬような人じゃなかったわ……!」
「そう……ね……」
アリシアの手が、アンナの黒髪を静かに撫でる。
震える娘の体を、じっと包み込む。
しばらくそうしていたアリシアは、決心を固めたように声を張り上げた。
「じゃあ、忘れていいわ! アンナがそんな状態になった時、私が諭してあげる。それでいい?」
思いがけない母の言葉に、アンナは泣きながらもこくんと頷く。
顔を上げると、ほっとしたように微笑む母がいて。アンナは、縋るように口にした。
「約束よ、母さん……」
「ええ、約束!」
力強い母の返事に、アンナの胸の中の靄が、少しだけ晴れていく。
今度はアンナの方からアリシアの手を取り、その手をそっと包み込んだ。
「母さん、救済の書……やっぱり本に戻さない?」
「え? どうして?」
「わからないけど、なんとなく……」
胸に潜む、妙な胸騒ぎ。それを無視してはいけない気がして。
しかしアリシアはまっすぐにアンナを見つめ、揺るぎない声で応じる。
「いいえ、外さないわ。この異能があれば、大切な人を守れるのよ。グレイの時は……遠征中で効果の範囲外だったけれど……王宮にいたなら、守れたはずだった」
それがアリシアの、悔いと信念が織り交ざった本音だった。
けれどアンナは、そこにある現実を静かに突きつける。
「相手はシウリス様なのよ……母さんの死体が、ひとつ増えるだけだったわ」
「そうかしら。私とグレイなら、善戦できたと思うけど」
「王族に刃を向けるつもり? 不敬罪か反逆罪で処刑よ」
アリシアは『そういえばそうね』とでも言いたげに少し唸った。その反応が、かえってアンナの不安を強くする。
「だからだわ。その書を外してほしいのは。母さんは無茶するから、心配なのよ。父さんとの大事な思い出だっていうのはわかるけど、本に戻しても置いておけるじゃない」
アンナはそう言って、アリシアの手を放した。アリシアは己の胸元を見つめ、それでも首を横に振る。
「だめよ。だからこそ、この書は必要なの。あなたや、あなたの周りの大切な者を守るために。もう二度と、アンナに悲しい思いをさせないために」
「……母さん……っ」
「信じて。母さんは大丈夫だから」
それは、アリシアの決意だった。もう二度と、娘を悲しませないという。
(そんな風に言われたら……もうなにも言えないじゃない……っ)
母の気持ちはわかっている。その、強さも。
しかしアンナはたまらず涙を流し、アリシアに抱きついた。
アリシアもまた、愛おしい我が子を強く抱き締める。
不安に駆られ、肩を震わせるアンナを。
アリシアは、ずっと優しく包み込み──
やがて、アンナの震えが静まり始めたころには、すっかり遅くなっていた。
アンナは叱られた子どものような顔をして、ぽつりと呟く。
「ごめんなさい、母さん……明日も仕事なのに」
「いいのよ、部屋は同じ王宮内なんだから。あ、ねぇ。今日はこのまま一緒に寝ちゃいましょうか」
「え?」
一緒に寝るなど、一体いつぶりの話だったか、思い出せない。
驚くアンナに、アリシアは太陽のような笑みを見せた。
「たまにはいいでしょう?」
「ええ……そうね。母さん、私、幸せの神様のお話を聞きたいわ」
「うっふふ。いいわよ~」
グレイが死んだ時には嘘っぱちだと言ってしまった、幸せ神様の話を。
でも今なら、心を温める灯になってくれそうな気がして。
二人でベッドに入ると、アリシアは、話を聞かせてくれた。
天使様がいつも見ているということを。
幸せの神様が起こす、小さくも素敵な奇跡の数々を。
「絶望している人のところに、奇跡は起きないわ。希望は持ち続けるの。自分に恥ずかしくない生き方をしていれば、奇跡はいつか必ず起こるのよ」
「う……ん……」
その声が、まるで心地よい子守唄のようにアンナの耳に溶け込んでいく。
目を閉じたまぶたの裏に、懐かしい笑顔が浮かぶ。
グレイが、優しく微笑んでいて。
アンナもまた、そっと微笑み返す。
ふわりと頬に、温かいものが優しく触れていく。
「おやすみ、アンナ……あなたに神様のご慈悲があらんことを」
そんな声が天から聞こえた気がして。
アンナは温かさに包まれながら、安心して深い眠りに落ちていった。




