174.飲み物一つで、色んな思い出があるわよね……
からりとした暑さが心地よくなってきた、七月のある日。
「……そろそろ限界、かもしれんな」
オンモードで呟くのは、一人執務室にいるアンナだ。
日々の仕事量が捌ききれなくなっている。
書類をファイルごとに分ける時間さえ惜しい。
この日も就業時間を超えて仕事をしていると、夜七時を回るころにアリシアがやってきた。
珍しく食事に誘われて、アンナは承諾する。
外で母親と食事をするのは、ずいぶんと久しぶりだった。
店に着いても、母は終始ごきげんだった。
その顔を見ているだけで、アンナも自然と頬をゆるめてしまう。
たわいもない会話を交わしながら、温かい料理をつつく。
そんな時間が、ひどく懐かしく感じられ、久しぶりに親子の時間を堪能できた。
「久々に母さんとゆっくり話せたわね」
オフの状態となっているアンナは、満足げに微笑みを見せる。
しかし、それとは対照的に、アリシアの表情には、いつもの太陽のような笑みが潜んでいた。
「そうね……でももっとゆっくりと話したいのよ。いいかしら?」
「構わないわよ。じゃあ私の部屋に来る?」
言いながら、二人は会計を済ませ、立ち上がる。
誘ったのは自宅ではなく、王宮にある自室だった。
アリシアも王宮に一室を与えられているから、帰りが遅くなっても心配はいらない。
部屋に入ったアリシアは、机の上に置かれたグレイの写真を横目でちらりと見た。
一瞬だけ、痛みを浮かべたような顔をしたが、すぐに元へと戻る。
そんな母に、アンナは声を掛けた。
「母さん、なにか飲む?」
「じゃあ、紅茶をもらおうかしら」
部屋の真ん中のテーブルに備え付けられている四脚の椅子。
そのうちの一つに、アリシアは腰を掛ける。
「はい、どうぞ。砂糖はこれね」
「ありがとう」
「母さんは本当に紅茶が好きね」
「ジャンがいつもミルクティーを要求してくるもの。ついでに自分のを淹れてたら、いつの間にか紅茶好きになってたわ」
家ではジャムを入れるのが常だったが、ここにはないため、今日は砂糖を入れている。
アンナは自分用にコーヒーを淹れ、アリシアの正面に腰を下ろした。
「グレイは、どちらかというとコーヒーが好きだったわ。なんにも入れず、ブラックで。だから私もいつの間にかコーヒーが好きになっちゃって……」
コーヒーを一口飲み、アンナは写真立ての中のグレイに視線を向ける。
そしてそのまま、静かに母へ問いかけた。
「……父さんは、コーヒー派だった? 紅茶派だった?」
アリシアの手が止まった。
アンナが父の話を切り出すのは、本当に久しぶりだった。
グレイと付き合い始めたころ、一度だけ詳しく話を聞いたことがあるが、その後触れた覚えはない。
聞けばアリシアは嬉々として語り出し、鬱陶しいほどに父親を称えるのがわかっていたからだ。
でも今は、少しだけ聞いてみたい気分だった。
「父さんはね、緑茶派よ」
「リョクチャ?」
「ええ、色んな種類があったけど、中でも玉露っていうお茶を好んで飲んでたわね」
「初めて聞いたわ。ギョクロ? 美味しいの、それ」
「父さんが淹れると美味しいのよねぇ。温度とか、淹れ方にコツがあるみたいで。母さんが淹れると、渋くて不味かったわ」
母の言葉に、アンナはくすっと笑いながら目を細める。
「飲み物一つで、色んな思い出があるわよね……」
視線はグレイの写真から離れなかった。
恋人が亡くなって、まだ一年も経っていない。
コーヒーの香りだけで、彼のいろんな表情がよみがえる。
ふとアリシアを見ると、彼女は静かに首を振っていた。
(そういえば今日、母さんはなにかおかしいわね……父さんの話を聞いても、惚気が出てこないし)
なにか言いたげな母の気配に、アンナはそっと首を傾げた。
「……どうしたの? 母さん」
その声に、アリシアは決心したようにアンナの目を見据える。
「アンナ、聞いてほしいことがあるの」
「なぁに? あらたまって」
「母さんね、好きな人がいるのよ」
突然の告白に、アンナは目を大きく見開いて固まる。しかしアリシアは間髪入れずに続けた。
「それでね、私はその人と付き合いたいと思ってるの」
「そう……母さんにそんな人がいたのね。驚きだわ」
アリシアに恋人候補がいるなど、想像もしていなかった。
雷神至上主義で、他の男に目を向けるとは思っていなかったからだ。
しかし、父親に固執してほしいとは思っていない。
むしろ、いい人がいるのならその方がいいと、アンナは本心から思っている。
「いい……かしら……」
「なにが?」
問い返すアンナに、アリシアは改めて言った。
「母さん、その人と付き合っても、構わないかしら」
「え? もちろんよ。好きなんでしょう? どうして私に聞くの?」
なぜ娘に許可を得るのかと、アンナは首を傾げる。
(私の許可が必要な相手って、こと?)
母と関わりがあって、アンナとの関係性も深い人物──そう考えると、ふと一人の名前が脳裏をよぎった。
「あ、もしかして……ちょっと、年が離れ過ぎてない?」
アンナの問いに、アリシアの肩がピクリと動いた。
それを見て、アンナは確信を持つ。
(やっぱり。最近やけに、母さんの執務室に顔を出していると思ったのよ)
「……確かに、少し離れてるかもしれないけど……」
顔を曇らせたアリシアに、アンナは慌てて付け加える。
「あ、反対してるわけじゃないのよ! ただ、意外で……」
「意外?」
アンナはこくんと頷いた。
アリシアは四十五歳。対する彼は──二十二歳だ。
「彼女と別れたの、不思議に思ってたのよね……まさか、母さんのことが好きだったなんて……」
「……彼女?」
「トラヴァスってそういうこと全然言ってくれなくて」
「ちょっ!! っとっとっと!」
アリシアは紅茶を滑らせかけ、今度は頭痛がするとでも言いたげに額を押さえた。
「ちょっと待って、アンナ」
「え?」
「トラヴァスじゃないわよ」
アリシアの言葉に、アンナはどこかほっと息が漏れる。
反対する理由などなかったが、やはり友人と母親が付き合うのは、複雑であったのは確かだ。
「そうなのね。びっくりしたわ」
「母さんの方がびっくりしたわよ!」
「だってトラヴァス、最近足繁く母さんのところに通ってるから」
「秋の改編に向けて、色々相談に乗ってあげてるだけ」
「そうよね、トラヴァスのわけないわよね。年の差があり過ぎるものね」
そう言うと互いに飲み物を口にし、一息つく。
しかしトラヴァスでないとすると、他には思い当たらない。
「で、母さんは誰と付き合いたいの?」
アンナの問いに、アリシアは少し考えてから口を開いた。
「今度、その人を連れてくるわ」
「誰かしら……気になるけど、ちゃんとお付き合いが始まってから紹介してもらった方がいいかもね。これから告白するんでしょう?」
「ええ、まぁ……そうなる……かしら」
母が歯切れ悪く言う姿は珍しい。
それならと、アンナはそれ以上聞かないことにした。
(母さんには、幸せになってほしい。でも……)
ふと、アンナの目に陰が差す。視線がアリシアの胸元へと向かう。
「母さんはその人と付き合い始めたら、救済の書を取り出すの?」
母の愛する人からの……雷神からのプレゼントである救済の書。
それを相手の人は知っているのだろうか。
新しい恋人ができた時、昔の恋人の品を大切にしているのは、失礼ではないのだろうか。
そんな思いからの、疑問だった。




