173.私の副官は、彼女しかありえません
トラヴァスが第二軍団の将となってから、五ヶ月が過ぎていた。
すなわちそれは、グレイが死んでから五ヶ月ということだ。
この日、闘技場では第二軍団の連携訓練が行われていた。隊の指揮を執るトラヴァスのもとへ、筆頭大将アリシアが様子を見に現れる。
「どう? トラヴァス。なにか不都合はない?」
多忙な合間を縫って自分を気遣ってくれる上司に、トラヴァスは素直に感謝を覚える。
「さすがグレイの編成した隊といったところでしょうか。各小隊を率いる人選がいい。似た考えの者を小隊にまとめることで、隊内の諍いを減らすことに繋がっている。それ自体は今後も続けていきたいのですが、正直、私の思い描く隊とかけ離れているのは事実です」
この軍団を編成したのは、亡きグレイだった。トラヴァス自身の意向は、ひとつも反映されていない。
だからこそ、やりにくさは否めなかった。統率できないわけではない。だが、理想というものは誰にでもある。
「まぁ、当然出てくる不満よね。でもあと半年は辛抱してちょうだい。秋の改編の際には、あなたの意向を極力組むようにするわ」
「ありがとうございます。つきましては別の隊から引き抜きたい者が何名かいるのですが、ご助力いただけませんか」
騎士の引き抜きは、軍の中では珍しくない。もちろん、双方の将の合意は必要だが。
「誰かしら」
「クロバース隊からフェブルス、デゴラ隊からウェイ、テイド隊からローズ。この三名は絶対に私の隊に欲しいのです」
どの人物も、有能な若手騎士だ。各将が簡単に彼らを手放してくれるとは思えないからこそ、トラヴァスはアリシアへと頼む。
無理だろうかという若干の不安を纏うも、アリシアは大きく頷いた。
「わかったわ。どうにか交渉してみましょう」
「助かります」
「……あら? そう言えばローズって……」
唐突に気づいたようにアリシアが目を向けると、トラヴァスはわずかに顔をしかめ、しかしすぐに表情を消した。
「私の別れた恋人です」
「え!? 別れてたの!?」
「はい。五ヶ月程前に」
驚いて目を丸くするアリシアだ。
(この方も、アンナと同じで鈍いな……)
親子してこういう話題に疎いと、再確認するトラヴァスである。
「そう……別れた彼女を、自分の隊に引き入れるの?」
「ええ。私の副官は、彼女しかありえません」
「ローズの方は大丈夫かしら」
「問題ないはずです。ちゃんと公私をわけて考えられる人物ですので」
確かに、ローズとは別れた。けれど、仕事上では変わらず必要な連絡を取り合っているし、私的に顔を合わせることがあっても、彼女は一貫して普通の友人として接してくれる。トラヴァスも、それに応じてきた。
なにより──彼女の仕事ぶりを、心の底から尊敬している。副官として選ぶなら、ローズしかいないのだ。
「わかったわ。他にも引き抜きたい者はいるんでしょう。時間ができたら私の執務室に来なさい。一緒に編成を考えてあげるわ。すべての希望には沿えないでしょうけど」
「ありがとうございます」
アリシアの申し出に、トラヴァスは心から安堵した。
それから彼は、暇を見つけてはアリシアのもとを訪れ、相談を重ねるようになった。
もちろんアリシアも多忙な身だ。すぐに会えるとは限らなかったが、それでもトラヴァスは粘り強く通い続けた。秋の改編までには、必ず、自分が最も使いやすい軍に仕上げてみせる──そう、固く決意していた。
そのトラヴァスは第二軍団の将であると同時に、王族であるフリッツの護衛でもある。
基本的には軍務が主だが、フリッツが重要な公務で外に出る際には、できる限り随行していた。
久々に王弟の部屋を訪れると、フリッツは嬉しそうに目を細めて微笑む。
「最近はこうして語らう暇もないほど、忙しいようだね。トラヴァス」
「申し訳ございません、フリッツ様。しかし、私のフリッツ様への忠誠心は変わっておりません」
「うん」
フリッツは、今年で十七歳になる。
身長はまだ伸び続けており、顔立ちにも幼さが消えて落ち着きが増してきた。
この国では成人は二十歳。結婚は十八歳から可能だ。
しかし未成年の婚姻には後見人の承諾が必要である。つまりフリッツは、王であるシウリスの承諾が必要ということだ。
「いかがですか、あの件は」
トラヴァスの問いをすぐ理解したフリッツは、美しい顔を少し伏せる。
「一応話はした。けれど……『さすがあの淫婦の息子だ』と言われて、聞く耳を持ってはくれなかった」
フリッツは、できるだけ早く結婚しようとしていた。
そして、子を成すつもりだ。
結婚もせず、後継ぎを立てようともしないシウリスに、貴族たちは少なからず焦りを覚えている。
自分に子ができれば、その焦りは確実に形を持って現れるだろう。
彼らは王家の安定を求めて、フリッツの方へ傾く。
フリッツは、それを見越して動いていた。
だが、それを阻む最大の壁こそ、シウリスの承諾だった。
「思う通りにはいかないものだね……」
「焦りは禁物です。それに……お相手は、もうお決まりなのですか」
トラヴァスの問いかけに、フリッツは小さく笑ってかぶりを振る。
「そんな人、いるわけないよ。過去に降嫁した貴族の娘なら、誰でもいい。相手には申し訳ないけど……ただの政治の駒だからね」
そう言い切るフリッツの姿に、トラヴァスは胸を痛めた。
(恋も知らぬまま、ただ国のために結婚を──頭が下がる)
己の感情に負けてローズと別れた自分と比べて、どれほど立派なことか。
フリッツは椅子にもたれ、探るような……それでいて冗談めかした笑みを浮かべた。
「その分、トラヴァスには幸せな結婚をしてもらいたいと思っているんだけどね。ローズと別れたあと、誰とも付き合う気配がないのはどうしてかな?」
銀灰色の綺麗な瞳を細ませるフリッツ。
気づかれているのかもしれないと思いながら、トラヴァスは何食わぬ顔で視線を返した。
「王族であっても、幸せな結婚は可能ではないでしょうか。むしろ、王族だからこそ、そのような結婚をすべきでは。悲劇を、繰り返さぬために」
「……そうかもしれないね」
前王による打算的な婚姻で、大きく歯車が狂ってしまった王家。
それを考えると、純粋な愛で結ばれることは、マイナスではない。
トラヴァスは思う。
フリッツにも、普通の少年のように恋をしてほしいと──たとえ、それが難しいことであっても。
窓の外は、すっかり夜の帳に包まれていた。
望む未来は、遠く、霞んでいる。
それでもなお、トラヴァスは願わずにはいられなかった。




