167.私、あなたが目指していた筆頭大将になるわ!
翌朝、玄関先にはカールが立っていた。
彼の赤い瞳はアンナの顔色を見た瞬間、すっとその奥を見抜くように鋭さを帯びた。しかし口を開いたカールの声音は、いつもより静かで柔らかい。
「……なんかあったんだろ。話す気になったらでいいぜ」
その言葉には無理に聞き出そうとする圧も、同情もない。ただただ、気持ちに寄り添おうとする気配だけがあった。
アンナは、胸の奥でわだかまっていたものが、ふとほどけるような気がした。小さく頷き、中へと促す。
「……上がって」
家の中は静まり返っていた。イークスも物音ひとつ立てず、玄関の隅でじっと人の動きを見ている。
カールは室内シューズに履き替えると、少し遠慮がちに居間のソファへ腰を下ろす。アンナも向かいの席に座ったが、すぐには言葉が出てこない。
カールは急かさず、なにも言わずにじっと待った。
その沈黙をありがたく思いながら、アンナは唇を湿らせ、ぽつりとこぼす。
「……妊娠、したと思ってたの。……でも、違った」
沈黙が場を包んだ。
言葉にした瞬間、胸の奥の痛みが現実のものとして突き刺さる。アンナの手は膝の上で強く指を組み、震えを抑え込んだ。
カールは少しだけ顔を伏せ、眉をひそめる。
「……そっか」
その声には、重みがあった。ただの相槌ではなく、痛みに心を寄せた、静かな共感。
アンナは、言葉を探しながら、息を吐くように続ける。
「……期待してた。ほんの少し、ほんの少しだけ……もしかしたらって」
ふと視線を落とす。その瞳は潤んでいたが、まだ涙は流れていない。
「グレイが……なにか残してくれてるんじゃないかって。……きっと、私たちの子どもが、ここにいるって……」
声が震えた。思いを言葉にするたび、希望の残骸が胸の奥で軋むように痛んだ。
カールはその様子をじっと見つめ、ゆっくりと、低くあたたかい声を落とす。
「……つれぇよな」
それは、カールなりの慰めだった。ありふれているのに、不思議と心に響く言葉。
「夢見ちまった分だけ、痛みも深ぇよ。でもよ、それって、そんだけ大事に思ってたってことだろ。グレイのことも……子どものことも」
言葉が胸に沁みた。喉が詰まり、言葉が出てこない。
カールは目を逸らさず、まっすぐにアンナを見据えたまま続ける。
「なあ。グレイ、嬉しかったと思うぜ。俺ならそうだ。自分がいなくなったあとも、まだ誰かが自分との未来を夢見てくれてるなんてよ。それだけで、生きた価値があるって思える」
涙が一筋、頬を伝った。アンナは慌てて手の甲でそれを拭ったが、次の涙がまた頬を濡らす。
カールは、なにも言わずにそっと隣に座り直し、隣に並ぶ。寄り添うでもなく、抱きしめるでもなく、ただ隣にいてくれる距離。
「泣けよ、アンナ。今日は、そういう日だ。無理に堪えんなよ」
その言葉で、堰が切れたように、アンナの目から涙が溢れ出した。
「……ありがとう」
嗚咽をこらえながらも、アンナはそう言った。
カールはそれに微笑み返す。
「でも、泣き終わったら、うまいもん食いに行こうぜ。あとで、グレイの墓にも花を持ってってやろう。今日のこと、ちゃんと報告しねぇとな」
アンナは涙の中で、小さく頷き。
カールはじっと、その涙が止まるのを待った。
***
しばらくして、アンナがようやく落ち着くと、カールが明るい声で言った。
「じゃ、行くか。うまいもん、食いに」
その声に、イークスがしっぽを振って立ち上がった。アンナは目をこすりながらも、そっと微笑む。
「……ありがとう、誘ってくれて」
「気にすんなよ。仲間じゃねぇか」
裏表のないカールの真っ直ぐな思いが、なによりも救いだった。
二人と一匹は並んで歩き、町の小さなパン屋へと向かう。
「ここのキッシュが絶品なんだぜ。朝来たら売り切れてたから、昼のリベンジだ」
「……朝から来てたの?」
「おう、様子見ようかと思ったけど、なんか邪魔しちまいそうでよ。結局パンだけ買って帰った」
苦笑いするカールの横顔に、アンナはふと微笑む。
「カールって、案外気遣い屋なのよね」
「まぁな。アンナ、なに食う? キッシュあるぜ」
「じゃあ、それにする」
二人はキッシュを受け取り、近くの公園のベンチに腰掛けた。木漏れ日の下、焼きたての香ばしさが鼻をくすぐる。
「……たまには、こういうのもいいわね」
「なんも考えねぇ時間って、案外贅沢だよな。普段はめちゃくちゃ忙しいしよ」
「頑張っているものね、カール」
「それはアンナの方だろ。すげー頑張ってる。それは間違いねぇ」
カールの言葉に、アンナの胸はギュッとなる。
「カールって、どうしてそんなに……いつも、ちょうどいいところにいてくれるの?」
「あ? そっかぁ?」
口いっぱいにパンを頬張るカールに自覚はない。アンナはそんな彼の様子に、小さく笑った。
「わかんねぇけどよ。仲間がしんどい時には傍にいてぇって、フツーだろ。トラヴァスだって、仕事に追われてなきゃ来てたと思うぜ」
トラヴァスは無表情だが、心無い人間ではない。むしろ、情には厚い人間だと言うことを、アンナもちゃんとわかっている。
「それによ。俺はアンナの笑った顔が好きだかんな。めちゃくちゃかわいいし、キレイだからよ」
「……もう。またそういうこと言って」
照れるような呆れるような声を出すと、カールはカカカッと笑う。
いつもと変わらないカールに、ほっと心が緩んでいく。
「だからよ。泣きてぇ時でも笑いてぇ時でも、いくらでも頼れよ。無理にでも笑いたい時は、俺が笑かしてやら」
「……そうね。頼りにしてる」
天気の良い秋空の下、アンナはようやく月光のように笑って。カールはそっと、目を細めた。
「んじゃ、墓参り行こうぜ。花、頼んでんだ」
「用意がいいのね」
食べ終わった二人は花屋で花束を受け取ると、郊外にある墓地へと向かった。
風は爽やかで、しかし嫉妬するようにアンナとカールの間をすり抜ける。
丘の上の墓地は整然としていて、優しい光が平等に降り注いでいた。
そんな中、グレイの墓の前に立ったカールは、腰の剣を静かに引き抜く。
「お前の剣、俺が引き継がせてもらったぜ」
フェルナイトノヴァは、柔らかな日差しの中で美しく煌めいた。
グレイへの報告だ。新たな決意と継承の誓いを胸に、再生と破壊を象徴する剣を、カールは高く掲げる。
「お前の騎士の誓いも、俺が引き継ぐ。しっかり見てろよ。俺は、誓いを違えねぇ」
一人で……いや、そこにいるグレイとの新たな誓いを立てたカールの顔は、誰よりも真剣だった。
カールは誓いを終えると静かに納剣し、アンナはグレイへと花束を捧げる。
愛する人の名前が刻まれた墓に、アンナは心で語りかけた。
(グレイ……子どもはいなかったみたい。それとも、そっちに行っちゃったのかしら……?)
胸が痛んだ。でも、その痛みも、少しずつ受け入れられる気がした。
(まだ悲しいの。泣いちゃうこともあると思う……でも、見守っててね。私は……)
そしてアンナは一つの決意をした。
カールがグレイの剣と意思を引き継いだ今。
自分にできることは、これなのだと。
「私、あなたが目指していた筆頭大将になるわ!」
強く、まっすぐな言葉で宣言をする。
急に声を出したアンナに、カールは驚きながらもニッと笑った。
「カカッ! それでこそ、俺らの女神様だよなぁ、グレイ!」
「なによ、女神様って」
「いい女だってこった。グレイもそう言ってるぜ。鼻高々によ」
カールが眩しい目でアンナを見た瞬間、一陣の風が吹いた。
黒いアンナの髪を優しく揺らし、イークスが空に向かって一声吠える。
そして、二人と一匹は並んで歩き出した。
静かな日常の中に、ほんの少しだけ、救いの光が差し込んでいた。




