165. あなたを忘れる方法なんて、私は知らない……
コーヒーを飲み終えると、三人は家を出た。
カールとトラヴァスは宿舎に帰るために。そしてアンナは、イークスを迎えに行くために。
「ありがとう、二人とも。ここでいいわ。サエクさんとも話したいし」
店の前まで見送ってくれた二人に、アンナは礼を告げた。
「そうか……気をつけて帰るのだぞ」
「喪失休暇は明日までだからな。ゆっくり休めよ」
「ええ、そうする」
背を向けた二人が夜の街へと消えていく。アンナは仲間のありがたさに後ろ姿を見送ってから、扉を押して店内へと入った。
中ではサエクが机に向かい、黙々となにかを書いている。
「サエクさん」
「あ! アンナさん!」
顔を上げたサエクは勢いよく立ち上がり、深く頭を下げた。
「この度は……お悔やみ申し上げます。……本当にもう、なんて言ったらいいのか……」
言葉を探すようにしながらも、彼女の声には心からの哀悼が滲んでいた。
「イークスを葬儀に連れてきてくれてありがとう。グレイ、きっと喜んでたと思う」
アンナの感謝に、サエクはわずかに顔を歪めて頷いた。こみ上げる感情を飲み込むように。
「……連れてきますね。ちょっと待っててください」
奥へと消える彼女の背中を見送りながら、アンナは机の上に目をやる。
そこには、びっしりと文字が綴られた原稿用紙が広がっていた。
「お待たせしました! イークスくん、今日は家に帰れるよー」
戻ってきたサエクは、リードをつけたイークスを連れて現れる。
イークスはアンナを見上げ、小さく鼻を鳴らした。その頭を、アンナは優しく撫でる。
「明日は私、休暇をもらっているから、また明後日にお願いするわね」
「わかりました! 困ったことがあれば、いつでもどんとこいです!」
「ありがとう、頼りにしてるわ。ところで──」
アンナの視線が再び机の上の原稿に向かった。
「それは、なにを書いていたの?」
「あ、これは……小説です。へへっ」
照れたように笑って頬をかくサエクに、アンナは目を丸くする。
「小説を書いているの? すごいわ。本になったら、買うから教えてね」
「ありがとうございます! 自分、デビュー目指してるんで、頑張ります!」
力強く拳を握って言うサエクに、アンナはやわらかく笑って頭を下げると、イークスと共に店をあとにした。
「帰りましょう、イークス。少し、寒くなってきたわね」
冷たい秋風が夜気を連れて吹き抜ける中、イークスはぴたりとアンナの足元に寄り添った。
すれ違う帰宅途中の人々、レストランから出てくる家族連れ、家の窓から漏れる灯り──
どこかから聞こえてくる笑い声に、アンナの胸がきゅっと痛んだ。
家に着くと鍵を開け、暗い部屋に足を踏み入れる。
アンナはランプに火を灯しながらも、今日は壁の照明を点ける気になれなかった。
これからは、こんな夜が続く。この大きな家で──たったひとりの生活が。
じわりと涙が滲んだとき、イークスがくぅんと鳴いて、鼻先をすり寄せてきた。
「イークス……っ」
しゃがみ込み、その体を抱きしめる。イークスはアンナの頬をぺろりと舐めた。
あたたかな温もりが、少しずつ心に広がっていく。
涙が引いていくのを感じながら、アンナはそっとイークスに微笑んだ。
「そうよね……あなたが、いるわよね……それに、もしかしたら……」
アンナは自分の腹に手を置き、願いを込める。
「おいで、イークス。今日は二階で一緒に眠ってくれる?」
これまでイークスは一階だけで過ごしていた。
ディックがいた頃の習慣だったが、もうその理由はなくなった。
一人で夜を過ごすのは、まだ心細い。
イークスは『了解だよ、姐さん』とでも言いたげに、しっぽを振りながら後ろについて階段を上がった。
アンナが開けたのは、グレイの部屋。
まだ彼の残り香が、そこに息づいていて。
ベッドにそっと腰を下ろすと、イークスの耳がピクリと動き、窓の方を向いた。
アンナもつられるように視線を向け、そして──気づいた。
「月明かり……気づかなかった。今日は満月だったのね」
ゆっくりと立ち上がり、窓を開ける。
冷たい空気と共に、銀の光が部屋へと流れ込む。
──グレイって月が好きよね。
──月もだが、どっちかっていうと月光浴だな。心も体も浄化してくれそうな光がいい。
──……この淡い光が。
──ああ。アンナみたいだろ。
いつか交わした言葉が、胸の奥に蘇る。
グレイにとってアンナは、月のような存在だった。優しくすべてを包み、浄化してくれる光だと──そう言って。
「イークス、聞いてくれる? 私、昔は月が怖かったのよ……」
足元のイークスが、くぅんと鳴いて耳を傾ける。
「月が、私には孤独に見えていたの。母さんの帰りを待ちながら、夜空に浮かぶそれが、闇に呑まれたように思えて……吸い込まれそうで、怖かった」
その恐怖から救ってくれたのが、グレイだった。
月明かりの下、この部屋で初めて結ばれたあの夜。
交わされた言葉。彼の温もり。
「グレイは月光浴が好きだったから……怖くなくなったの。何度も何度も、グレイと一緒にこうして月を見上げて……光を、浴びて」
初めてアンナが涙を流したあの日に。
グレイが、初めて愛を紡いだ、たった一度の言葉。
「あの夜が、最初で最後の『愛してる』だったわね……」
ずっと、愛の言葉を口にできなかったグレイ。
それでも、あの一言があれば十分だった。
「ありがとう、グレイ……愛してるって、言ってくれて……」
月の光が、アンナの黒髪を柔らかく照らした。
イークスが鼻を鳴らした瞬間、どこからか、ぬくもりを帯びた優しい風が吹き込む。
秋の夜とは思えないその風は、アンナとイークスを優しく包みこんだ。
── 俺はここにいる。
あの日の言葉が聞こえた気がして、アンナは振り返った。
しかし、そこにはなにもなく。ただ月の光が、静かに床を照らしているだけ。
「……グレイ」
声に出すと、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
もう、いない。触れることも、話すことも、笑い合うこともできない。
あの手はもう、どこにもない。
イークスが足元で身じろぎをして、鼻先をすり寄せる。
「……ダメね。やっぱりまだ、駄目だわ」
溢れそうな涙を指先でぬぐいながら、アンナはベッドに座りこむ。
そしてぽつり、と。
「会いたい……」
声にした途端、それは自分でも驚くほど、真っすぐな願いだとわかった。
たとえ夢でも。幻でも。もう一度だけでいい。
あの温もりに、触れられたら。
月明かりが、そっとカーテンを揺らして部屋に差し込む。
冷たくて、優しい光。
……まるで、グレイが好きだったあの夜の月のようで。
アンナは肩を落とし、そっとイークスに手を伸ばす。
(あなたを忘れる方法なんて、私は知らない……)
一年後も、十年後も、五十年後も……きっと。
癒える日が来る未来など、想像もつかない。
けれど。
この光の下で、彼を思い出せる日は、ほんの少しだけ──
「……おやすみ、グレイ」
寂しさを心に宿したまま、温かい風を感じ取って──アンナはそっと目を閉じた。
その瞼の裏で、どこか遠くから、あの笑顔が微かに浮かんだ気がした。




