161.幸せの神様なんて、嘘っぱちだわ!!
トラヴァスとカールは、玄関前から一歩も動けずにいた。
十月初頭の夜は、すでに骨の奥に冷たさが忍び込む。
寒さに強いカールは平然としていたが、トラヴァスは時折身を震わせていた。
すすり泣く声は、もう聞こえない。
アンナは眠っているのか、ただ沈黙しているのか──それすら、わからなかった。
日付は切り替わり、時刻は午前一時になろうとしている。
夜の帳が下りてから、一度だけドアをノックしたが、鍵が開けられることはなかった。
それでもこの寒空の下、帰らずに待ち続けているのには、明確な理由があった。
もうすぐ、帰ってくるからだ。
「トラヴァス……馬車の音だ」
「やはりな。ルーシエ殿が王都の入り口まで馬車で迎えに行ったのだろう」
暗がりの奥から、一台の馬車が姿を現す。
カールが手のひらに灯した小さな魔法の火が、地面を照らす。
馬車が止まり扉が開くと、現れたのは遠征を終えたアリシアだった。
筆頭大将の姿を見ただけで、張り詰めていた二人の心が、ほんのわずかに緩む。
「トラヴァス、カール……」
アリシアが名を呼ぶ。その後ろから、ジャンとルーシエも降りてきた。
「アリシア筆頭……」
「来てくれてたのね、ありがとう……アンナの様子は……?」
アリシアの問いに、トラヴァスは首を横に振るしかなかった。
「玄関すら開けてもらえません……さすがに明日には葬儀に出さなくてはいけないと思い、勝手だとは思いましたが予定を入れました。それをアンナ様に伝えたいのですが……」
「わかったわ、わざわざありがとう。私から伝えておくから、今日は二人ともお帰りなさい」
「けど」
「行くぞ、カール。……アリシア筆頭、失礼いたします」
ふたりは深く頭を下げ、アリシアにすべてを託して宿舎へ戻っていく。
心の片隅で、アンナの痛みが少しでも癒えることを願いながら。
アリシアは皆を帰すと、鍵を開けて、ひとり静かに家へと入った。
***
薄暗いランプの灯りに照らされながら、アンナはグレイの頬を撫でていた。
もう泣き疲れてもいいはずなのに、涙は止まる気配を見せない。
体は冷えきっているが、上着を羽織る気力さえなかった。
「アンナ……」
玄関の開く音に続いて、聞き慣れた声が耳に届く。
「母さん……」
アンナは視線をグレイからアリシアに移す。母親の顔を見た瞬間、アンナの顔は崩れた。
「母さん……! グレイが、シウリス様に……!」
「アンナ……一体、どうしてこんなことに!?」
「わからない……わからないのよ!!」
アリシアはアンナに駆け寄り、その体をグッと抱き締める。冷え切った体から流れる涙は、氷のように冷たくアリシアを濡らした。
「アンナ……!!」
娘を抱き締めながら、アリシアはグレイの顔を確認する。
そこにはなにか大きな決意をした精悍な顔立ちをした男が、硬く目を瞑っていた。
「グ、グレイ……!」
その表情を見た途端、アリシアの涙腺も決壊する。
「グレイ……グレイ! 返事なさい……アンナをこんなに泣かせて、許さないわよ……っ」
涙は次から次へと降りて、床に散らばる。
「あなたの幸せはこれからじゃない……! アンナと結婚して、子どもを作って……あなたなら、筆頭大将にだってなれた! それなのに……っ」
「っ、母さん……」
「グレイ……なにがあったの……どうしてアンナを置いて逝ってしまったの! ……っ、どうして……!」
アリシアの言葉はそこで途切れる。そして嗚咽を抑えきれず、泣き叫び始めた。
そんな母親の姿を見て。アンナはアリシアと共に、大きな声で泣いた。
しかし二人がどんなに泣き叫んでも──
グレイはもう、その瞼を開けることはなかった。
やがて窓から光が差し込み、アリシアとアンナはぐったりとした体を互いから離す。
二人で一晩中泣き続けたことで、アンナの涙は一時的に止まっていた。そんな娘に、アリシアはそっと口を開いた。
「アンナ……明日、グレイを葬儀に出してあげましょう……」
「……いやよ」
アンナは再びグレイの顔を見つめ、また涙を滲ませる。
(グレイが土に還ってしまうなんて……もう二度と、触れることができなくなるなんて……絶対に、いや!!)
グレイがこの世から完全に消えてしまう恐怖。
死という絶対的な喪失を目の前にして、アンナの体は再び震え出す。
「グレイをこのまま置いておくのはかわいそうよ。……ちゃんと、幸せの神様の元に送ってあげましょう」
アリシアの言葉に、アンナの心が音を立てて切れる。
「幸せの神様なんて、嘘っぱちだわ!!」
飛び散る涙。アンナはアリシアを睨みつけるようにして、叫ぶ。
「幸せの神様がいるなら、どうしてグレイはこんな目に遭うの!? グレイがなにをしたっていうの!!」
「アンナ……」
「神様なんていやしないわ!! そんなもの、ただの迷信よ!」
溢れる涙は止まらない。
母親を傷つける言葉も、構わず出てきてしまう。
「本当に神様がいるなら、グレイを生き返らせてよっ!!!! グレイを……グレイを──」
「アンナっ!!!!」
想いは、堰を切ったようにあふれ出した。
突如降りかかった理不尽に、アンナは再び泣き崩れて。
アリシアは、アンナを抱き止めた。
わんわんと大声で泣き叫ぶアンナを、しっかりとこの世に繋ぎ止めるように。
「アンナ、神様はいるわ。グレイをちゃんと送り出してあげなきゃ、生まれ変わることもできないのよ。そんなの、かわいそうだと思わない……?」
「う……ひっく……う、生まれ……変わる、な、なんて……ひっく……あり得ない、わ……」
「あり得るわよ。きっとグレイはもう一度この世に生を受ける。また、あなたに会うために」
「わ、私に……ひっ、会う、ために……?」
「ええ、そうよ。グレイならやるわ。どんな手段を使ってでも。そうでしょう?」
アリシアとアンナは、同時に棺の中を覗き込む。動くはずのないその表情が、なぜか少し微笑んでいるように見えて、二人は顔を見合わせた。
「……ぐすっ。本当だわ……なんとかするって、そう言ってる……」
「でしょう? 信じて、送り出してあげましょう」
送り出す。
それを考えると、やっぱり胸が張り裂けそうで。
でも本当はわかっている。いつまでもずっと一緒にはいられないことを。
アンナは無言で立ち上がると、王宮から持ち帰ってきたものを取り出した。
それは、一枚の写真。
グレイと撮った、最初で、最後の。
「なぁに……写真?」
アリシアが覗き込むと、そこにはぎこちなく笑う二人の姿。
アンナはゆっくりと、鋏を手に取った。
「……なにしてるの?」
アリシアの問いに、アンナは答えない。
ただ、写真の真ん中に鋏を入れる。二人の間を、あの世とこの世に分けるように。
一枚の写真が、二枚になる。
グレイの笑顔の写真と、アンナの笑顔の写真。
「グレイ……生まれ変わった時、迷わないようにその写真を持っていって……私はあなたの写真を持って、ずっと帰りを待ってるから……」
アンナはグレイの手に、自分の写真を握らせた。
生まれ変わりなんて信じていなかったはずなのに。
この時ばかりは、信じたいと思えた。
彼が、また戻ってくると。
アンナの左手の薬指にある指輪が、そっときらめいた。
(待ってるわ、グレイ……お願い、帰ってきて……)
涙が頬をすべり落ちる。
アリシアは黙って娘に寄り添い、そっと、その頭を撫でた。




