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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
光の剣と神の盾〜ストレイア王国軍編〜

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162/391

161.幸せの神様なんて、嘘っぱちだわ!!

 トラヴァスとカールは、玄関前から一歩も動けずにいた。

 十月初頭の夜は、すでに骨の奥に冷たさが忍び込む。

 寒さに強いカールは平然としていたが、トラヴァスは時折身を震わせていた。


 すすり泣く声は、もう聞こえない。

 アンナは眠っているのか、ただ沈黙しているのか──それすら、わからなかった。


 日付は切り替わり、時刻は午前一時になろうとしている。

 夜の帳が下りてから、一度だけドアをノックしたが、鍵が開けられることはなかった。

 それでもこの寒空の下、帰らずに待ち続けているのには、明確な理由があった。


 もうすぐ、帰ってくるからだ。


「トラヴァス……馬車の音だ」

「やはりな。ルーシエ殿が王都の入り口まで馬車で迎えに行ったのだろう」


 暗がりの奥から、一台の馬車が姿を現す。

 カールが手のひらに灯した小さな魔法の火が、地面を照らす。


 馬車が止まり扉が開くと、現れたのは遠征を終えたアリシアだった。

 筆頭大将の姿を見ただけで、張り詰めていた二人の心が、ほんのわずかに緩む。


「トラヴァス、カール……」


 アリシアが名を呼ぶ。その後ろから、ジャンとルーシエも降りてきた。


「アリシア筆頭……」

「来てくれてたのね、ありがとう……アンナの様子は……?」


 アリシアの問いに、トラヴァスは首を横に振るしかなかった。


「玄関すら開けてもらえません……さすがに明日には葬儀に出さなくてはいけないと思い、勝手だとは思いましたが予定を入れました。それをアンナ様に伝えたいのですが……」

「わかったわ、わざわざありがとう。私から伝えておくから、今日は二人ともお帰りなさい」

「けど」

「行くぞ、カール。……アリシア筆頭、失礼いたします」


 ふたりは深く頭を下げ、アリシアにすべてを託して宿舎へ戻っていく。

 心の片隅で、アンナの痛みが少しでも癒えることを願いながら。


 アリシアは皆を帰すと、鍵を開けて、ひとり静かに家へと入った。



 ***



 薄暗いランプの灯りに照らされながら、アンナはグレイの頬を撫でていた。

 もう泣き疲れてもいいはずなのに、涙は止まる気配を見せない。

 体は冷えきっているが、上着を羽織る気力さえなかった。


「アンナ……」


 玄関の開く音に続いて、聞き慣れた声が耳に届く。


「母さん……」


 アンナは視線をグレイからアリシアに移す。母親の顔を見た瞬間、アンナの顔は崩れた。


「母さん……! グレイが、シウリス様に……!」

「アンナ……一体、どうしてこんなことに!?」

「わからない……わからないのよ!!」


 アリシアはアンナに駆け寄り、その体をグッと抱き締める。冷え切った体から流れる涙は、氷のように冷たくアリシアを濡らした。


「アンナ……!!」


 娘を抱き締めながら、アリシアはグレイの顔を確認する。

 そこにはなにか大きな決意をした精悍な顔立ちをした男が、硬く目を瞑っていた。


「グ、グレイ……!」


 その表情を見た途端、アリシアの涙腺も決壊する。


「グレイ……グレイ! 返事なさい……アンナをこんなに泣かせて、許さないわよ……っ」


 涙は次から次へと降りて、床に散らばる。


「あなたの幸せはこれからじゃない……! アンナと結婚して、子どもを作って……あなたなら、筆頭大将にだってなれた! それなのに……っ」

「っ、母さん……」

「グレイ……なにがあったの……どうしてアンナを置いて逝ってしまったの! ……っ、どうして……!」


 アリシアの言葉はそこで途切れる。そして嗚咽を抑えきれず、泣き叫び始めた。

 そんな母親の姿を見て。アンナはアリシアと共に、大きな声で泣いた。


 しかし二人がどんなに泣き叫んでも──

 グレイはもう、その瞼を開けることはなかった。



 やがて窓から光が差し込み、アリシアとアンナはぐったりとした体を互いから離す。

 二人で一晩中泣き続けたことで、アンナの涙は一時的に止まっていた。そんな娘に、アリシアはそっと口を開いた。


「アンナ……明日、グレイを葬儀に出してあげましょう……」

「……いやよ」


 アンナは再びグレイの顔を見つめ、また涙を滲ませる。


(グレイが土に還ってしまうなんて……もう二度と、触れることができなくなるなんて……絶対に、いや!!)


 グレイがこの世から完全に消えてしまう恐怖。

 死という絶対的な喪失を目の前にして、アンナの体は再び震え出す。


「グレイをこのまま置いておくのはかわいそうよ。……ちゃんと、幸せの神様の元に送ってあげましょう」


 アリシアの言葉に、アンナの心が音を立てて切れる。


「幸せの神様なんて、嘘っぱちだわ!!」


 飛び散る涙。アンナはアリシアを睨みつけるようにして、叫ぶ。


「幸せの神様がいるなら、どうしてグレイはこんな目に遭うの!? グレイがなにをしたっていうの!!」

「アンナ……」

「神様なんていやしないわ!! そんなもの、ただの迷信よ!」


 溢れる涙は止まらない。

 母親を傷つける言葉も、構わず出てきてしまう。


「本当に神様がいるなら、グレイを生き返らせてよっ!!!! グレイを……グレイを──」

「アンナっ!!!!」


 想いは、堰を切ったようにあふれ出した。

 突如降りかかった理不尽に、アンナは再び泣き崩れて。

 アリシアは、アンナを抱き止めた。

 わんわんと大声で泣き叫ぶアンナを、しっかりとこの世に繋ぎ止めるように。


「アンナ、神様はいるわ。グレイをちゃんと送り出してあげなきゃ、生まれ変わることもできないのよ。そんなの、かわいそうだと思わない……?」

「う……ひっく……う、生まれ……変わる、な、なんて……ひっく……あり得ない、わ……」

「あり得るわよ。きっとグレイはもう一度この世に生を受ける。また、あなたに会うために」

「わ、私に……ひっ、会う、ために……?」

「ええ、そうよ。グレイならやるわ。どんな手段を使ってでも。そうでしょう?」


 アリシアとアンナは、同時に棺の中を覗き込む。動くはずのないその表情が、なぜか少し微笑んでいるように見えて、二人は顔を見合わせた。


「……ぐすっ。本当だわ……なんとかするって、そう言ってる……」

「でしょう? 信じて、送り出してあげましょう」


 送り出す。

 それを考えると、やっぱり胸が張り裂けそうで。

 でも本当はわかっている。いつまでもずっと一緒にはいられないことを。

 アンナは無言で立ち上がると、王宮から持ち帰ってきたものを取り出した。


 それは、一枚の写真。

 グレイと撮った、最初で、最後の。


「なぁに……写真?」


 アリシアが覗き込むと、そこにはぎこちなく笑う二人の姿。

 アンナはゆっくりと、鋏を手に取った。


「……なにしてるの?」


 アリシアの問いに、アンナは答えない。

 ただ、写真の真ん中に鋏を入れる。二人の間を、あの世とこの世に分けるように。


 一枚の写真が、二枚になる。

 グレイの笑顔の写真と、アンナの笑顔の写真。


「グレイ……生まれ変わった時、迷わないようにその写真を持っていって……私はあなたの写真を持って、ずっと帰りを待ってるから……」


 アンナはグレイの手に、自分の写真を握らせた。

 生まれ変わりなんて信じていなかったはずなのに。

 この時ばかりは、信じたいと思えた。


 彼が、また戻ってくると。


 アンナの左手の薬指にある指輪が、そっときらめいた。


(待ってるわ、グレイ……お願い、帰ってきて……)


 涙が頬をすべり落ちる。

 アリシアは黙って娘に寄り添い、そっと、その頭を撫でた。


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朝から泣きましたけど、感動的なお話でした。 アリシアがいて本当に良かった。 写真を撮った意味がありましたね。 悲しいけれど、愛情深い親子の会話もあって、素敵なエピソードでした。
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