158.来月……結婚だったの……
部屋を出ていくシウリスに、声をかけることなどできなかった。
扉の傍に立っていたカールとルーシエは、無意識のうちに一歩後ろへ退いた。
「片付けておけ」
冷ややかな声が落とされ、ルーシエは静かに「は」とだけ答える。
シウリスが背を向け、自室へと去るのを見届けてから、ルーシエはカールと視線を交わした。
「少しの間、アンナ様をお願いできますか。私は将へ報告し、部屋を片す準備をしてまいります」
「ああ……わかった」
短く言葉を交わし、ルーシエは部屋を一瞥する。
泣き崩れたまま動かないアンナの姿に、奥歯を噛み締めながらルーシエはその場を去った。
アンナを託されたカールは、鉛にでも足を掴まれたような重さを感じながら、部屋へと足を踏み入れる。
(……なんだよ、これ……これが現実だってのか……?)
床に膝をつくアンナと、その腕に抱かれたままの男の姿。
グレイの死が、近づくごとに容赦なくカールの胸を突き刺す。
アンナの悲しみが、部屋中に広がっていく。
(なんて、声かけりゃいいんだよ……起きろよグレイ!! アンナが泣いてんじゃねぇか!!)
──アンナを泣かせんなよ!
──当然だ。
そのやり取りを交わしたのは、数十分前。
たった数十分の間に、グレイは物言わぬ躯になっている。
「どうして……?」
誰に向けられたものでもない、アンナの疑問。
けれどその声は、刃のようにカールの胸を貫いた。
黒く濡れた瞳が、縋るようにカールを見上げる。
「ねぇ、カール……これは、悪い、夢、よね……?」
「……アンナ……」
悪い夢であって欲しい。
そう願うのは、カールも同じだ。
しかし否定してやりたくとも、夢だと言ってやりたくとも、できなかった。
これは紛れもない現実。
夢では、ない。
「来月……結婚だったの……」
「……ああ」
「グレイ……子どもが、欲しいって……言ってたのに……」
「……」
呼びかけにも応えず、ただ静かに横たわるグレイ。
アンナが震える手で頬を撫で、再び彼の名を呼ぶ。
「ねぇ……お願い、目を開けて……グレイ、グレイ──……っ」
嗚咽が部屋を満たす。
カールはその場から動けなかった。
何も言えず、慰めの言葉すら偽善に思えて──抱きしめるのも卑怯な気がして。
ただただ、カールは唇を噛み締めた。
(シウリス様に、グレイを殺すだけの理由があったってのか? ……そんなの、あるわけねぇ! こいつは、そんな奴じゃねぇんだよ……!)
怒りと悲しみ。
どうしようもない無力感に、カールの唇からは血が流れていた。
***
ルティーは医務室のベッドで、ゆっくりと瞼を開いた。
視界に入ったのは、険しい表情で目を伏せるトラヴァスの横顔。
「……トラヴァス、様……?」
「……目が覚めたか、ルティー」
その表情に、言葉にするまでもなく悟った。
さきほど見た光景──グレイの死と、アンナの絶叫──それらは夢ではなかったのだ。
「……現実、ですか……?」
震わせながら、ルティーは身を起こす。
認めたくはなかった。
宴で誰よりも幸せそうに踊っていたアンナが、あんなふうに泣き崩れるなど。
「……つらいものを見せてしまった。私の責任だ。すまない」
「……現実、なのですね」
「ああ」
体の奥を、ぞわりと冷たいものが這い上がる。
剣を振り下ろす国王の姿が焼きついて、ルティーの体は無意識に震えていた。
「アンナ様は……」
「今は、友人がついている。心配はいらない」
本当はすぐにでもアンナの元へ駆けつけたいトラヴァスだったが、ぐっと堪えた。
水の魔法士である彼女に、軍入りを拒む理由を与えてしまったことが痛い。
やるべきことは山積しているが、ルティーを放置するわけにもいかなかった。
このままルティーが逃げ出しでもすれば、責任問題だ。
しかしトラヴァスの心配とは裏腹に、ルティーは一つの決意を胸に光らせる。
「……私にも、お役に立てることはありますか?」
その言葉に、トラヴァスは目を見開く。
「……なに?」
想像もしなかった問いかけだった。
たった今、恐怖に震えていた少女が、まっすぐにトラヴァスを見つめている。
「トラヴァス様。アリシア様に、お話したいことがあります。いつお戻りでしょうか」
どこか別人のような気丈さ。
だがよく見れば、その小さな手は、わずかに震えていた。
「……アリシア筆頭は、日をまたいでの帰還になるだろう。明日には戻ると思うが、話せるかどうかは約束できん」
「それでも構いません。……明日から、毎日来ていいでしょうか」
「……ああ。王宮への出入りは、手配しておこう」
「ありがとうございます、トラヴァス様」
奇跡的に水の書を習得したルティーであったが、当然入軍などするつもりはなかった。
周りは屈強な騎士たちばかり。そんな中にたった一人、子犬のようなルティーが放り込まれたのだから。
軍で働くなど不可能だと思っていたルティーは、ルーシエの画策により、アリシアへの苦手意識は消された。むしろ女優のようだと憧れるまでになった。
そしてその娘である、アンナに対しても。
それでもルティーは、軍入りを決意するには至っていなかった。
しかしその心境は……グレイが殺されたことで、着実に変化していた。
「ルティー、悪いが今日のところは帰ってもらえるか。私もしばらくは忙しくなる」
「わかりました」
「一人で帰れるか?」
「はい、大丈夫です」
トラヴァスに王宮の門まで見送られ、ルティーは街を歩き出す。
国王の冷酷さに当てられて、気絶したルティー。
しかし、だからこそ、決意は固まっていた。
アリシアを、シウリスから守らなければいけない、と。
なぜグレイが殺されたのか、ルティーにはわからない。
だがアリシアが、あれを看過するはずがない。
たとえ今回の件で対立せずとも、アリシアはシウリスと常に接する立場にある。
あの人を、死なせてはならない。
気高く、美しく、強いのに、心は乙女な彼女を──。
あんな狂気に、殺させてはならないと。
(私の力が役に立つのなら……私は、アリシア様のお傍で、必ずお守りします!)
その決意が、傲慢であるという自覚はなかった。
皮肉にも、この悲劇がルティーを軍に立たせたのである。




