149.こんな機会、もう一生ないもの!
グレイが飲み物の載った銀のトレイに手を伸ばした、そのときだった。
静かに流れていた弦の調べが、ふと音を変える。
澄んだバイオリンの高音が、夜空に響く星のように一筋、空気を震わせた。
次の瞬間、会場の入り口に視線が集まる。
誰かがささやいた。「シウリス様だ──」
ざわつきは瞬く間にわっと湧き上がる。だが、騒がしさにはならない。
まるで舞台に幕が上がるときのような、緊張と期待に満ちた沈黙が広がった。
そこに現れたのは、この夜の主役。第一王子、シウリス。
彼の姿に、誰からともなく拍手が起こる。
それは次第に大きくなり、やがてホール全体を包み込む歓声となった。
シウリスは、まるで自らの玉座へ帰るかのように悠然と歩く。
その足取りに焦りも迷いもない。ただ、王としての重みだけが彼の背に刻まれていた。
やがて、用意された演壇へと立ち、視線を一巡させる。
会場の隅々にまで、王の目が届いたことを誰もが肌で感じ取った。
シウリスはわずかに顎を上げ、言葉を放つ。
「この宴に集ったすべての者に、礼を言おう。──よく来た」
声は低く抑えられているのに、空間を満たすような響きがあった。
それは歓待ではなく、命令に近い重みを孕んでいた。
「今年、俺は正式に成人を迎えた。そして、すでにこの国の王として立っている。過去は振り返る必要はない。今、ここに王がいる。それがすべてだ」
場が凍る。だが彼は微動だにせず、むしろそれを歓迎するかのように目を細めた。
「ストレイア王国は、俺の手にある。これからの国の形も、運命も、すべてがこの手に握られている。それを理解した上で、今日この場に立っているならば──その忠誠、喜んで受け取ろう」
会場を包む空気が、わずかに揺れた。
言葉の意味を即座に理解した者もいれば、その真意を読み取ろうとする者もいた。
誰も声を発さない。ただ、王の姿を見つめ、静かに心の内を探る。
得体の知れぬものが、じわじわと胸の奥に染みこんでいく。
「俺は、かつての王たちと違う。躊躇わぬ。迷わぬ。命じたものは動き、従わぬ者に容赦はせぬ。……それが、これからのストレイアだ」
その言葉に、誰一人声を上げられない。
だが彼の口調は終始穏やかで、冷たくもあった。怒りも激情もない。あくまで、当然のことを述べているにすぎないのだ。
「心せよ。民が笑い、子が育ち、国が続く未来。それを、俺は創る」
低く、ゆっくりと語られた言葉は、熱を帯びずとも真に迫るものがあった。
王の瞳には、確かな意志の光が宿っていた。
「お前たちはその一部だ。共に歩む意志があれば、俺は歓迎しよう。しかし、邪魔をする者は──」
言葉を続けることなく、彼は静かに次の言葉へと移った。
「この宴は、その始まりにすぎん。お前たちは見届けることになる。……俺が築く、新たな時代を」
その言葉に、会場の空気が再び大きく変わる。
出席者たちの間に、賛同の意志を感じ取る者もいれば、警戒心を強める者もいた。
だが、どこか確信を持ったように、皆がシウリスの言葉に耳を傾けていた。
しばしの沈黙が続くと、シウリスはゆっくりと腰を上げ、片手で軽く手を広げた。
「さて、この場は宴だ。堅苦しい話はこれで終わりだ。今宵は存分に楽しんでくれ。俺の国で、今ここに集まった者たちのために」
その言葉に、会場の空気が一変する。
硬さが取れ、ほっと息をついた者たちが、微笑み合いながらグラスを交わし始めた。
シウリスの視線は静かに周囲を見渡し、満足すると、言葉もなく壇を降りる。
そして堂々と玉座へ向かい、ゆっくりと腰を下ろした。
人々がグラスを交わし始めた頃、舞台上の楽団にわずかな動きがあった。
演奏は一度、静かに幕を引く。ざわついていた会場も、それに気づいて自然と口を閉ざした。
代わりに、短く厳かなファンファーレが響く。それは、舞踏の始まりを告げる合図だった。
グレイはアンナを見下ろす。
「……踊るか?」
「当然よ。練習の成果、発揮してね」
二人は人々の視線を受けながらも気負うことなく、中央へと歩み出る。
そして舞踏の曲が、静かに流れ始めた。優雅で甘やかな旋律に、アンナとグレイはリズムをとり、踊り始める。
「他の人も踊ってるから、ぶつからないように確認しながら踊るのよ」
「了解。視野は広い方だ、心配はいらないぞ」
「ふふ、頼りにしてる」
アンナは軽やかにステップを踏み、二人の身体が音に乗って滑るように動き出す。
ステップは徐々に軽やかさを増し、アンナのスカートの裾が弧を描いて翻る。
グレイは彼女の動きにぴたりと寄り添いながら、完璧なリードで場を彩っていく。
会場の端で、それを見ていたトラヴァスは目を細める。
そして、ルティーもまた、アンナやアリシアの姿に目をキラキラと輝かせていた。
運動神経の飛び抜けたアンナとグレイ、そしてアリシアとジャンの組は、トラヴァスとルティーだけではなく、会場の多くの人々の目を奪っていく。
仲睦まじく、息の合った舞。誰が見ても、それは幸せなカップルだった。
「素敵……」
ルティーは、異国情緒あふれるアンナのしっとりとした優雅な舞に、うっとりと溜め息を漏らす。
目の覚めるような金髪のアリシアは、最初は元気溌剌と踊っていたが、ジャンの語りかけによって恥じらいを見せるような舞に変化している。
乙女のような顔を見せたアリシアに、ルティーの胸はきゅんきゅんと高鳴った。
(こんな素敵な舞踏会に呼んでいただけるなんて……夢みたい……!!)
感動し過ぎて倒れそうになるのを、ぐっと堪える。
先ほど、ルティーはアリシアにこう言われていた。『途中で帰りたくなったらルーシエか、いなければあそこにいるトラヴァスに言えばいいわ』と。
しかし──
(絶対に最後まで観るわ……! こんな機会、もう一生ないもの!)
小さなプリンセスは、女優のように美しく優雅に踊る二人の虜になる。
感嘆の息を何度も漏らしながら、夢中で舞踏の光景を見つめ続けるのだった。




