145.なにがあっても、俺はアンナのそばにいるからな
家に帰ってきたアンナとグレイは、早速テールコートとマーメイドドレスに着替えて踊ってみた。
シンプルなドレスだったので裾を捌く必要もほぼなく、グレイも気にせずに踊れている。
「大丈夫そうね。グレイもテールコート、大丈夫?」
「ああ、騎士服よりは動きにくいが、問題ないぞ。汚したくないから、脱いでおくか」
「そうね、練習は普段着でしましょう」
「え、まだするのか?」
「当たり前よ。せっかく昼から休みなのに、練習せずにどうするの?」
なんとなくそんな気はしていたが、とグレイは半笑いをした。
普段着に着替え終えると、再びダンスの練習が始まる。
「本当は、ワルツとスローフォックストロットだけのつもりだったけど、グレイは筋がいいから、クイックも覚えちゃいましょう。王宮の舞踏会ではこの三つがメインだから、覚えたらずっと踊り続けられるわよ」
「いや……別に休憩があってもいいんだが」
「さ、足運びから教えるわよ!」
グレイの話を華麗にスルーするアンナだ。
しかし嬉しそうに説明するアンナを見れば、当然グレイもやる気が出てくる。
「クイックステップは、ワルツやスローフォックストロットとは違って、速いテンポで軽快に動くわ。基本的なステップは似てるけど、リズムが全然違うの」
グレイは頷きながら、しっかりとアンナの動きを見つめる。アンナは軽く右足を前に出し、すぐに左足を後ろに引きながら、連続したスムーズな動きで、さっと一歩を踏み出した。
「ね、全然ちがうでしょ? ワルツは、ゆっくりとしたテンポで、足の運びに広がりが必要になるけど、クイックステップはそのスピードと軽快さが重要なの。すばやく足を出して、すぐに次のステップに移るという感じよ」
グレイも足を動かしてみるが、まだ慣れないようで少しぎこちない。
「うーん、まだちょっと急いでるわね。クイックは急ぐのじゃなくて、軽やかに、でもリズムをキープして動くのよ。だから、足の運びが速くても、体は軽やかに保って」
アンナは軽く微笑み、もう一度、同じ動きを繰り返す。今度はグレイもそれに続き、少しずつスムーズにステップを踏んだ。
クイックステップはスローフォックストロットやワルツと異なり、速く軽やかな動きが求められる。スローフォックストロットは穏やかで滑らか、ワルツは優雅な流れを持ち、クイックステップはその反対でエネルギッシュなリズム感が大切だ。
グレイは少し躊躇いながらも、アンナの説明通りに足を動かし、次第にその違いを感じ取れるようになった。
「なるほど。全然違うな……ワルツの優雅さ、スローフォックストロットの滑らかさ、そしてクイックステップのスピード感、それぞれに特長があって面白い」
「ふふ、そうでしょ? だからこそ、王宮の舞踏会で踊るときには、どのダンスを使うかが大切なの。どれも一緒に見えたとしても、それぞれに求められる技術や感覚が違うから、練習しないとすぐにバレちゃうわよ」
「これ……明日までにマスターしろってことか?」
「そういうことね!」
アンナは自分が相当な無茶を言っていることに気づいていない。
当然、グレイはやってのけると信じているのだ。
グレイは「はは……」と乾いた笑いを漏らし、覚悟を決めた。
(アンナの期待に応える男でありたいしな)
乗馬の時しかり、こういう時のアンナは容赦がないことを知っている。
ならば、完璧に踊るまでだと、軽快なクイックステップに挑戦し続けた。
練習しているうちに、体がリズムに乗って動き始める。アンナもその姿を見て、微笑みながら容赦なくペースを上げていった。
夕方になるとイークスを迎えに行き、食事をとった後も練習は続き。
アンナの「合格よ!」の言葉が出た時には、夜の十時を回っていた。
寝る支度をしたグレイは、ようやく二階の自分のベッドの上へと突っ伏すように倒れ込む。
ディックがにゃぁんと鳴きながら窓から入ってきて、倒れているグレイを心配するようにぺろぺろと舐めた。
「あー、生きてるぞ、ディック。ちょっとここ数日、光の剣を携えた悪魔がいてな……」
ごろりと転がって上向けになると、胸の上に乗ったディックをそっと撫でる。
「けど……アンナとこうしていられることが、幸せなんだ」
優しく強いアンナも。スパルタなアンナも。悲しみを背負ったアンナも。揺れ動く、弱いアンナも。
喜ぶ顔も。はにかむ顔も。もうっと怒る顔も。呆れた顔も。拗ねるような顔も。
すべて。すべてが、愛おしく感じる相手だ。
「アンナ……」
想いは、どんどん溢れ出す。
間違いなく、この世で最高の、そしてたった一人の人だと。
グレイは心をいっぱいにさせる。
「グレイ、起きてる?」
風呂上がりのアンナがそっと扉を開け、ディックは素早く窓から出ていった。
「起きてるぞ」
グレイはベッドから体を起こして立ち上がると、アンナを迎える。
「いよいよ、明日ね」
「そうだな。これだけ練習したんだ、大丈夫だろ」
「あなたは筋がいいし、本番にも強いから心配してないわ」
そう言いながら二人はベッドに腰をかけると、どちらからともなくそっと唇を交わした。
「……いいドレスが見つかって、よかったな」
「ええ……あなたも、素敵だった。本当に」
グレイはアンナの肩を抱き寄せ、自身の頬でそっとアンナの黒髪に触れる。
「来月には結婚だからな。今日のところでウエディングドレスを選ぶか」
「ええ、宴が終わったら、またいきましょう。あなたも決めなきゃね。モーニングコートとタキシード、どっちがいい? 色も黒じゃなくていいんだし、種類も色々あると思うわ」
「主役はアンナだからな。俺は正直、なんでもいい」
「もう、またそんなこといって」
呆れながらも笑って、アンナはそっとグレイを見上げる。
「きっとなんでも似合うわ。礼装軍服でもいいわね。グレイらしくて」
「俺はアンナのウエディングドレス姿が楽しみだな。早く見たい」
「ふふ、もう少しよ。まずは決めなきゃね」
結婚式まであと一ヶ月。
本当に、もう少しだ。
「私ね、グレイ……」
「ん?」
「嬉しくて、幸せで……夢みたい」
そう言いながら、アンナの顔は夢見心地ではなかった。
グレイは違和感を読み取って、じっとアンナを見つめる。
「……どうした? 俺に至らないところがあるなら、直すぞ」
「違うの! あなたは本当に素敵で……最高の夫になるってわかってる。でも、怖いの」
アンナがなにに恐れているのか、すぐにはわからなかった。
そしてアンナ自身、恐れを明確に言葉で言い表すのは難しく、ただ胸の苦しさだけが襲いかかる。
「幸せすぎて……この夢が、いつか覚めそうで……」
アンナは目を伏せ、ぽつりとつぶやいた。
窓の外では、風に揺れた枯れ葉がかさりとかすかな音を立てている。
カーテンがふわりと揺れて、秋の冷たい空気が、ほのかに部屋へ忍び込んできた。
隣にいるグレイのぬくもりが、現実のようで、夢のようで。
グレイはただ黙って、アンナの手を包み込んだ。
(なんとなく……わかるな)
そんなアンナの気持ちは、グレイにも思い当たった。
幸せだからこそ、感じる不安がある。
グレイの家族がまだ生きていた頃。溢れる気持ちを伝えた瞬間、儚くなってしまったように。
アンナもまた、切り離される過去を経験してしまっている。
「俺たちは、幸せ慣れしてないからな」
「そう、ね……でもあなたとこうしていられて……結婚もできることになって、本当に幸せなの……」
そう言いながら、アンナの手は震えた。
生まれた時には父親は消えていて。
母親は仕事でいつも忙しく、一緒にいられる時間などほとんどなかった。
一緒に過ごせると思っていたシウリスには、ある日唐突に切り離されて。
「私……ずっと、一人だったのよ……」
溢れ出た言葉を、グレイはただ傾聴する。
アンナは否定しない恋人に、その言葉の意味をちゃんと伝えようと試みる。
「私がこう言うことで、悲しむ人がいるってわかってるわ。でも……一人だったの。ずっと、苦しくて……グレイなら、わかるかしら……」
同じだ、とグレイは胸に楔を打たれたような痛みを受けた。
グレイもまた、一人だったのだ。
誰かを失ってしまうことが怖くて。与えられる愛を、グレイは寄せ付けなかった。
受け入れて失うことが、怖かったから。
そんな中で大切な仲間や、愛する婚約者ができたのは本当に奇跡のような幸せで。
それ故の怖さは、グレイにも理解できる。
グレイとアンナでは立場が違うが、感じた孤独は同じ種類のものであると。
「アンナ……」
グレイがアンナを抱き寄せた瞬間。
黒い瞳から、ころりと涙がこぼれ落ちていく。
それは初めて見る、アンナの涙だった。
「幸せなの、あなたに出会えて……っ」
一度涙が溢れると、堰を切ったようにアンナの頬は次々と濡れていく。
最後に流した涙など、アンナは覚えていなかった。それほど遠い昔の話だ。
ずっと、ずっと、ずっと我慢していたものが、初めてさらけ出される。
「あなたに出会えなければ、私は一生孤独だった……お願い、グレイ。私を一人にしないで。一人は怖いの……もう、一人になるのはいや……っ」
「大丈夫だ、アンナ。そばにいる。ずっとだ」
「グレイ……ッ」
大泣きするアンナを優しく包むように、グレイは抱きしめた。
「約束する。生きてる限り、アンナのそばにいる。命を懸けて、必ず守る」
アンナが黒い瞳を潤ませて、腕の中からグレイを見上げる。
誰よりも大事な人の流す涙は、グレイの心の鍵を開け──
「アンナ……愛してる」
今まで耳にしたことのない言葉に、アンナは目を見開く。
そして、その言葉と彼が口にした意味を噛み締めて。アンナはぎゅうっとグレイを抱きしめた。
「グレイ……私も、愛してる。愛してるの……っ。お願い、そばにいて……離れないで……! 怖い……っ」
「大丈夫だ。ずっとそばにいる。俺はここにいる……!」
互いの扉は開かれる。
揺るぎない愛はそこにあった。
それは確信であるというのに──なぜだか不安だけが、付き纏う。
どれだけ強く抱きしめても、虚空が二人の心を侵略するようで。
アンナとグレイは付け入らせまいと、さらに強く抱きしめ合った。
その夜、アンナは二十年分の涙を流し続け──
「アンナ……なにがあっても、俺はアンナのそばにいるからな」
泣き止んだアンナの耳に聞こえたのは、そんなグレイの柔らかい声。
アンナはほっと息を吐くと、そのまま、腕の温もりの中で、眠った。




