129.私と二人の時は、私を見てほしいわ
グレイはトラヴァスと別れて家に帰ってきたが、鍵は締まったままだった。
アンナはまだ帰っていないということだ。
(一般区に行くみたいだったしな、俺の方が早かったか。イークスを迎えに行けたな)
そう思いながらも、一度アンナに頼んだ手前、グレイはイークスを迎えには戻らなかった。
イークスをアンナに迎えに行かせれば、さらに気分が変わるだろうと考えて。
最近はディックの相手をあまりできていなかったこともあり、こんなときくらいはと鍵を回した。
「ただいま」
扉を開けると同時に、ディックがやってきて肩へと飛び乗る。
にゃあんと顔をすり寄せるディックの喉を、グレイは優しく撫でた。
「こうやって出迎えてくれるのも久しぶりだな。最近はずっとイークスが一緒にいるしな」
イークスを完全な外飼いをするのはまだまだ先の話だ。グレイがいる時にはいつもイークスが一緒なので、ディックはほとんどやってこない。
一階にはキャットウォークを作っているが、グレイがいる時にしかディックは使っていない。それも様子を見ているだけで、決して降りては来なかった。なので、ディックがこうして一階にやってくるのは久々だ。
肩にいるディックに手を差し出すと、ディックはペロリとその指を舐める。グレイはふっと笑みを漏らしながらソファーへと座り、この数日のことを思い返した。
ティナがシウリスに斬られ、トラヴァスが即座に助ける判断したこと。
すぐさま動けるのはさすがだと、グレイは改めてトラヴァスの機転を尊敬する。
そのトラヴァスは、過去にヒルデと関係があり、トラウマとして今も抱えたままだ。トラヴァスがあそこまで顔色を変えるのは、相当のものだとグレイは息を吐く。
今日はそれだけではなく、過去のあれこれもアリシアやトラヴァスからかなり聞けた。
一番肝心な、アンナになにがあったのかだけは、聞けずじまいだったが。本人に聞けと言われてても、難しいものがある。
グレイは少し息を吐いて、気分を変えるためにコーヒー豆を挽き始めた。
(アンナ、遅いな。まぁあの二人に限って、なにかあるわけもないが……アルコールの高い酒を飲ませてないだろうな)
心配になってソワソワし始めたところで、ディックがピクッと耳を立てた。そしてグレイの肩から飛び降りると、逃げるように二階に駆け上がっていく。
アンナがイークスと一緒に帰ってきたのだと予想をつけたグレイは、サイフォンに火をかけてから玄関の扉を開けた。
「うお、びびった!」
いきなり扉が開いたカールは、一歩下がった。
隣にいたアンナはイークスのリードを持ったまま、驚いたカールを見てくすくすと笑う。
二人並んでいる姿を見て、グレイはいつもの無愛想をカールに向けた。
「そんなに驚いて、俺の目を盗んでアンナにキスでもする気だったか?」
「バカ言うな、するわけねぇだろ」
まっすぐな赤眼がグレイを突き刺して、何事もなかったと確信するグレイである。
「悪い、冗談だ。送ってくれて悪かったな」
「送らなかったら、お前ぜってぇ文句言うじゃねぇか」
「まぁな。入っていくか? コーヒーくらいなら出せるぞ」
しかしグレイの問いに、カールは大真面目な顔で首を振る。
「いや、いらねぇよ。あとはお前の仕事だろ」
そう言ってカールはグレイの胸を拳で軽く叩き、「じゃあな、アンナ」と軽く言ってすぐに帰っていった。
(あいつには敵わないな)
そんな風に思いながら、グレイはアンナを見る。
「お帰り、アンナ」
「ただいま、グレイ。あなたの方が早かったのね」
「貴族地区だったしな」
そう言いながらグレイはしゃがむと、イークスの足を拭き、リードを外して家に入れた。
「トラヴァスと会ってたのよね。今日のことを話したの?」
「いや……まぁ色々だ。アンナはどうだった?」
「楽しかったわ。カールって、本当に人の気持ちを上げるのが上手なのよね」
「あいつの特技だよな」
ぴょこぴょこと飛び上がりながら尻尾を振るイークスを足元に引き連れて、グレイはコーヒーのカップを出す。
「多めに淹れたんだが、飲むか?」
「ええ、じゃあ酔い覚ましに少しだけもらおうかしら」
顔を見てわかっていたが、やっぱり呑んだのかと、グレイはカップを置いてアンナの頬に触れる。
ほんのり赤みを帯びた頬は、グレイの手よりも温かい。
「顔が赤いが、なにを何杯飲んだ?」
「ビールを二杯だけよ。三杯目は飲んでないから、安心して」
「……まぁ、楽しかったんならよかった」
そう言いながら、グレイはアンナに口付ける。アンナは自分のものだということを知らしめるように。
しかし足元ではイークスが『構ってくれー』とぴょんぴょこしていて、結局グレイはなにほどもできずに離れた。
お酒を呑んで色気が増したアンナがふふっと笑うのを見て、俺の嫁は世界一かわいいと思いながら、グレイは足元のイークスを軽く撫でてやる。
(聞けないよな、こんな時に)
アリシアの許可はあっても、アンナに直接聞かなければ情報は手に入らない。
今アンナは、ようやく気分を持ち直している状態だ。
ここで十歳当時の話を持ち出し、なにがあったのか、切り離された相手が誰かなどと聞き出しては、またアンナを落ち込ませてしまうのは目に見えている。
「なぁに、グレイ」
へにょっと笑うアンナを見てはもう、グレイは切り出せる気がしなかった。
「いや、なんでもない」
湯気が立ち上った香り高いコーヒーを、グレイは二つのカップへと注いだ。
(またいつか、聞く機会もあるだろ。今日はなしだ)
グレイはコーヒーをアンナへと渡し。
二人と一匹は、ゆったりとした時間を過ごす。
「グレイ、今日は疲れたでしょう? 帰ってきてすぐ、色々手伝ってくれたものね……」
「まぁこれくらい大丈夫だ。アンナがいるだけで、いくらでも元気が出てくるぞ」
「もう、そんなこと言って」
──グレイはせっかちだなぁ、もうっ。
グレイはハッとする。
なぜかまた、ティナの声がアンナと被り、グレイは首を傾げてアンナの瞳を覗く。
「どうしたの? 私の顔に、なにかついている?」
「いや……そういうわけじゃないんだが……」
アンナの顔を見ていると、ティナの顔が浮かんだ。
彼女はどうなっただろうかと、今度は眉を寄せる。
(回復薬を流し込んだとトラヴァスは言っていたが。ティナはどうなったのか……生きていればいいんだが)
敵国の兵でも、グレイは人としてティナのことが嫌いではなかった。むしろ、好ましくすら感じていた。もちろん、恋愛感情などは一切ないが。
そんな風に考えていると、アンナの顔は悲しく歪み始める。
「私と二人の時は、私を見てほしいわ……」
「見てるだろ」
「違うことを考えてるように見えたのよ」
しゅんと肩を落とすアンナに、これが女の勘かと思いながら、グレイはコーヒーを置く。
「悪い。確かにちょっと、考え事をしてたな」
「もう……」
上目遣いで口を尖らせるアンナ。
反則だろ……と思いながら、グレイはこつんと額をアンナの額に当てた。
ぐんと距離が近くなり、お互いの瞳しか見えない。
「まだ酔ってるか?」
「そうね……少しだけれど」
今度は鼻と鼻が優しく触れ合い、アンナはそっと目を閉じる。
グレイはたまらずに唇を奪い、息荒くアンナを抱きしめた。
お前の仕事だろ、と言っていたカールの言葉を思い出し、もう一度アンナと唇を重ね合わせる。
会わなかったのは結局少しの間だというのに、我慢が効かない。
「ん、グレイ……」
「あー……やばいな。今日、いいか?」
「私は大丈夫だけれど……昨日は野宿でちゃんと寝てないんでしょう? 疲れてるなら、無理しないほうがいいわ」
「無理じゃないぞ。言っただろ、アンナがいるだけでいくらでも元気が出てくるってな」
「もう」
アンナは聞き分けのない子どもを見るような目で、息を吐きながら眉を下げる。
しかし同時に嬉しさも感じて、ふっと目を細めたアンナは。
その夜、グレイの熱を受け入れた。




