16 お月様は灰色の夜を進む
溶けた氷からは、何度か真っ白な女の人たちが生まれました。けれども、アンリの劫火で蒸発すればお終いです。石の扉を砕こうと言う勢いなのです。アンリの炎も、今までより激しく燃え盛っておりました。
コオリオオカミは耐えきれずに逃げ出しました。魔物は、氷の柱のような物に閉じこもっておりました。
「またか。役立たずの狼め」
魔物は一切気に留めないような言い方で、コオリオオカミが逃げるままにしました。
「手間をかけさせるやつらばかりだ」
小さな魔物は組んでいた腕をほどきました。砕けた石の欠片がパラパラと降って参ります。吹雪と炎に石が巻き込まれました。
「あっちへいってよ!」
ブリジッドは、ここぞとばかりに巻き込んだ石を魔物に向けました。魔物の隠れている氷の柱から、薄紫色の氷が削れました。まるで花びらのように舞うその欠片は、どこか不吉な知らせを運ぶ物のようにも見えました。
「ブリジッド、頭!」
「あっ、崩れるぅー!」
石の引き上げ扉が、とうとう割れてしまいました。アンリとブリジッドは思わず頭を腕でかばいました。氷と炎でそれぞれに全身を覆い、落ちてくる割れた石から自分たちを守ります。
お月様のお船は、ますます銀色に輝いて走りました。崩れる石の扉を繋ぐように、魔物が凍らせました。同時に扉の外にも、魔法で造られた氷の壁が立ちはだかるのでした。
魔物が作り出す巨大な氷の塊は、ブリジッドの吹雪で吹き飛ばしました。目の前に現れる氷の壁は、アンリが溶かして穴を空けました。
城の扉を潜り抜けると、しんしんと雪の降る夜が待ち構えておりました。魔物は分厚い氷の板に隠れながら追って来ます。まるで諦める様子はないのでした。
「このまま山を下りれば、ほら穴のある森になるはず」
ブリジッドは、連れてこられた時のことを思い出しながら言いました。
「お月様、みんなのいるほら穴まで連れていってください」
アンリは丁寧に頼みました。
「お願いします」
ブリジッドも真似をいたしました。
夜空を見上げると、灰色の空が戻っておりました。魔物の城から見えた星空は、いつのまにかすっかり消えてしまいました。そして、お月様はここに降りてしまわれたのですから、
今はお空におられません。
「それでお空が暗いのかな?」
アンリは、少し悪いことをしたなぁと思いました。お空が寂しく灰色に染まったのは、アンリたちのせいかもしれないのです。
お月様のお船に乗せていただかなければ、お空は明るく冬の森や山の上に広がっていたことでしょう。吹雪が晴れて少し雪の残る空には、お月様とお星様がキラキラと明るく宿っていたのですから。
お月様のお船は、すいすいと山の斜面を下ってゆきました。大きな枝やくっつきあっている木の幹も、ぶつからずに過ぎて参ります。お船はなぜか、お空に昇ることがありませんでした。
(梢を超えて行ったら、もっと早くないかなあ)
ブリジッドは、夢の中でお月様のお船から見た風景を思い出しておりました。
(景色もずっと楽しいのに)
ブリジッドが見た風景は夢なのですが、本当にあることのように思われました。
「アンリ、お空を通って行かない?」
ブリジッドは、揺れなくなったお船の中で座り直しながら提案しました。
「お空を?出来るかな」
「頼んでみましょうよ」
「そうだねぇ」
相談するふたりの横に、しつこく氷の塊がついて来ておりました。中にはやっぱり、紫色の髪をした小さな魔物がおりました。血のように赤い眼を向けて、野太い声で語りかけて参ります。
「行かせはせぬ」
ブリジッドは黙って睨みつけました。アンリは怒って炎をぶつけます。
「お月様、お空を通ってほら穴まで連れて行ってください」
アンリがお願いしました。
「お月様、お空に昇ってちょうだいな」
ブリジッドは期待に眼を輝かせて言いました。
お月様のお船は、眩い銀色の光を放ち、舳先を天へと向けました。中のふたりは、また滑り落ちそうになってしまいました。
炎と吹雪に包まれて、お船はお空へ昇ってゆきました。ぐんぐん、どんどん、昇ってゆきました。ついには小さな魔物を置き去りにして、森の上へと飛び出しました。
森が小さく見えました。ブリジッドもアンリも、魔法を止めて暗い森を見下ろしました。
「寒いな」
アンリのローブに火の粉がパチパチと踊りました。焦げるほどではありません。アンリが凍えない程度の熱を放っておりました。
「そお?」
ブリジッドはへっちゃらです。氷と吹雪の魔法使いなのですから。
「涼しくて気持ちがいいよ」
「ブリジッドには丁度いいかもしれないね」
「うん。丁度いい」
お船はお空へやってきました。けれども、ブリジッドが夢で見た情景は見えて参りません。
「へんね。灰色でつまらないなあ」
「暗くてよく見えないね」
ふたりは不安になりました。
「ちゃんとほら穴に向かってるのかな」
心配そうに肩を寄せ合って、ふたりは黒々とした森に眼を凝らしました。
「あ、ねぇ、あれ、川じゃない?」
「うん、川だと思う」
しばらく飛んだ後で、森に筋のようなものが見えたのでした。
「凍ってた小川かなあ」
「どうだろう」
ふたりは、高い峠を越えたことがございます。山の頂から見渡すと、小さな川や泉は木々に隠れてしまうのです。ブリジッドが吹雪に連れて行かれた小川なら、夜でもわかるほどくっきりした筋にはならないでしょう。
「僕が見た川かもしれない」
アンリが川を見たのは夢の中です。けれども、アンリは夢の中を通って魔物のお城に着きました。夢とうつつと、そのどちらも混ざった魔法の場所と、そのどれをもお月様のお船は、通れるに違いありません。
川の上をしばらく進みますと、お月様のお船はカクンと向きを変えました。いよいよほら穴が近いのでしょうか。緩やかな下り坂を滑るように、お船は森へと向かいました。
「きれいな景色がなかったね」
ブリジッドは魔物のことなんかすっかり忘れて、プッと頬を膨らませました。下から吹いて来た風が、ブリジッドの銀の髪をくるくると巻き上げていたずらをしました。風は、ほんのりと暖かいようでした。
「この風、魔法じゃない?」
アンリの真っ赤なフードが、縁をパタパタ言わせております。フードが脱げるほど強い風ではありません。柔らかな金髪は、ふわふわとフードの内側で漂っておりました。
その時、風の中から聞き覚えのある声がいたしました。
「ブリジッドー!」
「ブリジッド!どこなの!」
アンリとブリジッドは、ハッと顔を見合わせました。
「みんなだ!」
「おおい!!」
ふたりは叫び始めました。
「アンリ、風向きが違うんじゃない?」
風はアンリたちの方へと吹いておりました。アンリたちにみんなの声は聞こえてきます。けれども、アンリたちがお返事を返しますと、全部頭の後ろへと流れて行ってしまいます。
「そうだね。風が来る方に流せばいいのかな?」
「そうだと思う!やってみましょうよ」
「よし、やってみよう」
ふたりは風の魔法使いではありません。けれども、吹雪や熱の嵐を起こすことはできました。そこで、声が乗って来た風を遡るように、ふたりは魔法を放ちました。
「おおい」
「おーい」
声は上手く乗りません。風に散らされてしまいました。
「難しいなぁ」
「上手くできないね」
アンリは魔法が得意でしたが、炎の魔法には風で声を伝える方法はないのです。なかなかコツが掴めません。
そうこうするうちに、お船は再び夜の森に降りて参りました。ブリジッドを呼ぶ声は、途切れず聞こえて参ります。
「あっ!」
「しつこいな」
コオリオオカミが現れました。先頭にはあの小さな魔物が赤い眼をして立っておりました。
「城へ連れてゆけ」
魔物はコオリオオカミに命令しました。もう何度目になるでしょうか。ブリジッドもアンリもうんざりでした。
「ブリジッド!」
「ブリジッドー!」
レマニたちの声が近づいて来ました。
「こっち!」
「ここだよー!」
ふたりも思い切り大きな声でみんなに呼びかけました。ブリジッドの吹雪とアンリの炎は、声がする方向へと飛んで行きました。
魔物が諦めずに腕を伸ばして参りました。
「お月様、速く、速く」
アンリは焦って船縁を叩きました。ブリジッドは急いで船底にぺったりと伏せました。魔物の腕が空を切り、ブウンと風音がいたしました。
お月様のお船がスピードを上げました。ブリジッドは落ちないように手足を船の中で突っ張りました。魔物が船の中に入ろうと致しましたが、強い吹雪と炎に押し戻されてしまいました。
船がようやく傾きを無くして、まっすぐに浮かびました。コオリオオカミは炎を恐れて、一定の距離を保っておりました。魔物は何度も炎に押し除けられながら、飽きることなく追いかけて参ります。
「ブリジッドか!」
「なんだ?炎が見えるぞ?」
ふたりの耳には、雪を踏み分けるザクザクという音が響いて参りました。レマニたちの声も、はっきりと耳に届きました。
「ブリジッド!ぶじかー!」
「待って、なんか変だよ」
大人たちの声に戸惑いが混ざりました。
「ブリジッド!魔物がいるのかぁっ!」
「今いくぞ!」
大人たちは、紫色の魔物が放つ魔法を感じ取ったのです。酷く落ち着かない、不安で重苦しい気持ちにさせる魔法の力でした。
雪の積もった枝々の間から、チラチラと燃える火が見えました。アンリのお父さんでしょうか。先頭に立って、灰色の夜を照らしておりました。
「あっ父ちゃん」
「近くにいるみたい」
「おおぉい」
「みんなー!こっちー!」
お月様のお船は、枝も幹もすり抜けてしまいます。魔物は枝をガサガサと鳴らして突き進みました。その度に雪がドサリドサリと落ちて参りました。あまりにも乱暴に飛び回るものですから、幹もぐらりと揺れました。
梢のほうからも、雪はバサバサと落ちて参ります。音に驚いた鳥たちが、小雪の舞う夜空に飛び立ちました。枝や木のうろで眠っていた小さな動物たちも、眼を覚まして逃げ出しました。もう吹雪は止んでおりましたから。
とうとう、大人のレマニたちが行手に現れました。あちらからもアンリとブリジッドが見えたようです。先頭を歩くアンリのお父さんは、眼を見開いて足を止めました。その顔は、みるみる青褪めてゆきました。
「アンリ?どうして?ほら穴で寝ているんじゃなかったのか?」
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続きます




