13 階段と魔物
凍った窓の向こうから、ブリジッドを呼ぶ声が大きく響いて参りました。声と共に炎が溢れて、魔物の作った氷が溶け出しました。
「アンリ!」
声の主はアンリでした。アンリは真っ赤なローブをはためかせ、お月様のお船に乗っておりました。風を切って進むアンリのフードは、後ろに脱げてしまっておりました。繊細な金髪も後ろに流れておでこが出ております。
金色の細い眉毛をキリリと吊り上げ、怖い顔になるくらい集中しておりました。
勢いよく階段へと流れ込んだ水は、小さな魔物が凍らせようといたしました。けれどもブリジッドの吹雪で、魔物ごと階段の下へと吹き飛ばしてしまいました。
紫色の髪をした魔物は、吹き飛ばされながらも表情を変えませんでした。いっそ怒りを露わにしたならば、まだ怖くはなかったのです。ブリジッドとアンリは、完全に無表情な魔物の顔に、背筋が寒くなりました。
「ブリジッド、大丈夫かっ?」
アンリは狭い階段に乗り込んで、ブリジッドに手を伸ばしました。
「大丈夫!」
ブリジッドはアンリの手を掴みました。アンリはブリジッドを、お月様のお船へと引っ張り上げました。グイッと掴んだのですが、ちっとも痛くはありません。
アンリは、しっかりブリジッドの掌と自分の掌を合わせました。2人の親指は固く組み合わされたのでした。引き上げるときにも、無理な動きはしませんでした。
「引っ張るよ!」
アンリはちゃんと声をかけてくれたのです。
(やっぱり、魔物とは違う)
ブリジッドは思いました。血色の眼をした小さな魔物は、ブリジッドの手を乱暴に引っ張りました。その時は、とても痛かったのです。腕や手首は、手加減のない強い力で掴まれました。
それに引っ張るだけではなくて、魔物は幼いブリジッドを無慈悲に放り投げたのです。逃げようとした時には、背中を踏みつけて抑えるなんてことまでしてきたのですよ。
ブリジッドは、今ならわかります。アンリの言葉は意地悪ではありませんでした。ブリジッドがアンリの気持ちをわからなかったように、アンリもブリジッドの気持ちがわからなかっただけなのです。
(なんだか悪いことしちゃったな)
ブリジッドは吹雪を起こしながら、隣のアンリをチラリと盗み見ました。アンリの琥珀色の瞳は、まっすぐに魔物のほうを睨みつけておりました。
アンリは元気な子供でしたし、怒って火花を飛ばすこともございました。けれども、凶暴な子供ではありませんでした。暴力を振るうことはございませんでした。
「おまえ、いばんなよ」
なんて言われても、せいぜい火の粉を散らす程度です。
「威張ってない」
アンリは琥珀色の瞳を三角にして、レマニの子供たちに言い返すのでした。
「アンリ、なんで仲良く出来ないんだ」
「あっちが先に、いやなことを言ってきたんだ!」
大人やオーギュストたち年上の子に怒られても、むくれて走り去るだけでした。ぶったりけったりはしませんでした。炎をぶつけることもなかったのです。
炎は生活を豊かにいたします。ただ、気をつけないととても危険なのでした。アンリは赤ん坊の頃から、一度も暴走したことがございません。力加減を間違えたことがなかったのです。
つまり、アンリは生まれつき他の人たちのことを考えることができたのでした。誤解されやすいアンリでしたが、本当はとても優しい男の子だったのです。
油断して暴走でもしてしまったら、炎は何もかも燃やし尽くしてしまうことでしょう。森も、野原も、家も、動物たちも、人でさえも。そんなことが一度だってなかったのです。人よりも強く熱い炎を出すアンリでしたのに。
「アンリ、魔物が戻って来るよ!」
ブリジッドが叫びました。下へと吹き飛ばした小さな魔物が、コオリオオカミの群と一緒に狭い階段を駆け昇って来たのです。魔物の王様は、群れの先頭を走っておりました。けれども、髪の毛は靡かず、マントも翻ることがありませんでした。
「なんだ、あいつは」
アンリが恐ろしそうに言いました。
「魔物の王様じゃないかな」
「このお城の王様なのか?」
「きっとそう」
ブリジッドは眉をひそめて答えました。銀色の巻毛が、細い肩を流れ落ちてお月様のお船に波打ちました。
「コオリオオカミの主なのよ」
「コオリオオカミに主人がいたのか」
「いたみたい」
「魔物がお城を持っているなんて」
「ほんとだよね」
子供ふたりで文句を言っていると、もう目の前にコオリオオカミの群れがやって来ておりました。
「帰ろう、ブリジッド!」
アンリはブリジッドに声をかけました。
「お月様、僕たちをみんなが待ってるほら穴まで連れて行ってください!」
けれども、お月様はへ先を巡らせることはありませんでした。
「何で向きを変えないの?」
ブリジッドは腹を立てました。
「分からない」
アンリも戸惑っておりました。
「こしゃくなこわっぱどもめ」
淡々とした口調で、紫髪の魔物が言いました。相変わらずの、おじさんみたいな声でした。
「僕たちと変わらない子供に見えるのに、おじさんみたいな声だねぇ」
アンリはたまげてブリジッドの方に顔を向けました。
「そうなの。気持ち悪いよね」
「眼も怖いね」
アンリは身を震わせました。魔物の眼は、真っ赤な上に血溜まりのように湿っていたのですから。
「凶暴なのに、怒鳴ったりしないのも恐ろしいな」
「そうなの!表情もないし、気持ちなんてものも全然ないみたいなの!」
ブリジッドは、我が意を得たりと身を乗り出しました。その間にも、魔物はブリジッドを捉えようと手や足を伸ばして参ります。けれども、アンリとブリジッドは、喋りながらも魔法を放つのでした。
魔物がブリジッドの肩を掴もうと、指を鉤の手に曲げて参りました。アンリはすかさず炎を起こして、ブリジッドと魔物の間に壁を作りました。
月のお船は、どうしたわけか窓の外には出てゆきません。狭い廊下で向きを変えることが出来ないのかもしれない、とブリジッドは思いました。
「後ろ向きに進むことは出来ないの?」
ブリジッドは、アンリに聞きました。
「どうだろう?僕も知らないや」
魔物が物凄い勢いで階段を昇って参りました。アンリはブリジッドを狙う魔物に炎の竜巻をぶつけながら言いました。魔物はコオリオオカミの王様です。炎には弱いように見えました。
「生意気な小僧め」
放つ冷気をことごとく炎に溶かされて、魔物は憤っているようでした。けれども、紫色の髪はサラサラとまっすぐに流れ、血色の瞳は一欠片の感情をも映さないのでした。
「花嫁を返せ」
魔物が野太い声で要求しました。ブリジッドは銀の眉毛を吊り上げて、青緑色の瞳に敵意を宿しました。アンリは、琥珀色の瞳に困惑を浮かべました。
「返せだって?」
アンリは心底分からなそうに言いました。
「ブリジッドを返してもらうのは、レマニだと思うんだけど?」
ブリジッドは、思わず吹き出してしまいました。
(アンリったら、相変わらずね!)
今日のお昼までは、レマニの子供たちが暴走するかもしれない怖さに怯えていることを、アンリは全く知りませんでした。アンリの世界は単純でした。
(他の子が暴走を怖がって思い切り良く魔法を試せないのを知らなかったのと同じだ)
ブリジッドは、とうとうアンリの気持ちが分かるようになりました。
(アンリには、魔物のわがままが、ただただ不思議なんだわ)
魔物が無反応なのとは違いました。アンリが激昂しないのは、心が冷たいからではありません。傲慢でみんなを見下しているからでもないのです。
大人たちは、アンリが他の子どもたちを馬鹿にしていると言ってしかりました。子供たちは、アンリが威張っていると言って、仲間はずれにいたしました。
(いじめていたのは、あたしたちだったんだ)
ブリジッドは悟りました。みんなより魔法が上手なアンリは、みんなとは違いました。アンリはひとりぼっちでした。それなのに、ブリジッドたちは、アンリがいじめっ子だと言って責めたのです。
大人も子供も、誰ひとりとしてアンリの味方はいませんでした。みんなでアンリが悪いと言いました。
(アンリはひとりだった)
ブリジッドは、自分たちのほうが意地悪だったんだ、と気がつきました。
(でもアンリは、私たちに怪我をさせたりはしなかった)
アンリがひどく怒られたとき、どこかへ走って逃げました。そんな時ブリジッドは心配になって、探しに行くのでした。
(そういえば、オーギュストでさえ探しに行かなかったな)
探しに行くのは、いつもブリジッドだけでした。走り去るアンリの背中に泣き声だけをぶつけても、やがて落ち着くと、ブリジッドはアンリを探しにゆくのでした。
ブリジッドがアンリを探そうとして走り出すと、決まって誰かが止めました。
「放っておきなさいよ」
女の子たちは言いました。
「追いかけたって、もっといじめられるよ?」
男の子たちが止めました。
「ひとりにしておやりよ。そのうち落ち着いて戻って来るさ」
年嵩の子どもたちは、ブリジッドを慰めました。
けれども、ブリジッドは待っていられませんでした。走り去るアンリの琥珀色の瞳には、悲しみがたくさん宿っていたからなのです。
それがなぜなのか、今までのブリジッドには分かりませんでした。
「アンリ、辛そうだな」
と思って追いかけずにはいられなかったのでした。イジワル!と泣いていたのに、なぜか探しに行ってしまうのでした。
(アンリが本当は優しかったからなんだ)
ブリジッドは、今ならわかります。アンリはみんなが怒ってしまうことを言いました。けれども、アンリはみんなを嫌いではなかったのです。みんなの方がアンリをきらっていたのでした。
(辛かったのは、アンリなんだ。でも、アンリは泣かなかったし、みんなをイジワルだなんて言わなかった)
アンリは、自分がいじめっ子ではない、と主張しました。けれども、みんながいじめっ子だとは責めなかったのです。
(アンリみたいに強くなりたい!)
アンリは、どんなに責められても本当にはみんなをいじめませんでした。ブリジッドは、それがほんとうの強さなんだと感じたのです。
「ブリジッドはここにはいたくないみたいだよ?」
アンリは落ち着いた声で言いました。魔物のような感情を持たない声ではありません。ちゃんとブリジッドの気持ちを考えて、よく分かって話をしているのでした。
「貴様には関係ない」
魔物は冷たく言い放ちました。そして、また片手を上げたのです。コオリオオカミたちに命じて、ブリジッドを捕らえようとしているのでした。
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