第二十話
短いですが、何とか更新できました。
12月は忙しいですね。皆様も体調にはお気をつけてお過ごし下さい。
天文22年(1553年)
夏の陽が蟹江の町家の瓦を白く焼き、港から上がる湿った風が屋敷の縁へぬるりと入り込む頃――
鳴海の戦も、清州の一件も、表向きは「済んだ話」として尾張の噂好きの口を巡っていた。
だが、私が信長の動きの全貌を掴んだのは、すべてが片づいた後のことだった。
この半年、伊松家の諜報の眼は北伊勢へ寄っていた。桑名筋――長島を含めた動きが水面下で忙しく、山伏衆にも商人筋にも「伊勢の動きを」と命じていたため、尾張東南部の情報が遅れたのである。すべてが終わってから詳細を知ることへの歯がゆさはなんともしがたい。
その日、私は勘定方の帳面に目を落としていた。鋳銭の出入り、砦普請の賃銭、材木の買い入れ――数字が整うほど、気が緩む。銭や物資は順調に蓄えており、あとはどう桑名を落とすか。
ふと、障子が控えめに叩かれ、家臣が息を整える間もなく言った。
「若様、山伏衆の弁増が戻りました。急ぎの口上にございます」
通すよう命じると、弁増は汗を流したまま膝をついた。目だけが冴えている。こういう時の弁僧の目は、嘘をつかぬ。
「殿。遅れましたが、鳴海の一件、ようやく全貌が掴めました」
私は扇を置き、身を乗り出す。
山口氏謀反による鳴海の一件は単なる今川の和睦破棄かと思っていたがそうではないようだ。
「詫びは不要だ。伊勢方面を重視するよう指示したのは私だ。とにかく詳細を頼む。」
弁増は短く頷き、懐から小さな包みを取り出した。内には覚え書きのような紙片と、粗いが要点を押さえた見取り図がある。文字は山伏のものではない。商人筋から回った手だ。
「信長様は、勘十郎殿を処したのち、尾張南東部と知多半島を固めるため、鳴海一帯の直轄化を強く望まれておりました」
私は目を細める。鳴海は位置がすべてだ。那古野と熱田、そして知多への道筋を押さえる要衝。三河へ進出する際にも重要な拠点となる。
「しかし鳴海城主は山口氏。桃厳様の代からの重臣であり、今川との取次でもあった。そこが難しかった、ということか」
「はい。天白川を境とした先の和睦で、鳴海城は川の東岸にありながら織田方の家臣が預かる形となり、曖昧になっておりました。今川治部大輔様と太原雪斎様は、その曖昧を突いて山口氏への調略を強めていた由にございます」
弁増は言葉を選びながら続ける。
「信長様は、山口と今川のやり取りを細かく掴むと同時に……召し抱えた伊賀者、商人筋を使い、“離反を急がせる”よう煽っておられたようです」
私は息を吐いた。なるほど。山口氏が自発的に寝返ったように見せかける。そうすれば討つ理由が立ち、鳴海は一気に織田の直轄へ落ちる。
「内通者も作った、とあるな」
「鳴海城、大高城――その双方に手を入れております。城内の小者、門番、馬借、米問屋、薬種屋。金と約束で繋ぎ、誰がいつ何を運ぶかまで掴んでいた、と」
弁増は覚え書きを指で押さえ、核心を告げた。
「今川の先遣が鳴海へ入り、山口父子が歓待で動けぬ時刻――そこを見計らい、信長様は丸根砦・鷲津砦に密に集めていた兵にて急襲。山口親子を“謀反人”として討ち取りました」
静かな部屋に、外の蝉の声だけが響いた。
私は目を閉じ、頭の中で順を追った。敵の先遣が入城した瞬間、山口氏はもはや逃げ道がない。織田から見れば「今川を引き込んだ裏切り」、今川から見れば「和睦下の今川領内の城主を織田が討った違反」。どちらに転んでも火はつく。
「……そこまで織り込んだか」
思わず漏れた私の声に、弁増は低く答えた。
「はい。ゆえに、和睦違反として織田・今川は互いを非難し合い、境目の緊張は高まりました。ただ、その代わり――尾張南東部と知多半島への信長様の影響は、目に見えて強まりました」
私は紙片を取り、裏の余白を指でなぞった。そこには、商人筋の走り書きで「鳴海一帯、直参の目付入る」「熱田筋の反応、早い」とある。信長は軍だけでなく、役人と銭の流れも同時に差し込んだのだ。
その日の夕刻、父・秀政も呼び、二人で報せを吟味した。父は黙って聞き、最後に一言だけ言った。
「信長殿は、清州の件も合わせて尾張統一を急いでいるか。目指す先は今川との決戦といったところかな」
「今川を引かせる余地は、残していませんね。和睦は破棄され両者の衝突は確定かと。あとはいつ衝突するか」
「勅を取り付けた身としては、こちらに知らせがないことは鼻につくがな。まぁ、謀は密なるをもってよしとすると言うしな」
父の目には、警戒と、それでもなお納得が混じっていた。
私は弁増へ視線を戻す。
「遅れはしたが、今から取り返す。山伏衆の拡大と北伊勢へ振っていた眼を少し戻せ。鳴海・大高・熱田の筋、そして三河口も見ろ。今川は必ず、次の手を打つ」
弁増は即座に頭を下げた。
「承知。学び舎で使えそうな者や山中の者も市の者も動かします」
報せが散ったあと、私は一人、文机に向かい、信長へ文を起こした。褒めるためではない。確かめるためでもない。ただ、こちらも腹を決めていると伝えるためだ。
――鳴海の一件、全て承知した。
――伊勢方面はこちらで固める。
――知多半島への進出は、こちらの水軍も動かそう。
筆を置いたとき、障子の向こうで潮風がまた一度、屋敷を撫でた。涼しくはない。だが、耳に届く人足の掛け声や鍛冶の音が、こちらの足場が整いつつあることを教えていた。
信長は、尾張統一へ王手をかけた。
その代償として、今川との緊張は確実に高まった。
私は改めて思う。
この先、桶狭間までの時間は、ただ待ってくれるものではない。
こちらが形を整えた分だけ、敵もまた形を整えてくる。
そして、その競り合いが始まったのだと。




