表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異聞・戦国奮闘記  作者: 峰ジスト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/20

第十六話

天文20年(1551年)

今川との和睦から、すでに半年あまりが過ぎていた。

境川・天白川の戦いで削られた兵の損失は、いまだ埋まりきってはいない。

戦死者の家では、若い者が家督を継ぎ、あるいは村同士で労を融通し合いながら、

どうにか春の耕作に間に合わせている。


だが、物資のほうはすでに補填が済んでいた。

駿河沖での勝利と和睦の成立は、海路と陸路の不安を取り除き、

蟹江の港にはふたたび多くの船が出入りするようになっていた。


「米の値も落ち着いてきたな」


港の税収をまとめた帳簿に目を通しながら、私は呟いた。


「今川との戦の間に溜めこんでいた品を、

 ここぞとばかりに売り歩いておる商人も多いようです」


側に控える勘定方の者が、薄く笑う。


「それでよい。商人が潤えば、また我らの蔵も膨らむ。

 戦死者の家には厚く補償をするように手配を頼む。

 勇士たちが安らかに眠れるようにな」


ようやく戦後の復興が、良いほうへ傾き始めている。

そんな実感が出てきた、ちょうどその頃であった。


那古野からの早馬が、蟹江に駆け込んできた。


「若様、那古野よりの知らせにございます!」


広間で家臣とともに書付に目を通していた私は、

使番から封を受け取り、その印を見て眉を上げた。

──織田三郎信長 御内印。


封を切り、素早く目を走らせる。


《帰蝶に、子が宿った》


その一文で、思わず息が止まった。


「……そうか」


出た声は、自分でも驚くほど低く静かだった。

続く行には、淡々とした文言が並ぶ。


《まだ腹も目立たぬほどだが、侍女や医師も“まず間違いあるまい”と言っておる。

 平手や林も、“これで弾正忠家も安んじましょう”と口うるさい》


(史実では……)


前世の記憶が、頭の隅で首をかしげる。

信長の最初の子とされているのは、於勝丸、のちの信正。

生まれももう少し後のことだったはず、はっきりとした出自や生年は諸説あって、

この世界では「それ」がまるで違う形で現れているのかもしれない。


(……今の信長が、帰蝶との間に初めて授かる子)


史書の上の文字ではなく、私が隣で見てきた「信長」という一人の男の、

最初の嫡子となる存在だ。

手紙の末尾には、たった一行だけ、信長らしい本音が滲んでいた。


《そなたの菊千代のことを、姉上から帰蝶がよく聞いておるそうだ。

 “我も早く子が欲しい”と、こぼしておったらしい。

 ……女とは、わからぬものだ》


思わず口元が緩む。


(志乃め……お節介は変わらぬな。いや、良い方向に働いたか)


その日の夕餉どき。

志乃にこの知らせを伝えると、彼女はぱっと顔を輝かせた。


「まあ……本当に!」


両手を膝の上で握りしめ、小さく身を乗り出す。


「帰蝶様のお腹に、お子がおられるなんて。

 文で、“子があれば少しは殿も落ち着くやもしれぬ”と書かれていましたの」


「おい、その文を見せよ」


「嫌ですわ、女同士の内緒話ですもの」


くすりと笑いながら、志乃はそっと私の前に座り直した。


「……けれど、少しはわかります」


「何がだ」


「戦や政の話ばかりの中で、自分だけが“外から来た者”だという思い。

 帰蝶様も、おそらくはわたくし以上に、それをお感じになったでしょう」


たしかに、と頷かざるを得ないところがあった。


美濃から嫁いだ斎藤道三の娘、帰蝶。

父は「美濃の蝮」と恐れられ、夫は「尾張のうつけ」と噂される。


(前世の史書の中でも、随分と“話題の多い夫婦”だったな)


志乃は続けた。


「そこで、“子”というのは、何よりも大きな拠り所になります。

 自分がこの家に居てよいのだと、自信を持てる。

 信長殿との間に結ばれた縁が、目に見える形になるのですもの」


「なるほどな」


私は、あの日生まれたばかりの我が子・菊千代を思い出す。

あの小さな手が指を掴んだ瞬間の、どうしようもない安堵と覚悟を。


「……信長殿も、家老たちも、肩の荷がひとつ軽くなろうな」


「ええ。帰蝶様も、“ようやく胸を張って那古野に立てる”とお思いかもしれません」


志乃はふいに立ち上がった。


「お祝いをお贈りせねばなりませんね。

 あなた様、何を持たせましょう?」


「そうだな……」


私は腕を組んだ。


「まずは、帰蝶殿には、腹帯と香。

 京から取り寄せた白布を、山科家を通じて分けてもらおう。

 安産を祈る文を添えて」


「はい」


志乃がうなずき、続けて問う。


「ほかには、何か“伊松らしさ”のあるものを?」


少し考えてから、私は答えた。


「子のためには……小さな守り刀と、銀の鈴だな」


「銀の鈴、でございますか?」


「うむ。蟹江の細工師に、柔らかい音の出るものを拵えさせよう。

 ゆらせばかすかに鳴るくらいの、おとなしい音がよい。

 那古野の城の中で、あまり大層な音がしても困ろうしな」


志乃はくすりと笑った。


「守り刀は、“弾正忠家の嫡子として、いずれ刃を握る覚悟を”ということでしょうか」


「そう取ってもらえれば何よりだ。

 もっとも、最初は揺り籠のそばに飾られるだけだろうが」


「帰蝶様、お喜びになりますわ」


志乃はそう言って、ふと表情を和らげた。


「信長殿には何か甘いものでも送ろう。それくらいがちょうどよいだろう」


志乃は笑いをこらえる。


「濃姫様からの文には、最近のことも書かれておりました。

 平手殿が間に入り、若様とよく話をするようになったとか」


「そうか」


「“もとは腹の立つことも多かったが、

 よく見れば、物事をよく見て考えている人であった”と」


「ほう、帰蝶殿がそこまで言うとはな」


私は思わず笑ってしまった。

志乃は、なおも続ける。


「信長殿の奇妙な装束も、

『あれは“敵か味方か”を測るためのものでもあるのだろう』と、

 文にありました。“平手どのが、そう仰っておられた”とも」


「……平手殿、うまく言い聞かせたものだ」


「はい。

 わたくしが菊千代のことを帰蝶様へ書きましたのも、

 少しはお役に立ったやもしれません」


「何と書いた?」


「“秀興様は、戦や政のことに気を砕きながらも、

 子の寝顔を見て力を抜くことがございます”と」


「余計なことを……」


「嘘ではありませんわ」


志乃は楽しげに笑った。


「それを読んで、

 “わたしも、あの人のそんな顔を見てみたい”と書かれておりました」


一瞬、言葉を失った。


(信長殿が、子の寝顔を見て力を抜く……か、意外と子煩悩になるやもしれんな)


「……ならば、なおさら祝わねばならんな」


私は帳簿を閉じた。


「蟹江の港から、油と梅干、それに乾物も少し加えた荷を那古野へ送ろう。

 妊婦の身には、口当たりの良いものがよい。

 志乃、選びは任せる」


「はい、あなた様」


志乃は嬉しそうに頭を下げた。


その背を見送りながら、父となる信長を想像する。


「……信長殿にも、“父”としての顔を見せてもらうとしようか」


そう呟き、私は那古野行きの祝いの文の草案に筆を走らせ始めた。


天文二十年(1551年)の夏も終わりかけたころだった。


蟹江の港に、熱田から来た商人衆が一団で現れた。

普段なら品物の値や、京・堺の景気を得々と語る連中だが、

その日の顔色は妙に曇っていた。

帳場で応対していた勘定方が、私の部屋へ駆け込んでくる。


「若様、熱田の加藤殿が、どうにも落ち着かぬ様子で……

 “内々に申し上げたいことがある”と」


ただ事ではないと察し、私はすぐに広間へ出向いた。

加藤はいつもの商人らしい愛想笑いを封じ、膝を正して座っていた。

汗で額が光っている。


「遠路、ご苦労であったな。何かあったか」


促すと、加藤は一度唇を湿らせ、小さく頭を下げた。


「……末森の大殿のご容態、どうにも芳しくないようにございます」


一瞬、時間が止まったように感じた。


「医師は、“しばし静養すれば”とも申しているそうですが……

 熱田や古渡の問丸たちの間では、“長くはないのでは”との噂が絶えませぬ」


加藤は声を落として続ける。


「那古野と末森を行き来する使者の数も、ここ数日で目に見えて増えております。

 熱田衆の中には、“これからは若殿の世だ”と口にする者も……」


若殿。

誰のことか、問いただすまでもなかった。


(……信長殿か。それとも、末森の信勝殿か)


私は静かに息を吐いた。


「知らせ、しかと受け取った。

 加藤殿には、後ほど労を取らせよう。

 熱田で、余計な口はきくなとだけ、伝えておいてくれ」


「ははっ」


加藤が下がるのを見届けてから、私は父・秀政の居間へ向かった。


父はすでに商人からの風聞を聞きつけていたようで、

文机の上には、尾張一円の簡易な地図が広げられていた。


「……やはり、耳に入ったか」


父は私の顔を一目見るなり、そう言った。


「義父上のご容態、いよいよ重いようですな」


「ああ。先日見舞いに伺ったが、末森は騒がしい様子だった。

 土田御前殿もよしなにとこちらを伺っておった」


父は筆を置き、机の上にそっと手を置いた。


「さて、問題は“その先”よ」


「末森の信勝殿を、後継と見なす動き、ということでございますか」


「うむ」


父の視線が鋭くなる。


「弾正忠家の嫡男は、誰がどう見ても那古野の三郎信長殿。

 だが、“病床の父のそばに仕える末森の若殿”を推したい者も、

 家中にはおろう」


私は頷いた。


「……どのあたりが、怪しゅうございますかな」


父は少し黙り、湯呑に口をつけて答えた。


「まずは柴田勝家だろう」


「柴田殿、末森の家老でございましたかな」


「そうだ。

 なにやら、津々木某という若衆と揉めているという話も聞くが、

 信秀殿の命で信勝殿に付けられた家老だ。間違いなく信勝殿を推しておろう」


父は、具体的な名をいくつか挙げた。


「林の一族……秀貞、通具の両名は、表向きは三郎殿に仕えておるが、

 弟の方が信長殿の振る舞いを快く思っておらんらしい」


「……林一族は末森へ通っていると?」


「山伏衆からの報せだ。

 ここしばらく、古渡や那古野ではなく、末森の周りで茶の席が増えておるらしい。

 茶の席といっても、実際は“根回し”よ

 秀貞殿は通っておらぬがな、家中の統制はとれておらんようだ」


私は眉根を寄せた。


「ほかには」


「守山の筋は、信光殿が健在なうちは動かぬだろう。

 佐久間の一族も信長側と見てよい。

 先の戦の指揮で心服したものも多いようだ」


父はそこで一度言葉を切り、那古野を示す。


「那古野は、信長殿を主と見る者が多い」


「平手政秀殿、林秀貞殿、市川大介殿、内藤勝介殿……」


「うむ。

 それと、お前が商人や職人を通じて繋いでいる筋。

 那古野の城下は、もはや“信長の町”と言ってよい。

 帰蝶殿の縁で、美濃筋から森三左衛門などの森一族が流れてきた」


「津島、熱田も、総じて信長殿びいきと見てよろしいでしょうか」


「そうだな。津島はともかく熱田は表向きといったところか。

 東西の加藤家が何やら揉めている。それぞれ信長、信勝の庇護を求めると思われる。

 商人は“どちらが勝つか”を見てから動く。

 だが、現状で銭と人を回しているのは三郎殿だ。

 その利を捨ててまで末森に賭ける向きは、そう多くはあるまい」


父は筆を取り直し、地図の端にさらさらと書き込んでいく。


「ざっと分ければ、こうだな」


末森周辺の信勝とそれ以外の信長


「信長殿に仕える者の中にも、“様子見”はおりましょうな」


そう言うと、父は苦笑を浮かべた。


「当然だ。人の心は、一夜で決まるものではない。

 弾正忠家の諸家中にとっては、“どちらにつけば己の一族が生き残れるか”こそ肝要よ

 ただ、まぁ、あまり心配することもないと思うがな」


「……我らは、いかがいたしましょう」


問うと、父の視線が真っ直ぐこちらに向いた。


「決まり切っておるのではないかな、秀興」


少しだけ黙し、私ははっきりと答えた。


「三郎信長殿を、後継と認める方向で、動くべきと存じます」


「理由は」


「戦、政、経済。

 いずれの面から見ても、

 尾張を“外へ向けて”動かす器を持つのは、信長殿しかおりませぬ。

 末森の信勝殿は、まだ若く、内輪をまとめるには良くとも、

 三河・美濃・伊勢へと目を配る器ではない」


私は続けた。


「それに……

 信長殿は、自らの奇抜な振る舞いの危うさも、自覚し始めておられます。

 帰蝶殿や平手殿、そして我らとの結びつきが、それを和らげている。

 近頃は、政務では折り目正しい装いにて評判の様子」


父は静かに頷いた。


「わしも同意見だ。

 弾正忠家が再び、美濃や三河へ牙を向ける日が来るなら、

 その先鋒に立つべきは三郎殿だろう」


筆先が、地図のいくつかの場所にしるし付ける。


「ではまず、誰が“末森推し”なのか、もう少し詳しく洗い出す。

 山伏衆には、末森周辺の動きを念入りに追わせよ。

 茶会・連歌・社寺への参詣……名目が何であれ、“同じ顔ぶれが何度も会う場”を洗い出せ」


「承知いたしました」


「商人筋にも注意を促せ。熱田、津島、那古野の問丸衆に、

 “どの家の出入りが増えているか”を聞き出すのだ。

 銭の流れは、心の流れと繋がる」


「はい」


父はそこで一息つき、私を見た。


「そして、お前は那古野へ行け」


「那古野へ」


「信長殿と平手殿に、“伊松は三郎殿を後継と見る”と、

 はっきり伝えておけ。ただし、“末森を敵と見る”とは決して言うな」


「……味方する相手を明らかにしつつ、

 敵を勝手に決めつけない、ということでございますか」


「そうだ」


父の口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「末森の信勝殿は、いまだ十五の年。

 対面したがお主や信長殿ほどの人物とは見えなんだ。

 元服したとはいえあの者自身は、おそらく誰かに担がれているだけよ。

 むやみに“敵視”すれば、弾正忠家そのものに亀裂が入る」


「なるほど」


「だからこそ、誰が“担ぎ手”なのかを、今のうちに見極めるのだ。

 わしらは表立って動かずともよい。

 信長殿にとって、“いざという時に頼れる柱”で在り続ければ、それでよい」


私は深く頭を下げた。


「承知いたしました。

 那古野へ参り、信長殿と平手殿の胸の内も、探ってまいります」


父は頷き、それからぽつりと付け加えた。


「……信秀殿は、よう戦い、よう国を動かした。だが人は必ず老いる。

 その先をどう繋ぐかは、生き残る者の務めよ。

 儂は信秀殿の心内を聞き出すとしよう」


静かな言葉だったが、その重みは、

境川や天白川で感じたものとは、また違う形で胸に響いた。


(史実では、信秀殿の死をきっかけに、尾張は一層の混乱へ向かった)


私は前世の記憶を振り払い、地図の上の那古野を見つめた。


(だが、この世界では――

 そこへ、一本だけでも太い柱を通しておきたい)


伊松家という柱を。

そして、信長の隣に立つ、もう一本の支えとして。


「……まずは、那古野行きの支度を整えましょう」


そう言って席を立つと、窓の外から、秋の風が静かに吹き込んできた。

それは、ひとつの時代の終わりと、

新しい時代の入口の匂いを、微かに含んでいるように感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ