荷駄車、でござるか?
「ああっ、暑いっ!」
旅はまだまだ長いのだが、オレはわずか三日目にして音を上げた。
鎧兜のせいで、猛烈に暑い。
それに重量もある。フル装備だと二〇キロ程だ。
馬への負担も大きい。オレの馬は、いわば特注品のようなもので、替え馬も二頭ある。だが郎党達は普通の馬、どこでも手に入る馬なので、替え馬なぞ用意していない。
さらに下男達も徒歩移動だから、前回の旅よりゆっくり移動している。
つまり余計、ダルい。適宜休憩を入れつつ、馬を労りながら進む。
そういえば師匠・円空の講義でも、
――理想的な行軍速度は、一日一五キロ程度。
という話だった。今は行軍ではなく、無理に急ぐ必要はない。オレ達一行はそれを下回る速度を目安に動いている。
前世においては、
――江戸時代の旅人は、一日三〇キロ位歩いていた。
と聞いていたが、あれを目安にしてはいけない。今思えば、あれは街道や宿場町がきちんと整備されていた江戸時代だけの話である。
というわけで、オレは早くも限界を悟った。
「どこかに鍛冶の盛んな地はあるか?」
休憩の折、郎党達に尋ねた。皆、首を捻る。
「やはり難波(現代の大阪市)でありましょうな」
壷井の者が言う。
「堺も、港町ゆえ鍛冶師は多うござる。難波ほどではござらぬが」
なるほど。
堺は、壷井から比較的近い。とはいえ身軽な状態で馬を飛ばして数時間、という話だが。
(利便性を考えれば、堺、か)
オレは決断した。
「行き先を変更する。まず堺に寄る。それから壷井だ」
数名の郎党が即座に駆け出し、通行人をつかまえて道を尋ねる。
幸い、オレの決断のタイミングが良かったようだ。ロス無く進路変更出来た。一行は再び、ゆるゆると歩を進める。
「為朝様。なにゆえ、堺に?」
重季さんがオレに尋ねてきた。
ちなみに此度の移動を期に、皆、オレのことを“為朝様”と呼ぶようになった。元服を終えたので“八郎様”はおかしいし、官位官職を得て栄達、という道は絶たれたため“冠者”もどうか、ということらしい。
「暑いからだ」
「はぁ!?」
「この暑い季節の長旅だ。九州は遠い。少しでもラクに移動したいだろう?」
「いかにも」
「ゆえに、堺に寄って荷駄車を作らせる」
「荷駄車、でござるか?」
「ああ。鎧兜を脱いで荷駄車に載せ、馬に曳かせて運搬する。武具もだ。それならラクに移動出来るだろう?」
「ほう」
納得したようで、重季さんは感心したように頷く。
重季さんと会話して知ったのだが、当世、荷を長距離運搬するという発想に乏しいようである。
まず、荷駄車がない。そもそも馬に荷を曳かせるという発想自体が無い。せいぜい米俵を一俵、馬の背に載せて短距離運ぶ程度らしい。
(西洋では早くから、荷馬車が発達していた筈だが)
と思ったが、あれは古代ローマだけかもしれないと思い直した。それ以外の地域では、まだ使われていないかも……などと考えていると、
「我らが疲れぬよう考えて下さるとは、さすが為朝様じゃ」
郎党達が嬉しそうに反応する。
「そりゃまあ、オレ自身もダルいからなあ」
「そこを、どうにか工夫して凌ぐ、というところが為朝様の美徳でござろう」
そうかもしれないが、まあ、アイデアがあるからね。それを実現できる経済的余裕もあるし。……
カンカン照りの中、夕方まで移動を続け、その日の宿を探して落ち着いた。ここで再び、オレは当世のびっくり仰天風習に驚かされる。
地方では貴人が逗留すると、その屋敷の娘などが夜伽を求めて来るらしい。
(なんやねん、それ!?)
と思ったが、一応合理的な理由があるようだ。
つまり地方では、どうしても近縁者同士の婚姻が長く続き、血が濃くなり過ぎるという。そこで他所者、特に貴人が訪れると、これ幸いとばかり外部の血を取り入れるのである。
「ちょっと待て。オレは数日前、愛するおなごに別れを告げて出てきたばかりだ。当面、他のおなごを抱く気にはならぬ」
丁重にお断り申し上げ、ご退出願った。
そういったハプニングもありつつ、京を出て七日後、堺に辿り着いた。
道中、港が見えた。
当然ながら、その風景は前世のそれと大きく異なる。広大な埋立地、キレイに整備されどデカい倉庫が立ち並ぶような光景は、どこにも存在しない。広々とした漁村だが、ただの漁村ではなく荷下ろし積み込みが盛ん、といった感じか。
舟が、思いの外小さい。
「小さいな」
思わずこぼした。目測だが、大きめの舟でも二〇メートルそこらしかない。平成令和の世を知っているオレ的には、小型漁船レベルではないか。
京や壷井に住む郎党達は、ほぼ初めて、海に浮かぶ舟を見るらしい。皆、珍しそうに港を眺めている。少なくとも、舟が小さいという認識は無さそうだ。
「こりゃあ壷井から九州への移動は、全部陸路か。舟は使えんやろなあ」
一隻あたり、人馬を乗せるならば五騎が限度だろう。毎日、一〇隻以上チャーターしながら数日がかりで移動するなど、難しそうだ。堺はまだ大きな港だというから、一〇隻程度であればチャーターできるかもしれないが、その先が続かない。
これからますます暑くなる。そんな中、毎日鎧兜を着込み、九州まで陸路移動。いや想像だに恐ろしい。荷駄車調達は必須だろう。
堺には、宿屋があった。
だがどれもこれも規模が小さい。我々一行四一名様が泊まればほぼ満室になり、本来の利用客が困るだろう。なので普段通り、大きな寺を見つけ宿を取った。
「よし。車輪を作れる鍛冶師を探せ。それから大工を呼べ」
たちまち、郎党達が外へ駆け出した。
大工は直ぐにやって来たが、鍛冶師がなかなか来ない。ようやく見つかった、と郎党に伴われやって来た老齢の鍛冶師も、
「若い頃に京で修行しておりましたので、一度だけ牛車を作った事がございます」
という心許ない返事である。
聞けば、皇族や公家が牛車、馬車をわずかに使うのみで、車輪の需要がほとんど無いらしい。
だが、他に策がない以上、この鍛冶師に頼るしかない。
「では、荷駄車を作れ」
まずは試作品を作るよう依頼し、設計を伝えた。既に昨年経験した、分業の指示である。
大工には荷台部分を作らせる。上にホロ布を被せられるよう、木材でフレームを組ませる。御者台も備えさせる。
ラフな図面を書き、サイズを書き込むと、
「文字が読めませぬ」
と大工が音を上げた。
うわ、と頭を抱え込んだが、これは昨年も経験したことだ。周囲に読める人間を探して対処しろ、と命じた。
鍛冶師には、車輪と懸架部分である。他の鍛冶師に懸架部分を依頼し、分業しろと命じる。
「懸架部分は、どのような設計だったか?」
鍛冶師の記憶を引っ張り出し、図に起こす。そこにオレのアイデアを盛り込み、サイズ入りの図面を描いた。
「で、これをどうやって牛や馬に曳かせるか?」
鍛冶師と、実際に京で牛車等を見慣れている郎党達に、ハーネスの設計案を出させる。
こりゃ革細工の職人も呼ばねば、と察した重季さんが、外へ駆け出した。
こうして遅くまで打ち合わせが進められ、試作品の開発が始まった。
「完成予定の一〇日後にまた戻る。問題なく完成すれば、引き続き一〇台以上作って貰うことになる」
と告げ前金を渡すと、彼らは勇んで去って行った。




