女郎蜘蛛と働きアリ
頼りない声援を受けた俺は、途中まではその声の主送ってもらい、今はお嬢様の部屋と正反対にある、公爵夫人の部屋の側に居る。
えっ?なんで前じゃないかって?言わせんなよ、恐ろしいからに決まってんだろ!
視線の先には紅い扉、どう考えてもやばいや〜つ、しくじったら終わるや〜つ、折角だから俺はこの紅い扉から逃げるせ!
「なんて、言えたら楽なんですけどね……」
どっかの地底探検で推定50センチで死ねる探検家並みの難易度のデスゲームだからって、レトロゲーのRTAみたいな感じで、いきなりイベント飛ばして最速クリアとか望んでないんだよなぁ……。
今まで全く良い所が無い脳内議員は『ワァイ、デスペランカー』などと述べており相変わらずの職務放棄だ、多分うちの脳内議員、野党なんだろうなぁ、嫌な事は直ぐに審議拒否だもんなぁ……。
やっはさ、最初は汚いおっさん位からレベル上げるみたいなチュートリアル位ないと、俺みたいなゆとりゲーマーには無理なんじゃね?
どう考えてもバレてるでしょうし、多分やり方はあるとは思ってるよ?だけど難易度高すぎて、ミスったら即死確定の裏技しか残ってないやないですかー!
思わず顔を両手で覆いたくなる位の惨状に気持ちの整理しないと行けないでしょ?頭の中を整頓しないと絶対にミスちゃうよ?
「嫌だなぁ、真面目に嫌だなぁ……」
整理整頓されたデスクで早朝にコーヒー飲むのは出来る社畜のマストだし?ここはまだ慌てる様な時間じゃないと思うんだー。
「もうやだ〜、入る前からぽんぽん痛い……」
うん、正直な事を言うとね、出来れば回れ右してお布団に帰って、もう一度寝て起きたら、全部無かった事になればいいなとか思ってます。
「逃げちゃだめか?逃げちゃだめか?逃げちゃだめかなぁ……?」
どこぞの神話になれといわれて大人の遊戯になった少年のように、後ろ向きに前向きな気持ちになどなれはしない。
まあ彼のおかげで賭け事は勝って居る内に止めて、とっとと逃げなきゃダメだと学んだ元少年はいっぱい居るんだろうな。
だから俺が今からやる事は、そんな彼等の事を笑えない、はっきり言えば狂気の沙汰としか言えない策にでる。
これからあの無駄に豪華で豊満なバディの公爵夫人に本気で喧嘩を売る事なんて、極めつけにハイリスクでローリターンな、一世一代の馬鹿げた博打を打つつもりなんだからなぁ……。
社畜にとって雇用主に対する反逆って、春闘位しか許されていないのだから、嫌だと言っても経営者の命令は絶対だ。
それよりも遥かに厳しいこの世界の雇用環境で、支配者層のトップに位置する人間に、たかが平民の学者崩れが牙を剥くなんてのは、命が惜しくないと言っている自殺志願者と変わらない。
「嫌なら止めろが、生きるのを止めろになる世界で、生きる為にイキるとか……、ほんっと笑えねぇ……」
だが今更だ、ここで下手に隠そうとしても、あのタイプは嫌になる位勘が鋭い。
学芸会で草の役しか出来なかった俺が、一縷の望みを賭けてブルックリンの下手くそな演技で足掻いた所で、異常な勘の良さの公爵夫人にはバレるに決まってるんだ。
バレたら死ぬって分かり切ってるなら、逆に興味をそそって、生かしておいた方が面白いと思わすしかないんだ。
春闘は殆ど台本アリの茶番なんだけど、これから始まるのはノールール、ロープ無しギブアップも無しの無制限一本勝負、まさに掛け値なしにデスマッチだ。
本当は逃げたい、荒ぶる鷹の逃走をしたいんだよ?
「だげとさ……、ここで逃げたら後悔しか残らないんだよな……」
ここで逃げたら、どんなに楽なんだろうか?そしてここで裏切ったら、どれだけ辛いのだろうか。
答なんて分かり切ってる、俺はあの無駄に前向きで能天気な、誰にも何も教えて貰えなかったアルテミジアの幻影に死ぬ間際まで苛まれ、一生メリッサの悲しい視線を忘れられず、彼女の温もりを知ってしまった事に後悔しながら死んでいくだろうさ。
分かり切ってる……、俺はそんな未来は死んでもゴメンだ!
「だったら、もうやるしか無いだろっ、諦めろ俺、もっと死ぬ気で諦めて覚悟を決めろよッ」
死亡フラグだと思うから怖いんだ、飛び込みだっ、飛び込み営業だと思え!断られたら絶対ダメな営業だって、今までだって乗り越えて来ただろ!
掌が緊張感でじっとりと濡れて、心臓は昨日の夜よりも危機感で、激しく熱いビートを刻んでる。
背中には嫌な汗がさっきから止まらずにいて、着替えたばかりの、あれだけ馴染むと思ったシャツが縛めの様に纏わりつくが、自分の危機感全てに蓋をして、目の前の紅い扉をノックした。
「奥様おはようございます、ブルックリンです」
下手に謙った言い方をして妙な言質を取られるとやばい、ああいう手合いはこちらが弱気な発言をすれば一気に決めてくるから、少し強気に攻めよう。
「あら随分と待たせるのね、いつから貴方はそんなに偉くなったのかしら?」
相手の痛い所を突いて様子を見るのは良くやる手だ、こんな程度で怯むなら、俺は営業なんてやってられねーんだオラァん!
「予め私めに用がある、そう家人に教えて下されば朝から屋敷の門でお待ちしていましたが、生憎その様な話も無かった、そう記憶しています」
ある程度大胆に、そして露骨になり過ぎない程度に自分に非はないと主張し、相手の言い分を否定していく。
先ずは此方が交渉のテーブルに座るに足る人物だと相手に認めさせなければならないからだ、そうでなければ、紅い扉の先の女性は、使用人の中の人である俺を認めない。
「あの日、私の足を舐めて仕事をくれと言ってきた学者崩れの貴方が、今じゃ随分と立派な物言いをするのね、まるで別人みたいだわ、うふふっ……」
焦るな、こんなもんは只のカマかけだ!ここで焦りを見せれば相手のペースに飲まれて全部がダメになる。
「さて、なんの事でしょう?どうやら奥様は私と、どこぞのイヌを間違えて居られる御様子。その様なお戯れは栄華を極める公爵夫人として、些かお戯れが過ぎるかと」
ブルックリンと俺は違うと印象付ける為に強気に言ってみたが、彼女がお嬢様と一緒ならここでキレるだろう。
だが彼女は策略や謀略、隠謀渦巻く社交界の魔女、この程度の挑発なんか、春のそよ風のような物にしか感じていないだろうさ。
出来れば何かしら感情を引き出したいが、まだパンチが弱いと思う、きっと扉の向こうの美魔女の琴線に俺の指先は届かない。
「へぇ……、随分と賢しい口を聞ける様になったじゃない」
俺の予想は悪い方に的中し、予想通りに酷く詰まらなそうに不満を漏らすと、そのまま沈黙してしまう。
予想より反応か鈍い、これは少し拙いか……?
俺と公爵夫人との間の静寂など関係ないと、朝を喜ぶ小鳥達の囀りが通り過ぎ、俺の胸には焦燥が湧き上がる。
如何する?このまま黙っていたら、相手に考える隙を与えるだげになるんじゃ無いか?未だ様子を見るべきか……。
[急いては事を仕損じる]と[兵は神速を尊ぶ]なんて反対の言葉が、頭の中で意味の無い合戦を始めそうな勢いでぐるぐると回る。
しまったっ!これが相手の狙いだッ!
もう此処まで意気がる口を聞いたんだ、引くのは悪手でしかないし、退路なんて何処にも無いんだ、だったらもう突っ込むしかないだろっ!
俺は乾いて張り付きそうな喉から、何とか余裕がある声を絞りだそうと一つ息を呑んでから、再び口を開く。
「お話は以上ですか?私は暇では有りませんしお暇させていただきます、これからお嬢様に貴族の何たるかを教育せねばなりませんからね」
これでどうだっ!今まで碌に仕事をしてなかった格下のブルックリンに、扉越しに貴方より仕事が大事だとまで言われたんだ、プライドの高いあんたなら、この屈辱的な物言いに何かしらの感情を覚えて、少しは興味を擽られるだろうよ。
「ふぅん……、貴方、その意味が分かって言っているのかしら……?」
よし!プライドに指先が掛かった!あとは彼女が喜ぶ様に、俺の持てる限りのセンスを使って、彼女の琴線と言う楽器を搔き鳴らしてやればいい。
「その答を知りたいのは奥様でしょう?なら、どうするべきか、聡明な貴方なら理解出来るはずだ」
飽くまで開くのはあちら、開けないと言うなら此処までと、暗に言葉に匂わせる。
「ふんっ……、しばらく見ない内に本当……、憎たらしい位生意気になったものね……。まあぁいいわ許してあげる」
怒りと言うには軽い、許すと言うには軽薄な気配が混ざる妖しげな色気を混ぜて彼女は語る。
「私ね、こんな温い愛撫の様な、撫でるみたいな腹の探り合いは飽きたの、お遊びはいい加減にして、早く入りなさい」
俺の耳に届く言葉の響きには、どうしても隠せない火遊びを好む女が持つ、危険で破滅的な好奇心が見え透けている。
やっぱりお嬢様と公爵夫人は間違いなく母娘だな、いずれアルテミジアもこんな妖艶な雰囲気を纏うのかもしれない。
好奇心は猫を殺すなんて言うが、その猫がもし女豹なら、好奇心が向いた先に居るモノこそ殺されてしまうだろうな。
おめおめと喰われてやる気はないが、呑み込まれそうになる自分の心に「逃げるな」と諦めの鎖をしっかりとかけてから、一世一代の大博打の開始を宣言する、
「分かりました、では中でゆっくりとお話をしましょうか……」
どうやら第一段階は乗り切った、いや、まだ俺は女郎蜘蛛の蜘蛛の巣に足を踏み入れてすらいない。
安心するのはこの部屋を無事に出れた時に取って置くべきだろうさ、だって俺はこの部屋にいる紅い龍の逆鱗に触れたばかりなんだ。
武器と言えるのは、色々変わり過ぎて宛になるかどうかも分からないゲーム知識と、今まで培った社畜の誓いだけ。
こんな心許ない装備で俺は、これから煮え滾る魔女の釜から自分の命を引き上げて、己の未来を取り戻す仕事が始まるんだと、意識のギアを一速上げた。




