1:婚約者様はあみぐるみ(1)
「嫌です! ……私は、結婚なんてしたくないのです!」
どこまでも澄んだ青空が広がる、秋のある晴れた日。
伯爵家の末娘であるフィロメーナは、涙声で訴えていた。
肩甲骨あたりまで伸びた茶色の髪の毛が、しゃくりあげるたびにふわふわと揺れる。若葉のような翠の瞳からはぽろぽろと涙の雫が零れ落ちていた。
「フィー、これは公爵様から直々に頼まれたことなんだ。僕たち伯爵家の人間が、異を唱えることなんてできないんだよ……」
フィロメーナとよく似た髪色の青年がへにゃりと眉を下げ、碧の瞳を潤ませた。
この青年はフィロメーナの一番上の兄であるベルヴィード。優しそうな顔立ちが、今は悲しげに歪んでいる。
「……フィー、泣くな」
フィロメーナの涙を優しくハンカチで拭ってくれたのは、二番目の兄であるオルドレード。
濃い茶色のまっすぐな髪に、フィロメーナとよく似た翠の瞳を持つ青年だ。この青年もまた、一番上の兄と同じように悲しそうな顔をしていた。
爽やかな秋の風が吹き込む伯爵家の居間。ひらひらとした白いカーテンが、笑っているかのように華麗に舞う。
「ベル兄様、オル兄様。どうしてこんなことになってしまったのでしょう……」
「僕にも分からないよ、フィー! ああ、こんなに可愛いフィーを嫁に出すなんて、気が狂ってしまいそうだよ!」
「……なんて可哀相なフィー!」
ベルヴィード、オルドレード、フィロメーナ。伯爵家の仲良し三兄妹は、明るい外の空気とは正反対の暗い表情をして、ひたすらに嘆き続けた。
――さて、どうしてこんなことになったのか、というと。
十八歳になったばかりのフィロメーナに、公爵家からの縁談が舞い込んだところから全てが始まった。
フィロメーナたちが住むこの王国には、三つの公爵家がある。公爵家といえば、伯爵家よりも高貴な存在。はっきり言って、伯爵家の中でも末端といって良いくらいの地味なこの家に、そんな高貴な公爵家からの縁談が来るなんて思いもしなかった。
しかも、優秀な魔術師を多く輩出している「魔」の公爵家から。
二十三歳になる嫡男に嫁いでほしいという話だった。
「公爵令息レオンハルト。優秀な魔術師であることはもちろん、整った容姿、穏やかな性格……女性からの人気も高かった人なんだけど」
ベルヴィードはそう言って、遠い目をする。
そう、普通ならこんな条件の良い男性との縁談なんて、地味なフィロメーナの元に来るわけがない。
それがなぜ、来てしまったのか。
「呪われて、化け物のような姿になってしまったから……」
噂によると、その公爵令息は数年前、見知らぬ人に呪いをかけられたのだという。魔術が得意なはずの「魔」の公爵家でも、なぜかその呪いを解くことができず、彼は今も恐ろしい化け物の姿なのだとか。
「私、化け物のお嫁さんは嫌です……。どうして、なんで、私なのですか……」
「それはフィーが一風変わっているせいだよね。違う世界の知識を持つ令嬢なんて、フィー以外に聞いたことないし」
フィロメーナの嘆きに、ベルヴィードが冷静に突っ込んでくる。
「ベル兄様! 私、変じゃないのです! ちょっと前世を覚えているだけなのですよ!」
「うんうん、分かってるよフィー。……怒った顔も可愛いね」
兄に頭を撫でられながら、フィロメーナはぷくっと頬を膨らませた。
前世のフィロメーナは、日本で一人暮らしをしている二十代の女性だった。朝九時に出社して、夜十一時になる頃にようやく家に帰る。いや、どう考えても労働環境がおかしいだろうと思っていたら、人生終了していた。
まあ、すごく貧乏だったし、家族との仲もそんなに良くなかったし、辛くて苦しい思い出ばかりの人生だったので、生まれ変わってほっとしたのだけど。
(でも、前世の記憶が役に立ったことってないんですよね。できれば、前世の記憶なんて、どこかに捨ててしまいたいです)
何の意味もなかった前世の人生。本当に、早く忘れてしまいたい。
「ああ、僕の可憐なお姫様フィーを、なんとか助けてあげたい……!」
「……公爵令息を、穏便に消すか?」
ベルヴィードの悲痛な叫びに、オルドレードが答えた。その顔は真剣そのもの。
フィロメーナは慌ててオルドレードにすがりつく。
「だ、駄目ですよ、オル兄様! 物騒なことを言うのは止めてください!」
「……でも」
オルドレードが拗ねたように口を尖らせる。だけど、どんなに不服でも、それはやってはいけない。「魔」の公爵家に逆らったら、きっとこの地味な伯爵家は潰されてしまうから。
またも暗い顔で沈み込むしかなくなった三兄妹。
と、そこに、父である伯爵がやって来た。
「ベルヴィード、オルドレード、それにフィロメーナ。そんなに落ち込まなくても良いだろう? 婚約解消できる手段がひとつ、あるのだから」
「……えっ?」
三兄妹が期待に満ちた瞳を、一斉に父へ向けた。父は三兄妹の勢いに少し後ずさりながらも、教えてくれる。
「公爵様は、レオンハルト様の呪いが解けたなら、この婚約は解消して良いと仰った。結婚式は半年後の予定……つまり、半年以内に呪いが解ければ問題ないということだよ」
三兄妹は、途端に微妙な表情になった。
一応、地味とはいえ貴族である三兄妹には魔力がある。でも、呪いの解き方に関する知識はない。
というか、「魔」の公爵家でも無理だったものを解けるはずがない。
「……やっぱり、消すか?」
「そうだね、オル。フィーのために、公爵令息には消えてもらおう」
兄二人がやたら爽やかな笑顔を浮かべた。
「だから、駄目ですってば! ……分かりました! こうなったら、なんとかして半年以内に呪いを解く方法を見つけるのです! 呪いを解いて、絶対に婚約解消してみせるのですよ!」
フィロメーナは兄たちを宥めつつ、勇気を出して宣言する。大好きな兄たちが手を汚すなんて、考えたくもない。伯爵家を危険にさらすのも御免だ。
「フィー、なんて健気で愛らしいんだ……」
「……嫁になんて、やりたくない……」
ベルヴィードとオルドレードが、揃ってフィロメーナを抱き締めてくる。
フィロメーナも甘えるように、ぎゅっと兄たちにしがみついた。
父は、そんな仲良し三兄妹を呆れたように眺め、ため息をつく。
「本当にうちの子たちは仲が良いな。フィーが嫁に行く時が来たら、どうなることやら……」
その数日後。
公爵家から知らせが届いた。
フィロメーナの婚約者となった公爵令息と、顔合わせをするように、と――。




