84 春宵一擲Ⅳ
まぶしい陽の光に包まれ、さわやかな風が吹いた。
葉擦れとともに、エメラルドグリーンの影が軽やかに踊る。
あれは、タオがシズ村を出て、明けた朝だったか。
その前夜、タオは討伐隊と称する兵たちと戦い、気を失った。はじめてイスラと出会った夜のことだ。
気を失ったタオが眼を覚ましたのは、イグナスの背の上だった。
信用しかけていた。
いや、信用していたのだ。
自分は、軽率だったのだろうか。
怪我をしたタオを背負うイグナスは大きく、力強かった。一度、降りて早瀬で水を飲んだが、その後もしばらくは背負われていた。タオは必要ないと言ったが、「雇い主に死なれては困る」と、イグナスは引かなかった。
減らず口ばかりの傭兵だった。だが、憎めない男だった。
……感謝していたのだ。
──イグナス……。
蛇の瞳が、薄く眼を開いたティアに気づいた。
笑ったらしく、生暖かい呼気が口に入ってくる。当てつけるように、舌先で水音を立ててくる。
ザラつく悪寒が首の裏を這う。
頭ごと髪を掴まれ、金髪の鬘がずれた。地毛に太い指が差しこまれ、乱暴に梳くような動きに、鬘が絨毯の上に落ちる。長い黒髪が広がった。
ようやく、イグナスがティアの唇から離れた。
「こっちの方が好みだ」
手を取られたまま、ティアはイグナスの足元に突っ伏した。
「ぐ……」
イグナスから流し込まれた『何か』が、早くも体内で暴れはじめている。
吐きたいのに、吐けない。何度も嘔吐いた。
「苦しむ女を見るのは、いいもんだ」
イグナスがしゃがみ込んでくる。その手が、ティアの腹に置かれた。すこしずつ、力を込めて押してくる。
「やめろ……」
ずきりと痛みが走った。
「やめてくれ……」
のたうち、何度も頭を振った。
腹に疼痛があった。痺れるように、熱い。不自然な痛みだった。
「……気持ち……悪い……」
それだけを言った。わけもわからず、痙攣するようにティアの睫毛が震えた。
イグナスが、ただ愉快そうに笑う。
「いい表情だ」
ティアの足を掴み、
「返すぜ。これは、お前のだろう?」
言って、軽々と投げ飛ばした。
イスラは自分の体躯でティアを受け止める。
「ティア!」
カホカが駆け寄った。
「馬鹿! こんなとこで日和んな!」
心配そうにティアを抱き起こそうとするカホカに、
「触れるな」
イスラが、ティアの服を噛み切った。
「これって……!」
カホカは絶句した。イスラが噛み切ったティアの服の下、その腹あたりに、蛇の刺青が浮き上がっていた。
ティアの呼吸が浅い。その呼吸に合わせて、刺青が膨張と収縮を繰り返しているようにも見えた。
「熱い……」
瞳が虚空をさまよっている。
「力が……変……なんだ……」
瞳の色が一瞬だけ赤味を帯びるも、すぐに元の灰褐色に戻ってしまう。
「これ、どうすりゃいいの?」
カホカが顔を上げると、
「気を抜くでない。来るぞ」
イスラの瞳の動きに、カホカは跳び退いた。一瞬間後に、イグナスの拳が床に突き刺さる。拳を引き上げると、絨毯もろとも床に穴が開いていた。
「嬢ちゃんにゃ、さっきのお礼をしないとな」
イグナスが剣をふるう。鋭く、速い。動きが読みづらい。
「いらねーよ」
それでも、カホカは剣を避けた。イグナスの筋肉の動きや癖を見抜き、後れを取らぬよう神経を研ぎ澄ます。
一方、満身創痍のレイニーも、
──動いてくれたね。
棍に力を込めた。どっしり構えて待たれるより、動いている最中のほうが隙を狙いやすい。
レイニーは気力を揮って飛び出した。イグナスの右側面に回り込み、
「はぁっ!」
肩の関節部に棍を突き入れた。
──手応えあり、だけど……。
イグナスの肩が外れる感触が伝わってくる。が、イグナスは痛がるどころか、すぐに剣を返してきた。
──やっぱり止まらないね。
棍で受けるも、力が強すぎる。防御した棍が弾かれた。
「ふざけた話だねぇ」
レイニーは吐き捨てる。やはり、萎えた足腰では受け流せない。
「クク……」
イグナスが左の拳を放った──瞬間、ばしゃり、と。レイニーの目の前で黒い水が飛び散った。
「──なんだい?」
驚いたレイニーがよくよく見ると、自分と、イグナスの拳との間に、水の膜が浮かんでいる。
「……狼か」
イグナスが横目にイスラを見やった。
その隙を見逃さず、カホカがイグナスの左手首を掴んだ。
「調子に乗りやがって、こんのド変態が!」
イグナスの肘関節に掌底を叩き込む。ごきり、と関節が粉砕される音が響いた。止まらず、カホカは踏み抜くように足の膝蓋骨を破壊する。逆の足で刈り取るように両脛を蹴り、イグナスに尻もちをつかせた。
「あ~ら、ごめん遊ばせ」
息つく暇を与えず、手首の関節を極めながら背後を取った。
「ぶ ざ ま」
にひ、と凶悪な笑みを浮かべ、容赦なくイグナスを壊しにかかる。後頭部を膝蹴りで割った。さらに両足でイグナスの腕を挟むと、
「せぇのぉ……」
真上に跳び、躊躇なく床に倒れ込んだ。
にぶい音とともに、イグナスの腕から骨が皮膚を突き破って出てくる。
「うっそぉ~!」
と、カホカは内股を作り、いやいやをする。
「あの人、腕から骨出してる! ヤバイ、すっごく痛そう! ザマミロ、死ね!」
しかし、すぐにイグナスの身体のあちこちから、黒い霧が立ち上りはじめた。
「……かわいい顔して急所を突いてくる」
跳び起き、こちらの顔めがけて剣を突いてくる。けれども、遅い。カホカが難なく見切ると、イグナスの口の端が不気味に持ち上がった。
──なんだぁ?
カホカが思った時、イグナスの肘から突き出た骨が、蛇になった。
「あ、この──っ!」
蛇はカホカの首をぐるりと一周し、締め上げてくる。
──炎神!
カホカが唱え、蛇から脱出を試みるも、
「……なんで!」
魔法が、発動しない。
「……ぁう……ッ!」
カホカは悲鳴を上げた。脇腹を、イグナスの太い指が掴んでいる。
「ここが一番効くよな?」
ドレスの上から傷口を広げるようにえぐられた。
「うぅあぁ!」
激痛に悲鳴を上げた。
イグナスに頭を掴まれた。ティア同様、カホカは無理やり顔を上向かせられた。
「嬢ちゃんにも埋めてやるか」
「やめろ、変態!」
カホカの拳が、イグナスの身体を打つ。確実に急所を捉えているにもかかわらず、イグナスはひるむ様子さえ見せない。
「やめろってば!」
必死になって抵抗するも、力で押さえ込まれてはどうしようもない。イグナスの舌が、べろりとカホカの頬を舐めた。
「やだって──!」
きつく閉じたカホカの唇を、イグナスの舌がこじあけようと迫る。
なんとか拒もうとするカホカの背後で、ダークブロンドの髪が舞った。
「カホカ、じっとしておいでよ」
何度も棍を握り直し、レイニーが鋭い眼光を放つ。
「ケェッ!」
渾身の力を込めた棍が、イグナスに突き出された。
イグナスの両肩、そして両脇腹に四連の突きがほとんど同時に着弾する。間に挟まれたカホカを避けるため、節が折れて山なりを作っていた。
イグナスの身体がのけぞった。
レイニーは蛇を巻き取ると、イグナスの腕から引きちぎった。
「クソ蛇が!」
蛇を壁に叩きつけながら身を翻し、
「死ねぇ!」
遠心力を加えた棍が、イグナスの分厚い胸筋を刺し貫いた。
「悪くない。が、惜しいな」
それでも踏みとどまったイグナスが、レイニーの首を刎ねようとする。
「こっち」
レイニーの腕を、カホカが掴んだ。自分の身体と入れ替える。
イグナスの剣がカホカの首を刎ねた。その首が残像となって消える。
「──残像が作れないのは、捕まってる時だけか……」
どうやら、イグナスに直接触れられていると力が使えなくなるらしい。
カホカは間合いを外した位置から現れ出た。
はぁ、と大きく溜息をつき、
「あー、めっちゃしんどい……」
押さえた脇腹から、再び出血がはじまっていた。
よろめき、崩れ落ちそうになるのを、レイニーに抱き止められた。
「クク、嬢ちゃんもよく頑張ったほうだぜ」
対するイグナスは、やはりダメージがなさそうだ。裸の上半身は、かすり傷ひとつない状態に戻っている。
──うぅむ……。
カホカは薄れゆく意識のなか、
──これ、やばいな。
ファン・ミリアと戦った時よりも、希望が見当たらない。
──全滅するかも。
自分も。
死ぬなら死ぬで、仕方ない。
すくなくとも以前とはちがうと思えた。リュニオスハートの洞窟の時のような、戦うことをあきらめ、何もしなかった自分ではない。
レイ二ーをウル・エピテスから救出できなかったのは残念だが、胸を張れるくらいには頑張った気はする。
「目が、しぱしぱする……」
霧がかかったように、視界が薄くなっていく。
レイニーに抱かれているため、イグナスの立つほうではなく、廊下の逆側が見えた。あらためて見る廊下の幅は広く、大人が三人ほど、手を伸ばして立つことができそうだ。
そして、長い。絨毯の敷き詰められたその先は、かすむ視界とも相まって、どこまでも続いているような錯覚を覚えた。
──あれ……なんだ……?
その霧の向こうから、誰かが歩いてくる。
朝霧のように周囲を染め上げる青い光とともに……。
その鮮やかすぎる光が、カホカに意識を取り戻させた。
「レイニー、伏せて!」
カホカは叫ぶと、レイニーに足をかけた。
「カホカ?」
驚くレイニーもろとも、ふたりの身体が絨毯の上に投げ出される。
「あんた、何を!」
言った直後、レイニーの上を、まばゆい光の奔流が通過していった。
「おお──? おおおお──!」
直撃を受けたイグナスが光の奔流に吞み込まれ、吹き飛ばされていく。
「……これは?」
事態が把握できないレイニーの隣で、
「サティ……!」
驚きのままに、カホカはその名を口にした。




