79 嵐の中でⅪ
迎賓館、右棟一階。
客室は暗い。
ドア付近に立つふたつの影が、寄り添っている。
カホカの扮するオクタヴィアと、貴族の男である。
抱き寄せられ、オクタヴィアの頭が男の胸元に押し付けられた。背筋を男の指がすべっていく。
男の手に、まだ熟れきっていない女の身体つきが伝わってくる。その手触りを楽しみながら、抱きしめる腕に力を込めた。
オクタヴィアの口から、吐息が漏れた。その手が、すこしだけ苦しそうに男の服を掴み、緩めようとするのを、男は構わず抱きしめ続けた。
──十分ほど前。
大ホールで男と言葉を交わしながら、カホカは内心、気が気ではなかった。
──何やってんだ、ティアのやつ!
ティアが、ファン・ミリアに話しかけている。カホカは笑顔を浮かべつつ、視界の隅でふたりの姿を捉えていた。
幸いと言うべきか、一触即発という雰囲気ではなさそうだ。かといって、和やかと呼べるほどでもない。
残ってティアとファン・ミリアを様子見したほうがいいのか。
悩みかけたものの、会話中、ファン・ミリアがティアから顔を──というか体をそらした。その隙に、ティアがカホカに視線を送ってくる。
『早く行け』
ちいさく顎を振ったティアの表情が、そう語っていた。
──わかったっての。
目算あってのことかはわからないが、急かされた以上、信じて任せるしかない。
「申し訳ありません。少々、失礼いたします」
カホカは目の前の貴族の男に頭を下げた。そうして、
──どっちから行こうかな。
正面扉か、給仕用の通用口か。
考えていると、その男に手を掴まれた。
「どちらに行かれるつもりですか?」
男の顔が、間近に迫ってくる。カホカは驚いて眉を開き、
「どちらにと言われましても……」
戸惑いを浮かべ、わざと口ごもった。立ち去ろうとする女性を引き留めるだけでなく、行き場所まで聞くのは野暮に尽きる。カホカが困って視線を迷わせると、
「何者だ、女?」
これまで笑顔だった男の顔つきが一変した。脅すように問い詰めてくる。
「お前はオクタヴィアではあるまい。ベステージュは、私も知っている」
「いえ、私は……」
カホカは唇を震わせながら、
──コイツ、なんでベステージュって知ってんだ?
決して自分からは名乗らなかったはずだ。
カホカは考え、そうか、と思い至った。
ティアが、貴族の娘に訊かれて答えたのだ。それを耳ざとく聞いていたらしい。
「……お許しください」
唇から、弱々しい言葉が紡がれていく。
「一度だけ……人生で一度だけでも、華やかなウル・エピテスを見てみたかったのです」
お許しください、とカホカは繰り返す。
「秘密にしていただければ、何でもいたします。二度とこのような場所に来ようとも思いません。ですからどうか……」
取られた手で、逆に男の手を掴みなおす。
カホカがすがるように懇願すると、
「ほう、何でもすると?」
これまで上品を取り繕っていた男の表情に、野卑な色がありありと浮かぶ。
──ま、貴族ってこんなもんだよね。
元貴族であるカホカから見れば、落胆するには及ぼない。宮廷に蔓延る差別主義。強欲をその笑顔と見栄で包み隠す技術は、彼らの専売特許である。
「はい……ご随意に」
あきらめ、うなだれた仕草を見せると、男が鼻息も荒く、カホカの手を取って正面扉へと歩きはじめた。引かれながらカホカがこっそり周囲をうかがってみたが、男の行動に不審を抱く者はいないようだった。皆、食い入るようにホールの中央を見つめている。
──こっちが利用させてもらおっと。
カホカは考え直して算段をつける。
ちょうどティアとファン・ミリアが踊りはじめたところだった。
◇
そして今──男に連れ込まれた客室にて。
カホカを抱きしめていた男が、ズルズルと床に崩れ落ちていく。
あっさり男を昏倒させたカホカは手首を回しながら、
「アタシの身体をベタベタ触りまくりやがって」
不機嫌に言い、二度、三度と男の身体に蹴りを入れた。
「金払えってんだ、ボケ」
好きでもない男に触られるほど不愉快なことはない。
一向に気は収まらないが、この男にかかずらっている余裕はない。
「ったく」
カホカはドアの鍵を閉め、窓辺に寄っていく。両開きの窓を開け放つと、すぐに雨風が吹き込んでくる。
「あーあー、ぜんぜん止んでないじゃん」
愚痴をこぼしながら、カホカはドレスのスカートに手を差し入れると、あらかじめ足に巻いておいた篭手をはずし、自分の左手に巻きなおした。
篭手は、武器職人ボーシュ・ガルタが作成した親方作品である。まだ試作品だが、ボーシュに無理を言って借りてきたのだ。
カホカは窓の桟の上にふわりと跳び乗った。
ドレスが濡れる感覚を無視し、カホカはきょろきょろと外を見渡した。嵐のなかに聳え立つウル・エピテスの尖塔群のうち、レイニーの牢獄がある塔は頭に叩き込んでいる。
「──まずは、どこを使おっかな」
言いながら、近くの手ごろな尖塔のうち、壁から張り出した魔除け像──青銅のガーゴイルに篭手を向けた。
篭手の外側に取り付けられた引鉄を引いて離し、 鈎付きのワイヤーを発射する。ガーゴイル像にワイヤーが巻きつき、鈎がかかった。
篭手に内蔵されたぜんまい仕掛けによってワイヤーが巻き上げられ、窓から飛び出したカホカの身体を勢いよく引き上げていく。
「楽しいけど、雨がヤバイ!」
ぺっ、ぺっ、と口に入ってくる雨を飛ばした。
◇
同時刻。
大ホールにて。
踊り終え、ユーセイドが視線をそらした。
ほぼ同時にファン・ミリアも気がついた。大ホールの正面扉から、明らかに参加者とは別の装いの集団が入ってくる。通常の衛兵ではなく、重装備をまとっている。
──あれは。
ファン・ミリアのこめかみに、冷たい汗がつたう。
「……特務部隊」
その、特務部隊を率いて闊歩してくる人物。
「皆の者、その場から動かぬよう」
ウラスロが声を張り上げた。
「いまここに賊が忍び込んだとの報があった。各位には申し訳ないが、余が直々に検分を行うゆえ協力を願いたい」
ウラスロの言葉に、ファン・ミリアは一歩踏み出していた。その背にユーセイドを隠そうとするも、
「ウラスロ……」
ユーセイドの顔が憎悪に歪んでいる。
「落ち着け……!」
ファン・ミリアは止めようとしたものの、間に合わなかった。周囲から叫び声が上がる。
「見て!」
「化け物がいるぞ!」
先ほどの喝采とは打って変わり、恐怖と驚きの視線がユーセイドに注がれる。
瞳に赤い光を宿したユーセイドの身体が、黒い霧に変じはじめていた。
「なるほど、報告は真であったか」
異常を察して壁となった特務部隊の背後から、ウラスロの顔がのぞいている。そのウラスロと、ユーセイドの視線がぶつかった。
その瞬間である。
ファン・ミリアはユーセイドの奇妙な表情を見た。
憎悪、ではない。目を見開き、どこか動揺しているような、不可解なものを目の当たりにした時のような表情である。
──何だ?
ユーセイドはウラスロの何を見たのか。しかしファン・ミリアに考える時間はなかった。ユーセイドの瞳が再び憎悪に燃え上がり、赤い輝きを帯びる。
──いけない!
ファン・ミリアはとっさに掌に力を込めた。星槍ギュロレットを紡ぎ出すと、
「退け!」
派手に光が弾けるよう見せつつ、出力をギリギリまで抑えた星槍が、ユーセイドの腹に打ち当たった。
『……すまない』
その囁きが彼に聞こえたかどうかはわからない。星槍をユーセイドの身体に引っかけるようにして、ファン・ミリアは外のバルコニーへと通じるガラス扉めがけて振り抜いた。
女客たちの甲高い悲鳴、そしてガラスの割れ散らばる音とともに、欠片が光を反射する。
ファン・ミリアはすかさず吹き飛ばしたユーセイドへと駆け寄った。敷居を跳び越えてバルコニーへと出る。降りしきる雨に打たれながら、そこには誰もいない。
素早く夜空を見上げると、部屋の明かりを受けた雨が、ファン・ミリアの顔へと降り落ちてくる。
背後に、駆け寄ってくる特務部隊の気配を感じた。
「化け物は私が追う。お前たちは殿下をお守りしろ!」
ファン・ミリアが有無を言わさぬ口調で言うと、その気迫に呑まれたように『承知!』という返事があった。
ファン・ミリアはスカートの横を裂いて切れ込みを作ると、膝を曲げ、深く腰を落とした。両足に力をこめる。
ヒールの高い靴が青い輝きをまとう。ラズドリアの盾を靴の下、石床との接地面に展開し、反発させた。
次の瞬間、ファン・ミリアの身体は高く舞い上がっている。
「どこだ──?」
さらに障害物を利用して蹴り上がり、ファン・ミリアは嵐の中で光を連ねるウル・エピテスを見渡した。




