城下の戦い
一五四五年 吉川少輔次郎元春
空が明るくなり始め本丸攻めの準備が整った頃、曲輪の塀に上って外を見ていると南の方から迫ってくる気配のようなものを感じた。
この気配は何度も感じたことがある。敵の軍が迫って来るときの気配だ。大友とぶつかった時も、新宮党とぶつかった時も同じ様な胸が苦しくなるような嫌なものを感じた。
最初はそれが明確に何を示すのか自分で分からずにただその纏わりつく様なものに気味の悪さを感じていたが、暗殺されかけたおかげでこの感覚が敵意なのだと理解した。
あの殺されかけた瞬間、何かねっとりとした気味の悪さと悪寒は今後二度と忘れることはないだろう。その気配は間違いなくここに近付いて来ている。
一つの意識が共有されている軍は特にその気配が濃くなる気がする。要するに強敵だ。この感覚は大事にしたい。多分間違っていないはずだ。
「次郎様、向こうの山ぁ、騒がしくなってきただよ…」
近くに控えていた権兵衛(佐東金時)も顔を険しくしている。農民出身でありながら山に潜り一人で食を得るため狩りをして野生の動物と何度となく命の取り合いをしていた権兵衛もこういった気配に聡い。前に権兵衛とこの気配に付いて話したことがあるが動物はこんなにねっとりと纏わり付く様な感じではないらしい。人間特有なのだそうだ。
「権兵衛も感じるか。…敵だな?」
「んだ。こっちに向かって来てるだよ次郎様」
そう言って権兵衛も南を睨みつけるように視線を送る。南はまさに今毛利本隊と尼子が赤名峠で戦し合っている筈だ。そこからこっちに規模は分からないが軍が来ている。
権兵衛も同じ様な感覚を感じたならまず間違いなく敵が来てると思っていい。作戦通り敵が来たのだと。塀から身体を投げて地面に着地する。やっぱり前より鎧兜が重く感じた。本調子まで戻るにはどれ位掛かるんだか。
「なら間違いないか…。はぁ…」
「次郎様大丈夫だか?」
「あぁ、すまん。大丈夫だ」
作戦通りとはいえ抑えきるには相当しんどいだろう。楽な戦なんてものがあればいいんだけど。溜息なんて吐いたせいで権兵衛に心配させちまった。いかんいかん。大将が戦の前に辛気臭い感情を表に出したら味方の士気を下げちまう。気丈に振舞わねえと。
後は物見からの報告で答えを明確にしたいところだが…。
そう思っているとタイミング良く勘助(山本春幸)と刑部大輔(口羽通良)がこちらに駆け寄ってくる。物見の統括は二人に任せてるからまさに情報が届いたんだろう。
「敵か?」
「へ?は、はっ!次郎様の仰る通りです!北から尼子の軍が迫っていると物見からの報せです。良く分かりましたな」
刑部が報告する前にこっちから予想を口にすると何で知ってるんだと言わんばかりに目を丸くして驚きながら、俺の予想通り敵の存在を告げる。この時代に来てからどうもこの辺の感覚が鋭い気がする。元々吉川元春に備わっていたのかな。流石毛利の武を担っていた両川の片割れだ。
どちらにせよここまでは親父(毛利元就)狙い通りだ。親父の狙い通りに戦が流れていることに今更ながら味方でも恐怖心に駆られる。本当に親父が親父で良かった。
「何となくな。本当に親父の狙い通りか。皆を集めてくれ」
「畏まりました」
後は俺がしっかり親父の期待に応えるだけだ。前線で戦えない分、気合を入れて指揮しないと。
願わくばこれが尼子との戦の最後になるといいんだがな。皆に声を掛けに言った二人の背中を見やりながらそう思った。
一五四五年 吉川式部少輔経世
次郎様からの呼びかけがあり主だった将が屋敷に集められる。この曲輪を占領した日から軍議の際は毎回使っていた大広間だ。
どうやら赤名峠で戦っていた部隊の一部が此方に援軍として向かって来ているようだ。当初から想定していた展開だ。この展開を想定していた毛利の殿の深謀遠慮には本当に恐れ入る。全くどんな頭をしていたらこんなに敵の動きが読めるのかの。儂には全く分からん。
全てが彼の方の狙い通りに動いているではないか。妹である美伊は本当に良き方と結ばれたのだと実感する。
「敵は誰が率いてきてるか分かるか?」
「恐らくは佐世ではないかと思われまする。数はおよそ千」
「千…」
皆が集まると早々に軍議が始められた。次郎様は事前に聞いていた筈だ。それでもわざわざ問いかけたのは我々にも知らせるためのものだろう。勘助殿が問いに対して静かにそう応える。
佐世清宗か。尼子家の中でも名の知れた重臣よな。
「佐世か。大物だな。それに当たり前だが数もこちらより多い。親父は当主自ら動くんんじゃないかって言ってたけどそこまで上手くはいかんか。どちらにせよ敵が来たならその後に兄貴(毛利隆元)が追ってくれてるだろう。城攻めの用意をさせた後で悪いが予定通り城攻めは中止して敵の援軍を止めるぞ」
想定では当主自ら救援に来るとしていたがそこまで上手くはいかんか。次郎様も残念そうに言ってはいるが特段気落ちした様子もない。来たら幸運程度だったのだろう。城攻めの用意は無駄にはなるが最初からこうなる場合が来ることは分かっていたこと。誰もそれに対して不満を浮かべることはない。
「ですが本当に突破してきているんでしょうかね。お味方が敵を追ってきていなければ我等は耐えきれませんよ」
刑部殿が不安そうに苦笑いを浮かべながらそう口にした。
「それに関しては信じるしかねえな。だがこの戦は毛利家が尼子を滅ぼすための乾坤一擲の戦だ。兄貴は来るよ、きっとな」
「あー…、私も信じていない訳では無いんですけどね」
「分かってるよ刑部。不安に駆られる気持ちもな。だが来る。兄貴は」
次郎様が断言するようにそう仰られた。その答えにばつが悪くなった刑部殿は気恥ずかし気に頬を掻きながら補足する。それに対して理解しているとばかりに次郎様が頷いた。
「此方に向かって来ている敵の援軍が気付いているかどうかは分かりませんが、作戦が上手くいっていれば赤名峠の尼子軍は致命傷を負っていましょう。最悪ここで尼子を仕留め切れなくても尼子を再度追い返した毛利家の武名は上がり尼子家の面子を潰すことは出来ます。若殿(毛利隆元)様が来なければまた無茶な行軍で大内領へ逃げれば何とかなるでしょう」
勘助殿はこう言ってくれておるが、正直儂達には赤名峠の戦況がどうなっているかを知ることは出来ておらぬ。敵軍を間に挟んでいるため情報の行き来が出来ていないせいだ。
だから今話している内容はあくまで全て上手くいっていればという仮定の話。最悪を言ってしまえば赤名峠で毛利軍は破れ尼子本軍が毛利の残党狩り。吉川軍を狩れる数だけ先行させてこちらに来ているという事もあり得はするのだ。
でもそれは皆も分かっていること。縁起でもないことを口にしては士気が下がる。作戦は成功しているというその仮定を信じて儂達も動かなければ肝心な所で失敗しかねない。
だから赤名峠での戦が失敗に終わっているという予想は一切目を背けている。刑部殿が不安を思わず口にしてしまったのもそれがあるからであろうの。
「作戦の失敗は考えたくないが俺達だけならどうとでもなるだろう、勘助、刑部。今考えるべきは俺達はあの尼子を滅ぼすっていう大きな戦を仕掛けてるということだ。危ない橋を渡ってるのは重々承知だが、だからこそやり甲斐があるってもんだ。そうだろ?」
「…ふふ、初陣で怯えていた方とは思えませんな、次郎様」
「どうよ、俺も成長したろ?一度死にかけてるからな」
次郎様の言葉を意外そうな表情で聞いていた刑部殿から揶揄するように笑みが浮かぶ。次郎様も同じ様ににやりと笑みを浮かべる。緊張していた場の空気が程よく弛緩する。空元気かもしれぬが不安を口にするような辛気臭い大将も時にはいるのだ。そのように成長せなんだ事が大事だ。頼もしくなってきたものだの。支え甲斐も出るというもの。
「もう腹は括ってる。それにこの戦であの尼子に勝てるのを想像してみろ。痛快だろう?間違いなく歴史に残る一戦になるぞ。俺達の働きがこの戦の最後を締めくくるんだ。なら景気よく戦ってやろう」
「「応!」」
次郎様の言葉に皆が頷く。それを見て満足そうに次郎様が頷くと再び口を開いた。
「とはいえ、だ。現状をまず把握しないと戦にならん。現状、兵は想定以上に温存することが出来ているが、それでも今こちらに向かって来ている敵兵の方が数が多い。それに敵を城に近付けぬようにするためにも俺等は打って出なけれりゃならん」
「打って出るのですか?本城を落とすことは出来ませんでしたが拙者たちは曲輪を奪うことが出来ております。大手門は無傷です。このまま下層の曲輪に籠城することは出来ませぬか?」
次郎様の説明の途中に向かいに座っていた倅の孫四郎(今田経高)が口を挟む。はぁ、話の間に口を挟むなとあれほど言っておったのに。
嫡男の少輔七郎(市川経好)は落ち着きのある男に成長したが孫四郎は落ち着きがない。
向かいにいる孫四郎に睨み付けるが孫四郎自身は次郎様を見ているために儂の視線に気付かぬ。戦では頼もしくなってきたがまだまだよ。全く。
だが孫四郎の言っていることも一理あった。それなりに苦労して手に入れた曲輪群だ。利用出来るならば利用したいと思うのは当然だろう。
次郎様は勘助殿に視線を移す。説明せよと言う事であろう。勘助殿が頷くと説明を始めた。
「孫四郎殿の仰ることも検討しましたが難しいと思われまする。我等はまだこの城を知らなすぎるという事。どのような仕掛けがあるか分かりませぬ。抜け道などもあるかもしれませぬ。それに兵数が足りませぬ。大手門は無傷ですがそこを突破されれば本丸への道は無数に御座います。つまり大手門が落ちればそこで我等は追う術が無くなるのです。それに本丸にはまだ体を残しておりますから前後で囲まれることになります。戦をする前から負ける際の事を考えるのは良くありませぬが、万が一の場合逃げ道が無くなってしまうのは戦をする中では看過出来ぬ問題で御座いましょう。…以上のことから曲輪の籠城ではなく打って出ることに致します」
「そういう訳だ。孫四郎、せっかく提案してくれたのにすまんな」
「いえ、そういうことなら仕方ありませぬ。口を挟んでしまい申し訳御座いませぬ」
勘助殿が分かりやすく説明してくれたおかげで皆が理解したように頷いた。
「いや、分からん事や思い付いたことはその場で発言しないとそのまま流れちまうこともある。だから口を挟むこと自体は改めなくていい」
孫四郎が素直に謝罪したことに驚く。口を挟んだこと自体には罪悪感はあったのかと。そして口を挟んでも良いのか。まだまだ次郎様のやり方は理解しきれておらんな。これからも学ばねば。
「となれば警戒すべきは先ほど勘助殿も仰っていた通り城内に残っている敵兵です。城からも兵が打って出てきた場合。まあ、確実に出てくると思いますがこの城からの兵とこちらに向かって来ている援軍に挟撃されればこちらが窮地となります。その辺はどうされますか?」
驚いている間にも平左衛門尉(宇喜多就家)が懸念点を口にした。誰かがその城からの兵を手当てしなければならぬという事だの。こちらの兵が少ない分難しい局面だ。
そう考えている最中に視線を上げると次郎様と視線が合う。成程、それが儂の役目となるかと察する。中々厳しい戦になりそうじゃな。
「伯父上、頼まれてくれるか?」
次郎様直々の御使命とあれば断れんの。守ることに関しては誰にも負ける訳にはいかぬ。
「元より儂の役目に相応しかろう。次郎様、遠慮せずに儂に命ずれば良いのです」
儂は祖父、玉台院(吉川経基)様のように激しく攻めるよりも守戦の方が性に合っていた。こういった戦であれば儂も次郎様の役に立てるであろう。
「分かった。伯父上には城兵が打って出てきた際の抑えを命じ、百名の兵を預ける。頼む」
「は、お任せあれ」
次郎様が小さく頷く。
「他の諸将は俺が率いて敵援軍、佐世とぶつかる。敵を止めることに全力を掛けろ。後ろは叔父上が必ず抑えてくれる。だから前だけを見ろ。俺がいない間も兵達は鍛えられていたのは行軍中にも理解してる。必ず抑えきれるはずだ。決して前に出ようとはするな。良いな」
「「はっ」」
「ではこれより出陣する。皆、準備に掛かれ!」
「「応!」」
次郎様の掛け声で軍議は解散し一斉に皆が動き始める。
「伯父上!」
城の抑えのための準備に取り掛かろうと席を立つとすぐに次郎様に声を掛けられた。皆はチラとこちらに視線を移すも準備のために大広間から出ていく。部屋には二人きりだ。
「どうかなさいましたかな?」
「いや、伯父上には難題を押し付けちまった。無理をさせちまうが伯父上なら出来るって信じてる。俺は必ず敵の援軍を抑えるから伯父上は城からの敵を頼む」
そう言って次郎様は深く頭を下げた。吉川家の当主の頭だ。決して簡単に下げていい頭では無いのじゃがな。次郎様にはそんなことを気にする訳がないか。
純粋に儂の身を案じてわざわざ声を掛けてくれたんじゃろうの。此度の戦は何処に身を置こうとも危険であるのに。可愛げのある御当主様よ。自然と笑みが浮かぶ。
「はっはっは!まだまだ若いもんには負けられませぬよ、次郎様。儂のことよりも貴方様自身をご案じなされませ。貴方様の事です。快復されたとはいえまだ以前に比べて体力は落ちているのです。此度の戦は前線へ出張ってはなりませぬぞ」
「分かってるよ伯父上。余程拙い事態に陥らない限りは指揮に集中するつもりだ。皆に心配を掛けて気を散らしたくないしな」
「ならば宜しかろう。ではお互いご武運を。勝った折にはゆっくりと茶でも飲みましょう。茶樹育成に伴い参考になればと上方から茶葉を買うたのです。戦が片付きましたらご馳走致しますぞ」
「そっか、なら是が非でも勝たねーとな。伯父上と茶を飲むのを楽しみにしてるぞ」
そう言って気持ちの良い笑みを浮かべる。
吉川少輔次郎元春。我ら吉川家の当主となられた妹の息子。儂から見れば甥にあたる子だがなんとも不思議な子だ。
物怖じせず様々な物事に興味を持ち、時には自分の手で百姓と一緒に鍬を持ち畑仕事をして百姓と笑い合う。とはいえ不真面目な訳では無く積極的に政務にも励んでいる。兵士たちと身体を鍛えることも嫌がるところか楽しんでいる様子。
まだ齢は十五程度だろうが既に立派に当主の役目を果たしている。他家への養子というのは難しい立場であろうに次郎様は儂らを顎で使うような真似はしないししっかりと立てて下さる。
前当主が盆暗だったこともあるだろうがこうして吉川家が立て直すことが出来たのは後ろ盾になってくれた毛利家、それと次郎様のお力だろう。
堺の町で凶刃に倒れられたと聞いた時は本当に肝が冷えたものだ。その時だったな。いつの間にか儂が次郎様の身を案じるほどに思い入れがあると気付いたのは。
次郎様がしっかりと戦えるように城から出て来るであろう敵はしっかりと抑えねばの。当主である前に可愛い甥っ子じゃ。しっかりと支えて差し上げねばの。例えそれが儂の死に繋がるとしてもの。次郎様の為なら悪くない。
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