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百万一心の先駆け ~異伝吉川太平記~  作者: 一虎
天文一四年(1545) 尼子激闘
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千代の想い



一五四五年  宇山(うやま)飛騨守(ひだのかみ)久兼(ひさかね)



「怪我人の手当ては女たちにも手伝わせよ!慌てずとも良い。敵の攻撃は収まっている。落ち着いて事に当たれ」


山頂部の本殿へと引いたところで完全に日が落ちた。三の丸の城門では今守備を固めているが敵の攻勢は収まったようだ。まさか焙烙玉が持ち込まれていたとは…。

それが運悪く、いや、狙って投げられたのだろう。櫓台で指揮を執っていた駿河守(中井久包(なかいひさかね))殿の下に投げられた焙烙玉はそこで爆発し火薬を覆っていた陶器の破片が散乱しながら駿河守殿を襲った。駿河守殿の近習が担いで逃げてきてくれたが既に血塗れであった。今手当てをしているが助かるだろうか。助かって欲しい。


左門に辿り着いた時には既に左門の敵将を抑え切ることは出来ぬほどに混乱が酷くなっていた。指揮していた駿河守殿が倒れられたのだから当然だろう。

左門の将は攻撃の手をわざと緩めてこちらが警戒しないように装ったのだ。ぬかったわ。まんまと騙された。

その敵は左門を破ると混乱する兵達を減らそうと襲い掛かってきた。何とか叱咤激励し混乱する兵を抑えながらこうして本殿に撤退することが出来たが動ける兵の数はさらに減った。嫌らしい手を次々打ってくる敵将に(はらわた)が煮えくり返る思いだ。


それに山中御殿を奪われたのは痛い。あそこにはこの城で一番大きい兵糧庫と、井戸と池があった。あそこさえ守り切れれば敵は痩せ細っていくだけだったものを…!

悔しさから櫓の柱を思わず殴ってしまった。周りの兵達がびくっとこちらに視線を送ってきたため『気にするな』と声を掛けた。

遠江守(とおとうみのかみ)湯原久信(ゆはらひさのぶ))が気を利かせて兵糧を多く回収させてくれたおかげで敵に奪われた兵糧の被害を少なくすることが出来たが、それでも敵は息を吹き返すだろう。


「飛騨守殿!」


「遠江守か、どうした」


「駿河守殿が今、亡くなられました…」


「…!そうか…。報告感謝する。何か仰っていたか?」


「はい、殿を頼む、と。殿なれば尼子はさらに繁栄する。それをあの世から見ていると。笑って逝かれました」


「そうか、…大事な方を逝かせてしまったな」


「はい」


間に合わなかったか。あれだけの量の血を流されたのだ。当然か。それでも笑って逝かれたか、駿河守殿。何とも剛毅なあの方らしい。乱世とはいえ惜しい方を逝かせてしまった。

あの方にはもっと教わりたいことが沢山あった。隠居後も殿のことで何度も相談を受けて頂いた。もう相談することも出来ぬのか。

いや、悔いたところで詮の無いことだ。目の前の苦難をまずはこなさねば。悲しむことはいつでも出来る。


「遠江守もご苦労だったな。済まぬが城門を頼めるか?私は奥方様へ報告してくる」


「畏まりました、お任せください」


遠江守も若いながらよくやってくれている。今夜は寒いからな。後で酒でも持って行ってやらねば。兵達にも労うために酒を振舞ってやろう。だが先ずは奥方様へ報告せねばな。






一五四五年  尼子千代(あまごちよ)



千歳(ちとせ)長童子(ちょうどうじ)、母はこれから話を聞かねばなりませぬ。少し席を外しなさい」


「はい、母上。長童子、行くよ」


「母上…」


侍女が部屋の外から飛騨守殿の来訪を知らせてきました。

長女の千歳、嫡男の長童子に部屋から下がる様に伝えると心配そうな面持ちを見せながらも素直に従う千歳。寂しそうに私に離れたくないとでも言う様に手を伸ばしながらも千歳に手を引かれながら去っていく長童子。侍女に案内させ部屋から出ていく二人を見送ります。


部屋に入ってきた飛騨守殿を前に改めて座り直します。

目の前には血と砂埃に汚れた飛騨守殿が座られた。身に付けている甲冑には敵の攻撃で付いたと思われる生々しい傷が幾つに付いているのが目に入りました。山中御殿が落とされた際に殿として敵と刃を交えたと聞きました。恐らくその時の傷でしょう。

幸いなことに飛騨守殿本人は軽傷で済みました。ですがその攻防で駿河守(中井久包(なかいひさかね))殿が討たれてしまった。


駿河守殿は殿(尼子(あまご)詮久(あきひさ))の傅役。今回の毛利からの急襲に隠居の身でありながら駆け付けて下さったのに。殿が知れば悲しむでしょう。

亡くなられた御父君の代わりに可愛がってくれたという話を殿自身から聞いたことがありました。

それに、そもそもこの大きなお城が攻められることになるなんて…。


「お時間を頂き忝のう御座います。御見苦しい姿で大変申し訳御座いませぬ」


「構いませんわ。今は戦時下、礼がどうこうと細かなことを言っている場合でないことは私自身も分かっているつもりです」


「有り難う御座います」


普段から礼節を重んじている飛騨守殿がこのような姿で現れる位です。現状、恐らくはそれ程余裕のある戦況では無いのでしょう。敵の声や太鼓の音がここまで響いてくるのですからそれも無理からぬこと。今こうして私の目の前にいるのも現状の説明をして下さるから。…この城が落ちることなどあるのでしょうか。


「単刀直入に伺います。この城は危ないのですか?」


「…あまり良い状況とは言えませぬ。山中御殿を奪われたことで敵は兵糧と水を得ました。兵糧は可能な限り遠江守が本殿に撤退する前に回収してきたのですがそれでも敵が兵糧不足で退却するという事は恐らく無くなったでしょう。今はまだ我等にも余裕が御座いますがこの事も含めて殿にはご報告せねばならぬかと。申し訳御座いませぬ…っ」


「吉川の当主は死んだと聞いていましたが。血狂い次郎という渾名(あだな)は本当なのですね」


「…はっ」


私の言葉に苦悶の表情が浮かんだ。言葉が詰まったのは取り繕うか迷ったのでしょうが正直に話してくれました。

床に頭をぶつけるかの勢いで下げられた頭。留守居を任されながら城を攻められ追い詰められている。その事を恥じているのでしょう。肩が小刻みに震えているのは女である私に対する恥、でしょうか。

飛騨守殿はあまりわたしがお好きではないようですから。


飛騨守殿ですら手古摺るほどの敵。侍女達も噂していました。血狂い次郎が鬼となって地獄から帰ってきたのだと。どんな恐ろしい方なのでしょう。

殿自身はその吉川家をそれ程脅威に感じている様子はありませんでしたが飛騨守殿や伊豆守(佐世清宗(させきよむね))殿は危険視していたと聞きました。だからこそ鉢屋衆を使って暗殺したと聞いていたのに、今はこうしてこの富田城を攻めてきている…。その事も飛騨守殿自身からすると気に入らない事なのでしょう。

血狂い次郎という方は尼子家を恨んでいるのでしょうね。



飛騨守殿が仰っているように本殿にも兵糧庫や井戸、池はありますが山中御殿にもあります。城に攻めて来る前に飛騨守殿は強行軍の為兵糧は少ないだろうと言っていましたから恐らく敵はその兵糧を得たという事でしょう。この攻撃はさらに続く。子たち、特に千歳が不安そうにしているのを見ると心が痛みます。何としてもあの子達だけは私が守らねば。


「頭を上げて下さい、飛騨守殿。私は話に聞いたことがあるだけで戦場を知りませんわ。ですが今の貴方の姿を見れば、この城を守る為にどれだけ命を懸けて下さったのか、分かるつもりです。…ですが、殿へ遣いを出すのは止めて頂きたいのです」


「それは、何故でしょうか?」


私の言葉にゆるゆるとだが頭を上げてくれた飛騨守殿ですが、政、戦に口出しをした私を訝しげに見ています。私も余計な口出しをしている自覚はあります。ですがこれだけは私の懸念をお伝えしなければ。


「殿から届いた最後の報せでは尼子の皆様が毛利家を押していると聞きました。間違いはありませんか?」


「間違いありませぬ」


「殿が毛利家をこの戦で滅ぼそうと考えている。これは殿だけでなく皆様も同様と考えて宜しいのですか?」


「はっ、毛利の伸長は尼子にとって看過できぬ程になっております。そのために殿は山名に下げたくない頭を下げて戦に赴かれました」


「私も出陣前に殿から同じ様なことを聞きました。であるなら、やはり殿に遣いを出すべきではないと私は思います」


もう一度念を押す様に言うと続きを促す様に飛騨守殿が頷きました。


「私の知る殿、尼子三郎様は月山富田城が攻められていると知れば、必ず自分が城に戻ると言いかねません。周りに止められようと無理を押し切ってこの城に戻ってこられようとなさるはずです」


「そんな、まさ…か、いや、まさか…」


私の言葉を冗談と受け止めたのでしょう。苦笑いを浮かべる飛騨守殿。ですが私が決して冗談を言っているわけではないこと。それと心当たりがあったのでしょう。徐々に表情から笑みが消えます。今では眉間に深い皺が刻まれました。


「奥方様と御子様を守る為に、ということですな」


「…はい。どれだけ過少に報告を抑えたとしても殿自身が戻ると言うでしょう。私たちを失わないために。ですがそれを聞いた家臣の皆様、国人衆の皆様はどう思われるでしょう。勝ち戦の最中に殿自身が救援に向かおうとする。皆様は不安に思うのではありませんか?殿では頼りにならぬと」


私とて武家の女。それくらいのことは分かります。殿自身も分かっている筈ですが。恐らく止まらないでしょう。愛情深いお方ですから。


「そういうことですか…。確かに私も殿であれば奥方様の仰られる通りに動かれると思います」


「尼子が勝つためにお願い致します。私は殿に、四郎様に勝っていただきたいのです…!」


飛騨守殿に懇願するように深く頭を下げます。女の身である私がこのような事を進言するのは差出がましいことでしょう。

ですが殿は御父君と御母君をほぼ同時期に失ったことで身内を失う事を酷く恐れています。御爺様(尼子経久(あまごつねひさ))はいらっしゃいましたがお二人の関係は祖父と孫のような温かな関係では無く主君と跡継ぎの関係だったように私からは見えました。


今でも寝ている時に(うな)されるほど殿の御心の傷は深いのです。

私はそんな殿をお慕いしています。それに自惚れでもなんでもなく殿から愛されていると自覚できるほど寵愛を頂いている。だからこそもし私に、私たちの子に何かあれば全てをかなぐり捨ててでも戻って来るのではないかと思うのです。飛騨守殿が気付いたという事は飛騨守殿から見ても殿には危うさがあるのでしょう。殿の優しさと深い愛情が殿の動きを制限してしまうなんて…。


ですがこうも思ってしまう。それだけの深い愛情を注いでいただけることがどれ程幸せなのかと。

家中の絆を深めるための政略結婚で私は殿に嫁ぎました。気難しいと聞かされていた私はこの結婚を不安に思っていました。ですが私の予想に反して殿は私を愛して下さいました。

その後、私の父(尼子(あまご)国久(くにひさ))が粛清された時も私に謝られ、今も時折私に対して申し訳なさそうにされることがあります。

父が殺されたことに対して私自身思わないものが無かった訳ではありません。ですが私自身が既に殿側の人間になっていました。そして父がどれ程殿にとって障害となっていたかを知ってしまえば殿をお止めすることが出来ませんでした。


あの件で私自身遠ざけるなり、離縁して美作にいるらしい兄(尼子(あまご)誠久(まさひさ))の元へ送り返しても良かったはずですが、それもなさらず今も変わらずに愛して下さる。それがどれだけ嬉しく幸せであったか。…浅ましいですね、私という女は。今はそんなことを考えている場合ではないというのに。

でもだからこそ殿に判断を誤っていただきたくない。私が足枷となる訳にはいかないのです。


「…分かりました。奥方様の仰られる通りに致しましょう。御進言有り難う御座います。私では気付けぬ事でした。ですが、抑え切るつもりではいますが万が一、何かあった時は早馬を出します」


しばらく考えるように瞑目されていた飛騨守殿でしたが納得したように最後は了承してくれました。良かった。隠し路がありますから、もし危なくなればそこから早馬でも私たちが避難することも叶う筈。


「それと」


「それと、なんでしょう?」


「この戦が勝利した暁には私と共に殿に叱られていただきますぞ?」


「まあ!ふふ、そうですわね。はい、その時は覚悟しておきます」


思わず笑ってしまいました。飛騨守殿も笑っておられます。まさか飛騨守殿が私にも冗談を言って下さるなんて。

でもこれで足を引っ張る心配は無くなりました。後は殿が必ず戦勝の報を齎してくれるはず。信じて待ちましょう。







【新登場人物】


尼子千歳  1538年生。尼子詮久と千代の子。母親に似て落ち着いた面倒見のいい子。-8歳

尼子長童子 1540年生。尼子詮久と千代の子。嫡男。史実の尼子義久。-10歳

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