月山富田城奇襲
一五四五年 吉川少輔次郎元春
死にかけてから初めての甲冑は思いのほか重かった。そりゃそうか。意識を取り戻してからまだ一年と経ってないんだから。でもだいぶ体力は取り戻してきてる。
死の床から目を覚まして飯が食えるようになってからは時間さえあれば口を動かして胃袋に食い物を放り込み続ける毎日だったからな。でもそのおかげで一ヶ月後には壁や柱に掴まりながらなら立てるようになった。動くということ自体がこれ程苦痛に感じることになるとは思わなかったなぁ。
本当に動けるようになるのか不安もあったが動かさなければいつまでも前の身体に戻れないと無理矢理奮い立たせた。
歩けるようになれば与四郎(田中宗易)殿の屋敷内を邪魔にならぬように壁を伝って歩く毎日。全く動かしてなかったせいですぐに筋肉痛になるほど衰えていたし思い通りに動かない身体に歯噛みする様な毎日だったが、肉や魚、野菜と腹いっぱい飯を食っているうちに普通に立てるようになった。
若さのおかげもあるんだろう。成長ホルモンをフルに活用しているのが自分でも分かるほど回復を実感できた。
与四郎殿には頭が上がらん。無論、向こうにも金銭を受け取ってるしこちらに恩を売りたいという狙いもあるんだろうが、縁が繋がったばかりの俺に対してよくもここまで手厚く助けてくれたもんだ。それにさすが堺というのもある。
俺が食べたいと無理をお願いしたがある程度の食材は言ったその日の晩にはすぐに用意されていた。商人の町というのは伊達ではないみたいだ。まあ当然だな。史実での千利休なんだから。この繋がりは特に大事にしていきたい。
三か月を過ぎた頃から走れるようになると勘助と権兵衛、世鬼衆から三人の男を連れて大和国(現在の奈良県)を旅した。あまり大人数でも怪しまれるし少なすぎても山賊に襲われたら対処が出来ないと付けられた訳だ。俺は戦力に数えられないしな。
目的地は興福寺宝蔵院。早く槍を前のように、あわよくばスキルアップするために宝蔵院流槍術発祥のこの地に訪れた。
いやあ、本当に行ってきといて良かった。凄腕の槍使いがわんさかといるんだ。訓練相手には事欠かない。旅の武芸者に対しても寛容で世話になる分の代金さえ払えば宿としても使わせてくれるんだから。
なかでも圧倒的に存在感を放っていたのは何と言っても胤栄殿だ。滞在中は一度も勝てなかった。あの長い得物すら身体の一部のように使いこなすのもそうだけど特に相手の動きを予測するあの目が凄いんだろう。
初めて対峙したときは立ってるだけでもすごい汗をかいたくらいだ。普段は闊達で気のいい兄ちゃんなんだけどな、太くてきりっとした眉に意志の強そうな目で、笑うと愛嬌があって慕われてるのも頷ける。
こんな俺とも気軽に手合わせしてくれたくらいだし。まあ、何度も何度も俺がせがんだせいでもあるけど。でも槍を持って対峙すると空気が変わるんだよなぁ。
それでも槍の使い方、特に狭い場所での槍の取り回し方や戦い方を学べたのはありがたいことだ。それと十文字槍。今まで使っていた素槍よりも刃幅は広がっちまうけど殺傷能力の上がったこれを手に入れられたのは本当に良かった。むしろ何で頭から抜けてたんだろう。十文字槍を見た瞬間真田幸村だ!って思う位には覚えてた筈なんだけど。
なんにせよ『突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし』と謳われるこの槍はこの戦から俺が前線で戦う際には重宝するはずだ。
「ここまでは順調ですな」
開け放たれた大手門を潜りながら今回の戦で復帰した兵庫頭(熊谷信直)が話し掛けてきた。こうして戦に出るのは兵庫も久し振りだろうけどすっかり傷も癒えたみたいだ。俺の副官として不安は無い。中々強引な進軍をしてきたが兵庫自身はそれほど疲れているようには見えない。
俺の後ろには兵庫の息子の次郎三郎(熊谷高直)と権兵衛(佐東金時)が控えている。
「進軍中は肝が冷え続けたけどな」
互いに顔を見合わせると自然と苦笑が漏れ出た。
作戦通りとはいえなかなか無茶をしてきたもんだ。今思い返しても背中が寒い。
大内家から道だけを借りて石見国から進軍。
大内家でも俺は死んだことと認識していたからかなり驚かれたみたいだ。親父があらかじめ話を付けといてくれたから俺が復帰するまでに吉川家の兵は少しずつ石見国の式部少輔(吉見正頼)の下に匿わせてもらっていたから他家から怪しまれることも無かっただろう。大内家としても東側で尼子家に大きくなられるのは不都合だからか快く受け入れてくれた。見送りにはわざわざ三河守(弘中隆包)が来てくれた。
恐らく本当に俺が生きてるのか確認に来たんだろう。その時に式部少輔殿とも顔を合わせたが元お坊さんらしく人の好さそうな、この人は信頼出来るんだろうなと思わせる雰囲気を持っていた。
こうやってある程度気遣いを示される程度には大内家は毛利を重要視しているのを見ると史実の大内家との関係性とは随分かけ離れちまってるな。頼りにはなるけど史実のように毛利家は九州に勢力を伸ばせないかもな。
進軍中は途中にある尼子所属の城を全て横目で見るだけで全て無視してきた。兵站も何もあったもんじゃない。電撃奇襲戦だ。持てる分の兵糧は各自持ったけどそれだって各自に精々片道分しか持ってこれなかった。早さが鍵のこの戦に重い荷物を持っての進軍は足を遅くするだけだからだ。
とはいえこれからの兵糧はこの城の兵糧庫を奪えるまでは狩りも並行してやらないと。最悪城下から無理矢理徴収、だな。気は進まないけど勝つためには仕方ない。勝ったらちゃんと返せば問題ないだろう。
石見国の山吹城から出雲国の月山富田城まで時に走り、時に歩きで強行した。1日10里(約40km程)位か。道なんか当然整備されてないから歩き辛い場所がいくつもあったし全員が通り抜けるまで時間が掛かるような道もあったが、それでも3日目には目的の月山富田城に辿り着いた。山中訓練ばっかりやってる毛利家の兵でなければもっと到着が遅れたろう。兵は拙速を尊ぶだな。常備軍様様だ。
親父には勝算が見えてこんな無茶な作戦を立案したんだろうけど俺みたいな木端武将じゃこんな作戦思い付いても実行できるかどうか。
進軍中はいつ敵の城から迎撃の兵が出てくるか気が気じゃなかったが、今にして思えば石見国に対する前線の城は俺達の進軍に気付いたとしても大内を警戒し出陣出来る状況じゃないだろう。大内の旗も借りたしな。
それに尼子家は今回の出陣は乾坤一擲だったのか中に入れば入るほど手薄で特に妨害されること無くここまで辿り着けた。
無茶とはいえここまでのことをしなくちゃ尼子に食われかねない。博打に博打を重ねなけりゃ毛利は大きくなれないんだ。
俺自身も死にかけて腹を括れたんだろう。昔ほど怖いという意識が薄れた気がする。いや壊れた、だな。
好都合だ。この点だけは尼子に感謝だ。殺されかけたことに関しては鉢屋衆も尼子家も絶対許さんが。
俺が復帰出来てなけりゃ月山富田城の攻略は太郎(毛利隆元)兄貴がやることになってたらしい。本当に戦線に復帰出来てよかった。史実よりも頼もしい兄貴が生きてさえいれば毛利家が崩壊することはない。後は早死にしなければいいんだけど。
尼子と直接ぶつかる赤名峠も今頃は激しくやり合ってるだろう。早く俺がこの城を攻めなきゃ親父たちも次の作戦に移れない。
とはいえ、だ。
さすがは天下の名城だわ。山全てが城って感じだ。うちの吉田郡山城も難攻不落の名城だけどこっちもこっちでぞっとするほど堅固だ。まあ、この時代の城はどこも大概山全体が城だけど。でもこの月山富田城は特に攻め辛い。史実では大内家の大軍を守り抜いたし、毛利家も何年かかけてやっと落としていた筈だ。その城を吉川家単独で攻めるんだもんな。
しっかりと守兵がいれば俺たち吉川兵だけじゃ当たり前だが落とせなかっただろう。明らかに無謀だ。守兵が少ないからこそ世鬼衆の手引きで搦手門から兵を入れて大手門を奪うことが出来た。親父が大軍を釣り出したおかげだし月山富田城に世鬼衆を忍ばせてくれたのもそうだ。鉢屋衆の目を掻い潜って忍び込むのはかなり難しかっただろう。実際に何人か犠牲になっているかもしれない。忍びの性質上決して表ざたには出来ないけど俺からも何か褒美を出したいな。
だがここからが問題だ。別の山から月山富田城を見たけど大手門を越えても楽になる様子は無さそうだった。なだらかな丘陵にいくつも曲輪が連なって備えられてるしその中央に屋敷が置かれている。遠くからじゃ良く見えなかったがその丘陵のさらに上、山頂部に本丸があるんだろう。
月山富田城を守っていた留守居は今頃は肝を冷やしているだろう。大手門を奪うときはさしたる抵抗も無かった。兵数を考えて大手門は捨てたんだろう。少しくらい抵抗してくれれば敵の数を減らせたんだけど。取捨選択の判断が早いわ。
大手門を越えてみると幾つか道が分かれてるんだよなぁ。全部山頂に繋がってればいいけど繋がってなければ無駄に時間を使う事になる。今回の吉川家の役目はどれだけ素早く月山富田城を脅かせられるかにかかってる。無駄な時間を使う事だけは避けたい。他の城が気付いてこの城に援軍を送られる可能性もあるんだ。
「一度軍議を開いた方がよくは御座いませぬか。時間はありませぬが急いては事を仕損じまする」
俺が難しい顔で城を見上げていたからか兵庫がそう提案してきた。
そうだな。俺一人悩んだって大した案なんか浮かんで来やしないんだ。開くか。
「そうだな。よし、軍議を開く、皆を呼んできてくれ」
「承知しました」
控えていた次郎三郎に声を掛けるとすぐに動き出した。もう一度目の前にある月山富田城を見上げた。せっかく死なずに済んだ命だ。出来れば勝って長生きしたい。親父の狙い通りに進んでくれよ。
【新登場人物】
宝蔵院胤栄 1521年生。宝蔵院流槍術の生みの親。僧侶にも拘らず武術を好む変わり者。+9歳




