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百万一心の先駆け ~異伝吉川太平記~  作者: 一虎
天文一三年(1544) 尼子の魔の手
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尼子三郎詮久



一五四三年 尼子(あまご)三郎(さぶろう)詮久(あきひさ)



『父上、父上』


『これ、いけませぬよ三郎四郎(尼子詮久の幼名)。殿はこれから御出陣なのです。邪魔をしてはなりませぬ』


これは、なんだ。いや、知っている。私の過去の記憶。そうか。これは夢か。懐かしくも、悲しい私の思い出。


『なあに、構わぬ。さ、又四郎。父を応援してくれるか』


幼い私が甲冑姿の亡き父、尼子(あまご)民部少輔(みんぶのしょう)政久(まさひさ)にそっと抱きかかえられた。傍らには亡き母(尼子松(あまごまつ))が微笑まし気に私たちを見ている。おそらく、何処にでもある幸せな家族風景だろう。私はその光景を他人事のように見ていた。


『はい!父上、帰ってきたら、また笛の音が聴きとう御座います』


『又四郎は本当に笛の音が好きだな。では早く戦を終えて帰ってくるとしようか』


『はい!父上、御早いお帰りを』


私は父上の笛の音が好きだった。父上はよく私に笛の音を聴かせてくれた。私の幼少期は父の笛の音で育ったと言ってもいい。

最初に聞いたのはいつの頃だったか。確か私が真夜中に厠に行きたくなり目が覚めたときか。あの夜のことは幼いながらによく覚えている。

満月の夜、月の光に照らされた父上が縁側で寂し気に笛を吹いていた。恐らく父上は亡くなった兵たちの為、弔うために吹いていたのだろう。戦から帰る度に同じ音曲を吹かれていた。それはとても幻想的で寂しさと温かさを同時に感じる、何とも不思議な気分にさせられたものだ。


この日も私は父上との約束を楽しみに見送ったのだったな。私を抱く父とそれを優しく見守る母。ずっとその光景を見ていたかった。だが無情にもその幸せだった光景はがらっと変わる。




次に視界が開けた時、そこには横たわる父と泣く私と母。

父上との最期であった。次に再会した父上は物言わぬ屍となっていた。時期が冬に差し掛かっていたおかげかそれほど傷んだ様子の無い父の亡骸に縋りついて泣いたのを今でも覚えている。

即死だったそうだ。喉には貫かれたように穴が開いていた。父上は戦場の兵士たちを鼓舞しようと得意の笛を吹いたのだそうだ。


だが敵はその笛の音が父だと気付き、その音を頼りに矢を撃ちこんだ。それだけ父の笛は有名だった。有名ゆえに狙われたのであろう。敵は余程の名手だったのか、それとも運が悪かったのか。矢の一本が父の喉を貫いた。



いつも優しく、頼もしい父上だった。そして未来を期待された武将だった。時の天皇にまでその文才を認められるほどの父が、私の自慢だった父上が、尼子の将来を背負って立つことを期待された父上が悲しいほど呆気なく討ち死にし、その生涯を終えた。


だが私にとっての悲劇はそこで終わらなかった。父上の後を追う様に母上も亡くなった。母上にとって、父上が生きる意味だったのだと今になって分かる。それ程、母上は父上を愛していたし父上も母上を愛し慈しんでいた。

だからこそ、父上が亡くなってからの母は、急激に生を手放した。悲しみから食べ物が喉を通さなくなり、毎日を泣いて過ごす日々。


私はせめて母にだけは生きていて欲しかった。父を失っただけでも辛いのに、母も失いたくなかった。だが私の願いは叶わない。励まそうにも母に拒絶された。私はあまりにも父に似すぎていた。だからこそ私を見ると父を思い出す。だから遠ざけられた。

襖越しに聞いた母の謝罪は今でも耳にこびり付いて離れない。


『申し訳ありませぬ、申し訳ありませぬ、又四郎。貴方が悪いのではありませぬ。貴方は私の愛しい子。ですが貴方を見ると辛いのです。貴方を見ると悲しいのです。貴方が殿にそっくりだから。貴方は悪くありませぬ。悪いのは弱い私。許しておくれ又四郎。弱い母を許しておくれ』


そう啜り泣く母に言われてしまえば、何も出来なかった。私が近くにいると母が苦しむと幼いながらに理解した。

だからせめて母が元気になる様に、毎日祈った。遊ぶことも忘れてひたすら祈った私の耳に届いた報告は母の死だった。衰弱し、現実を受け入れられず希望を失った母には生きること自体が苦だったのだろう。自分で命を絶った。奇しくも父と同じく首を刺して。


もう涙は出なかった。私自身が泣き疲れてしまったのか。それとも涙が枯れたのか。最早感情が揺れることが無かった。

そんな時、祖父から言われた。


『尼子の跡継ぎは又四郎とする』


祖父は父の才能を愛していた。だからその血を途絶えさせたくないと思ったそうだ。そして祖父は私を立派な跡継ぎにしようと教育を始めた。私は必死に祖父の教育に食らい付いた。尼子の跡継ぎ、父が皆に望まれながら叶わなかった尼子家当主。それだけが亡き父上との最後の繋がりに思えた。だからそのか細い繋がりを断ちたくなかった。


だが家臣たちは必ずしも納得していた訳では無いことを私は後に知った。口さがない者たちは言う。


『何故わざわざ又四郎様のような幼子を当主とするのか』『御次男様(尼子国久(あまごくにひさ)のこと)が当主でいいではないか』『政久様の血筋は呪われている』『笛などにうつつを抜かした大将の血筋など』


生きている間はあれほど持て囃された父は、亡くなった途端に陰で誹謗中傷を受けていた。最初の頃は何を言われているか分からなかったが、その大人たちの表情は決して父を褒めているようには見えなかった。そして成長するごとにその意味を理解した。


父は、常々話して下さった。私を膝に抱き、『これから尼子はさらに大きくなる。そして又四郎。其方が元服したとき、更に尼子は大きくなる。尼子は代を経るごとに大きくなるのだ』と。父は常に尼子家がどうすれば大きくなるかを考えて下さっていた筈なのだ。なのに、何故そのようなことを言われねばならない。悔しかった、憎かった。


私は一体、なんのために生きているのだろう…。父上、私は…。







「殿、殿…」


ゆっくりと目を開けると視界には妻の千代(ちよ)が不安そうに此方を見ていた。千代は心配で見に来てくれたのだろう。

やはり夢であったか。頻繁に見る夢だった。そしてこの夢を見ると必ず嫌な汗をかいていた。どうやらこの持仏堂(じぶつどう)で祈っていた途中で眠ってしまったようだ。持仏堂とは言ってもこのお堂には仏はいない。父と母の位牌、そして父がいつも愛用していた笛があるだけだ。


仏とやらはどうやら、祈っても願いを叶えてくれるような存在ではないことは小さな頃に痛いほど理解した。こうして私が祈るのは、せめて父と母が死後の世界で仲睦まじく暮らせるようにと祈るだけだ。それにこのお堂に籠っていると、父の笛の音が聴こえてくるような気がした。ここに居る時と、この千代と二人きりでいる時だけが私が唯一安息を得られる場所だった。


千代は、唯一私の心を理解してくれた人間だった。家族を失い心を閉ざした私の悲しみに寄り添い、涙の出ない私の代わりに泣いてくれた女だった。

紀伊守(きいのかみ)尼子国久(あまごくにひさ))の娘とは思えぬ健気さよ。大事にしなければならぬ。私の今の唯一の家族だった。その千代のか細い手が私の額を撫でた。指先には私の汗が濡れている。


「また(うな)されていたか」


「はい、…大丈夫で御座いますか?」


「…ああ、心配ない。また心配を掛けたな」


「良いのです。私が、三郎様の苦しみを少しでも和らげてあげられれば良いのですけど…」


申し訳なさそうに千代はそう言って俯いた。別にそこまで気にする必要は無かろうに。自然と笑みがこぼれた。千代の前でだけ、自分を素直にさせることが出来る。


「其方が気にすることではあるまい。千代はただ側にいてくれるだけで良い」


「私は、何時いつまでも、三郎様のお側から離れたり致しませぬ」


「ああ、ありがとう千代」


だが、こうして私を気遣ってくれる妻の父、紀伊守を私は討ったのだから誠、皮肉なものだな。だがあれ以上、新宮党の専横を許しておくことは出来なかった。千代には辛い思いをさせてしまった。だが目の前の千代はそのような様子をおくびにも出さずに私を気遣ってくれていた。そっと手拭いが手渡されながら千代はここに来た理由を教えてくれた。


飛騨守(ひだのかみ)宇山久兼(うやまひさかね))殿とのお約束の時間が近づいておりましたの。ご準備は大丈夫ですか?」


「む、そのような刻限か。転寝にしては長い時間を浪費してしまった。すぐに向かうとしよう」


飛騨守は年も近く私に忠を尽くしてくれる家臣の一人だ。老臣たちがわが父を謗る中で飛騨守は父の偉大さを理解し私とその希少な価値を共有してくれた男であった。


その飛騨守を中心に家臣団を再編成した。

家中では私の家督継承に少なからず不満の声があった。わざわざ若い私を当主とするなら父の弟である紀伊守に継がせた方が良いのではないか。そのような声は常にあった。

紀伊守はなまじ強かった。強い当主を戴きたい気持ちが理解できぬわけではないがあのような戦しか頭にない男に何が出来るのか。それに尼子家の嫡流は父で、その息子たる私が尼子家を継承するのは当然ではないか。

祖父の代からいた口喧しい老臣たちを遠ざけ、多少強引にでも若い世代に家督を継承させ少しずつ私の地盤は固まりつつある。


その結果として毛利家には吉田郡山城の戦で敗れてしまったが下野守(尼子久幸)を葬ることが出来たのは僥倖であった。

祖父の弟である下野守はその立場上、家中においても絶大な発言力がある。

祖父が亡くなった後であればさらに厄介なことになっていたであろう。それに紀伊守を跡継ぎにした方がいいと最初に言い出したのは奴だという事も知っている。


誤算があったとすれば予想以上に毛利の抵抗が激しく、また大内軍の予想以上の援護のせいで他国から尼子の敗北の印象が強く付いてしまったことだ。そのせいで尼子領が各地で騒がしくなり遠征を繰り返す羽目になった。

当初の目的としては老臣たちを前線に出してあわよくば討ち死にさせること。援軍として来るであろう大内家に打撃を与えることが出来ればと考えていたのだ。

その為に評定ではわざわざ怒りを見せて開戦に踏み切ったのだが、上手くは行かないものだ。それに石見の銀山を失ったのは痛かった。長門の公家かぶれ(大内義隆)がまさかあそこまで大掛かりに兵を動かすとは思わなんだ。今言ったところで詮の無いことではあるが。


だがこの戦でよく分かった。

毛利家を侮るわけにはいかぬ。侮っていい相手ではない。

毛利元就、あの男は危険だ。格下と侮れば滅びるのは我等であろう。この休戦期間のうちに我等も準備を進めなくては。


千代が持っていた手拭いを受け取り身体を拭いてから持仏堂を出た。部屋に戻ると既に飛騨守が待っていた。飛騨守の隣には伊豆守(いずのかみ)佐世清宗(させきよむね))も控えている。伊豆守は若いながらに奉行衆として頭角を現し今は飛騨守と共に動いてくれている男だ。二人は私の姿を確認するや深々と頭を下げる。


「良い。面を上げてくれ二人とも」


「はっ。それでは失礼致します」


二人と向かい合う様に私も座ると早々に頭を上げさせた。私の声に二人もすぐに頭を上げる。


「それで、今後のことについて話があるそうだが」


私の言葉に飛騨守と伊豆守が二人で顔を見合わせる。どちらが話すか譲り合っているようだ。それを黙って見ていると若い伊豆守が話し始めた。


「毛利家との一連の戦を我々でも検証を致しました。こうまで毛利家に食い下がられた原因は情報の少なさが要因にあると思われます」


「…鉢屋衆か。確かに内向きに重点を置きすぎたかもしれんな」


「左様に御座います。必要ではありましたため仕方なきことに御座いますが。殿の地固めの為に鉢屋衆の目が内に向いていたために毛利の動きを事前に察知できませんでした。毛利にも世鬼衆なる隠密がいるようですし右馬頭(うまのかみ)(毛利元就)がその情報を上手く扱っているのでしょう。ですが尼子家も殿の旗の元、しっかりと纏まりを見せてきておりますのでそろそろ鉢屋衆の目を外に向けさせたいと考えております」


「そうよな。家中の掃除に時間を掛けたがそろそろ良かろう。他には?」


私が次に話を振ると次に飛騨守が口を開いた。


「失礼ながら殿が跡を継いでより上方との繋がりが希薄になっておりまする。それにより備中の戦では幕府からの横槍を入れられ申した。これを防ぐために我等も多少は財を吐き出す必要があろうかと…」


「…」


言いにくそうに飛騨守がそう言った。飛騨守にも分かっているのだろう。我等は最大の財源であった石見の銀山を失ったせいで銭周りが悪くなっている。今のところは蓄えがあるもののそれとて戦に次ぐ戦で少なくなっているのだ。これから毛利家を滅ぼすために蓄えは削りたくはないが、飛騨守の言っていることも確かだろう。


今回の幕府の横槍は我等にも紀伊守を葬る利があったが故に受け入れた。だが毛利と相見える際に再び休戦を申し込まれては堪らぬ。それに毛利家が幕府を動かせるという状況自体に危機感を持つべきか。小さく溜息が漏れた。


「…ふう、仕方あるまいな。力を失ってはいても今の状況で幕府に目を付けられては動き辛いか。であるならば拍付けに官位でも得ようか」


「良き御思案かと」


「それが宜しいかと」


二人とも賛成か。それにしても老臣や新宮党を消すために力を使い過ぎたか。ここまで毛利如きに食い付かれている状況に不快を覚える。だがここで毛利を消すことが出来れば尼子家は再び力を取り戻すことが出来よう。


「殿が上洛なされては如何か?」


「む?」


「当主自ら上洛すれば上方の覚えも良くなりましょう。毛利家は右馬頭が直接顔を見せている訳では無いでしょう。忠誠は無くとも誠意を見せることは出来ます」


伊豆守の不意の提案に思考が中断される。上洛か。この時期に。いや、この時期だからこそか。それに文化の中心である上方の今の状況をこの目で見るのは良い経験かもしれぬ。父も時の天皇にその才を認められたと聞く。ふむ、良いかもしれぬ。


「時期は任せる。上洛の準備を頼む」


「畏まりました」


「殿自ら行くのは危険ではありませぬか?」


飛騨守が心配そうにこちらを見ている。


「各所に先触れを出せば良かろう。それにそれなりに兵も連れていく。三河守を側に置いておけば危険も無かろう」


「…それならば。仕方ありませんな」


「共に行くか飛騨守?」


「御冗談を。私が残らねば政務に支障が出ましょう。代わりに伊豆守をお連れ下され」


「宜しいのですか?」


「殿がお許しになればな」


私の許可を求める様に伊豆守が目を爛々とさせていた。私や飛騨守よりも一回り若いせいか先ほどまでの落ち着いた様子が嘘のように身を乗り出している。

隣で可笑しそうに飛騨守が笑った。仕方のない奴だ。


「では共に行こうか、伊豆守」


「はっ!ありがたく!」


随分と京の都は荒れていると聞く。だが行くことに少なからず意味はあろう。帰りに堺にでも寄ろうか。銀山を失ってから大陸との付き合いも少なくなった。堺にならば今も来ているだろう。多少は銭を得なければな。再び尼子を輝かせれば父上も喜んで下さるだろうか。

【新登場人物】


尼子松   1490年生。山名家の姫。尼子政久の正室。尼子詮久の母。夫の死に耐え切れず衰弱死。+40歳  

尼子千代  1522年生。尼子国久の娘。尼子詮久の正室。父と夫が必ずしも上手くいっていない中で心を削りながら、それでも夫に尽くす女性。+8歳


宇山飛騨守久兼  1511年生。尼子家筆頭家老。詮久からの信頼篤い尼子家の忠臣。+19歳。


佐世伊豆守清宗  1521年生。尼子家次席家老。詮久からの信頼篤い尼子家の忠臣。+9歳。

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